At Eden

目が覚めて、研究をして、食事をして。リタはいつもと変わらぬような生活を送りながら、なにかが抜け落ちたような感覚をおぼえていた。

 

新居昭乃さんの『At Eden』という曲をイメージして書いたレイリタです。最後の一節は歌詞の一部から引用させていただきました。


 

 

頬をつたう涙の感触で、目が覚めた。

ぼんやりと広がる視界に、リタは軽い目眩をおぼえる。眩しいと思った。部屋を照らす光は電灯ひとつだというのに。

ベッドから下りると、くしゃ、となにかを踏みつけてしまった。拾いあげてみると、何か数式や文字がびっしりと書かれている。それを見て、研究の途中で眠ってしまったことを思い出した。どうしてもまとめなければいけないことがあって、必死に書き連ねていた気がする。踏みつけたものは下書きのメモで、まとめなおしたノートは机の上にきちんと広げられていた。眠る前の自分を少し褒めたくなった。

頭がぼんやりとする。どれくらい眠っていたのだろうか。床に散らばった本を見つめながらしばらくぼうっと立っていた。それから思い出したように、のろのろと探していたはずの本を山から引き出し、机の上に放るように置いた。

床に積まれた本のあいだを縫うように歩き、台所へ向かった。長いこと胃になにも入れていない気がする。適当にパンでもかじって、と思いかけたところで棚に伸ばした手が止まる。たまにはちゃんと食事をとらないとまたうるさく言われてしまう。野菜は、肉は、バランスは、と細々指摘する声が耳に蘇った。しぶしぶ貯蔵してある食材を確認し、思案する。献立を考えるのは苦手だった。

「……しょうがないわね」

ひとり、ぽつり呟く。棚から食材を出してひとつずつ並べる。しんとした部屋に、調理の音だけが響いた。

 

 

――――

――――――

 

 

「ほーら、そろそろ切り上げてこっち来なさいなって、冷めちゃうわよ」

ドアの向こうから声がするも、リタは書物から目を離せないでいた。がさごそと資料を漁り、該当のものを見つけ出しては思考を書き連ねる。

「もう……あとちょっとで一区切りつくんだから、待ちなさいよ……」

今中断するととても中途半端だ。思考の大方を取られたまま返すと、ガチャリとドアの開く音がした。

「もーリタっちったら……熱心なのか馬鹿なのか」

「……バカ?バカって言ったわね今このあたしを?」

思わずがばりと勢いよく顔を上げると、すぐ隣に微笑む顔があった。

「いんや、何も言ってないわよ?ほら、続けないの」

飄々と言ってのけながら、いつの間にかそばに腰を落ち着けている。顎に手を当てながら、にやにやと笑ってみせているその様子に、リタはそのまま座っていられるわけがなかった。

「……っ!何どっかり座ってんのよ!集中削がれちゃったじゃない!」

床に座り込む男に人差し指を突きつけて、勢いよく立ち上がった。赤い顔で床に資料を叩きつけると、バタバタと大きな足音を立てて居間へと向かった。後ろから、やれやれ、という声が聞こえて、リタはむうっと唇を噛んだ。

 

「食べ終わったら診せなさいよ」

フォークでレイヴンの胸のあたりを指しリタは短く告げた。

「食事の席で開口一番の話題がそれぇ……?」

「なに、文句あんの」

「いや、ありませんとも」

そう言いながら少し不満げな様子で炒めたチキンを口に運ぶ。

「でもさ、最近リタっちよく食べるよね、成長期?」

「はあ?」

リタが睨むとレイヴンは肩をすくめ、あさっての方向に視線をそらした。食事の時間が楽しみになったのはいつからだろうか。リタは考えた。旅をしていた頃も、みんなで食べるご飯は好きだった。けれど旅が終わりまた一人で暮らすようになって、リタはたびたび途方に暮れることがあった。お腹がすいたらどうすればよかったのだろうか、どうやって栄養を補給していたのだろうか――いつからか、食事の時間にはレイヴンがともにいた。家で簡単にできる調理も教えてもらった。といっても、今はレイヴンが作ってくれたものを食べることがほとんどなのだった。

「……そんなに睨まないでよ、リタっち」

レイヴンの声で我に帰る。口の中にあったチキンはとっくになくなっている。

「……べつに、睨んでないから」

そう答えると、レイヴンは不思議そうな顔をして、なぜか微笑みを浮かべてみせるのだった。少しむずむずとして、落ち着いていられなくなる。リタがフォークを置こうとすると、野菜の残った皿をちょんとつついてきた。

「リタっち、残ってるよ」

「むっ……誰もご馳走様なんて言ってないでしょ、食べるわよ」

「本当かねぇ?」

野菜をつぎつぎと口に運ぶ。苦い味に顔をしかめる。向かいでくつくつと笑う声。それがいつものことで、あまりにも自然で、いつもの風景であることすら、わからなかった。

 

 

――――

――――――

 

 

食事を終えると、リタは台所に皿を運び冷たい水で洗い始めた。指先がかすかにじんじんと痛む。水滴に濡れた皿を横に置こうとして、ふと隣を見てしまった。どちらかが洗い、どちらかが拭く。流れるような作業の心地よさ。一人分しかない皿洗いは、考えごとをしている間にいつの間にか終わっていた。

時間はとうとうと流れる。上から下にすべり落ちる水のように。食事をして、片付けをして、研究をして、いつの間にか眠って、目が覚めたら掃除をしてみたり、日常作業というものはひどく変わり映えのしないものだった。ここにはリタ一人きりで、例えば声をだしてみても、なにも返ってこない。

ふとすぐそこに飾ってあったカレンダーに目をやった。なんの装飾もない、日付だけが並べられた素っ気ないものだった。いつだっただろう、ぼんやりと思い返してみる。この紙にはその日付がなかった。一枚めくろうとして、思い直す。次の紙にも、あるはずがなかった。

「この前の月、いや……そのひとつ前?」

記憶が煙に巻かれたようにうすぼんやりとしているように思えた。もうはっきり思い出せないくらい、押しやられてしまうくらい遠くの話だっただろうか。目を閉じて、あの鮮烈な色を懸命に思い浮かべる。羽織が片隅からひらめいて、だらしなく手を振っていた。

リタは目を開いて、ほうっと息をついた。まだ思い出せる。名前を呼ぶ声も、頬に触れた手のつめたさも。

「……いつまで待ってればいいの」

ぽつりと虚空に問いかけてみる。当然返ってくるのは静寂ばかりだった。一人でいるのは慣れている。けれど待たされるのは嫌いだった。気がかりばかり増えていき、余計な想像までしてしまう。やわらかな水の流れる音が暗闇から聴こえる。窓の外は雨が降っていた。

 

 

――――

――――――

 

 

「雨、よく降ってるわね」

レイヴンは窓のほうを見てふと呟いた。外から聴こえる雨の音が、二人のいる部屋をしずかに満たしていた。

「ふうん」

リタが本のページをめくりながらそっけなく答えると、まあそうか、というように隣で小さく息をついた。

「……なーんか、雨の音聴いてると、いろんなこと、考えちまうのよねえ」

ぺらり、とまたページを繰りながら、リタはほんの少しだけ体を隣へ寄せた。

「これまでのこととか、これからのこととか……もし、リタっちが――」

そこでレイヴンは言葉を切って、しばしの間何も喋らなかった。どこからか、地面に溜まった水が流れていく音が聴こえる。小さなせせらぎのような響きだった。

「リタっちは、そういうこと、ないの?」

レイヴンは一転調子を変えて、明るく問いかけてきた。

「べつに、あたしは晴れでも雨でもいつも通り過ごすだけよ」

「……まあ、リタっちはさすがよねえ」

腕組みしてうんうん、と頷く。レイヴンのほうをちらりと見やると、またなにごとか考え込んでいるような、ぼんやりとした表情に戻っていた。

「……さっき、なんて言おうとしたの」

「え、さっきって?」

「さっきはさっきよ」

またしばし沈黙が訪れる。こういう風に聞くと余計に本当のことを答えてもらえないのは分かっていた。表紙と裏表紙に置いた手を引き寄せると、パタン、と空気が動いた。

「……リタっちがいる間は、安心安泰ってことよ」

リタの頭に大きな手のひらを乗せてきた。静かな話しかただった。数度ゆっくりと頭を上下させる。

「大丈夫、だいじょーぶ」

歌うように節をつけた言葉は、しめった空気の中に軽く溶け、けれど水をふくみ重みを持った土のようにずっしりと残った。リタは黙ったまま、目の前の男の視線の先を見つめた。雨で煙って、なにも見えなかった。

 

 

――――

――――――

 

 

また眠っていた。いつもずっと起きていたような生活だったのに、最近はよく眠っているような気がする。リタはぼんやりとした頭を持ちあげ、ソファに膝を抱えて座りなおした。

「……続きをしないと」

ふらりと立ち上がり、自室に向かう。机に広げられた小さなノートには、文字と数式が書き連ねてあった。リタは床に散らばったメモを拾いあげ、それをノートのそばに並べた。ペンを取り、淀みない動作で続きを綴っていく。その間は無心でいられるように思えた。研究のそういうところをリタは好んでいた。

ふいに、物音がした。玄関から聞こえた。リタは大きな音を立てて椅子から立ち上がった。ほとんど何も考えずに部屋を飛び出し、玄関へと走った。

「……あれ」

リタは倒れこむように扉を開けて、しばし放心した。その先には誰も立っていなかった。辺りの空気はしんと静まり返っている。人影も、足音も、なにも聞こえない。はあ、と胸の奥から息がこぼれた。何を考えてこんなに急いできたのか。少しでも想像した自分が嫌になった。足元へ視線をやると、赤色でまとめられたささやかな花束がそっと置かれていた。

「……こんな物だけ置いていくなんて、いったいどこのどいつよ……」

ときどきあることだった。ドアの外に置かれていく花束。どこの誰とも知らぬ人からの贈り物。普通なら不気味と思うほかないが、手にしているととても懐かしいような、不思議な気持ちに包まれるのだった。そして、少しの寂しさも。だから、リタはいつもその花束を捨てられなかった。

部屋に戻って、リタはその花束をテーブルの真ん中に飾った。やさしい赤色が少し殺風景ともいえる部屋にあたたかな彩りを与えてくれたように思えた。

「あたしは、元気にやってるわ」

花びらにふれながら話しかけるように言う。元気とはどのような状態のことか、リタは口にしながら不思議に思った。困っていないこと。みたされていること。リタは何の不自由も感じていない。ただ、とても大事なものを、どこかに落としてきてしまった。ぽっかりと抜けおちて足りないという感覚。

「……静かすぎると、考えごとが増えるのね」

パンくずの乗った薄青い皿に赤い影が落ちている。リタはその色に指先で触れ、飽きるまでじっと見つめつづけていた。

 

 

――――

――――――

 

 

「う……うあ……」

声が耳元で聞こえてリタは反射的にがばりと起き上がった。部屋は薄暗く静かだった。すぐそばの背中に触れてみると汗で寝間着が湿っているのがわかった。

「ちょっと、起きなさい」

呻きに揺れる肩をつかみ、一刻も早く起こそうとした。これまでも度々あったことだ。焦りながらも、リタの対応は冷静なものだった。

「あ…………」

ひどく怯えたような瞳が暗闇にのぞく。リタの姿をとらえると、じわじわと焦点が合わさった。かすかに瞳の中に光が灯る。

「……目、覚めた?」

リタがじっと目を合わせて声をかけると、レイヴンは少し間をあけて、かすかに首を縦に動かした。

「あんた、夢見が悪すぎるんじゃないの」

「いやいや、年をとると眠りが浅くって……」

「年寄りは大変ね」

「って、誰が年寄りよ」

「自分で言ったんでしょ」

もうはっきりと覚醒した様子のレイヴンを見ながら、リタは気づかれないようにほっと息をついた。この男の隣で眠るようになってから、リタはすぐそばの温もりを手に入れた代わりに、今まで経験したことのなかった心配事も抱えることになった。

「念のため、診せて」

短い言葉で、レイヴンはベッドの上にきちんと居直ってみせた。すこしくたびれた笑みを口もとに浮かべている。魔導器の筐体が、汗と思われる雫で濡れていた。ずいぶんひどい夢だったのだろうと思った。

リタはいつものように術式を展開させ、ノートへ数値を記録していった。以前、悪夢にうなされた後、レイヴンが急に胸を押さえて苦しみだしたことがあった。どうやら悪夢は、魔導器にまで影響を与えることがあるらしい。そのためにリタはノートをいつも枕元に置いているのだった。

「そのノート、ページが切れそうね」

「ああ、本当ね」

「新しいの、買いに行こっか」

「そうね、記録するのにまとまった紙がないと困るし」

下を向いたままペンを走らせるリタを、レイヴンは静かに見つめていた。薄暗い部屋の中、向き合う二人の影がそっと伸びる。月明かりだろうか、青白い光が差し込み、部屋の中は水が満ちたように透きとおった静けさだった。

「……雨が降ってた」

「え?」

窓のほうに視線を投げかけて、レイヴンはそっと呟いた。

「リタっちが、いなくなっちまうの」

明るく語ろうとつとめながら、けれど哀しみと、絶望をふくんだ声だった。

「どこにもいなくて、探すんだけど、いなくって、まあ、気づくわけよ」

リタは閉じたノートを両手で膝に置いて、ただじっと聞いていた。

「……ああ、やっぱり俺は置いていかれるんだって」

なにも言えなかった。すべてが絶えた世界から届く声。ぎゅっと握りしめた拳が震えた。灰色の何もない空間に、一人天を仰ぐ男の姿が見えた気がした。まだ夢をみているかのようなふらふらと落ち着かない口調が、痛いほど胸を掻き立てた。

「……ん、あ、あら、ごめんね、おっさん、ついおセンチになっちまったわ、忘れてちょうだい」

はは、と少し焦ったように頭を掻きながら、さっきまでの空気をかき消そうとする。レイヴンが夢について語ることは、ほとんどなかった。いつも、内容については口を閉ざして、話してはくれなかった。本当につい、はずみで口から出た、というふうだった。

「……どこに、置いていくっていうのよ」

はっきりと言ったつもりが、存外震えた声が出た。ノートの表紙に、少ししわが寄る。

「あたしは、置いていくつもりも、置いていかれるつもりも、ないわ」

今度は、強い口調で言い切ってみせた。なにも、言葉は返らない。リタは飛びつくように、目の前の男の両手をしっかりと掴んだ。

「ここに、あたしも、あんたも、ちゃんといるでしょ……」

体が、ふいにぬくもりで包まれる。力のこめられた腕が、背中を強く引き寄せた。言葉もなく、ただそのままでいた。言うべき言葉も、もう出なかった。ほう、とこぼれた息が肩を撫でる。時々、かすかな震えが体を通じて伝わる。リタは目を閉じて、生ぬるい胸のあたたかさに、そっと頬をすり寄せた。

 

 

――――

――――――

 

 

ふたたび、雨の音で目覚める。窓の外は暗かった。ぼうっと光る暖色の明かりに、テーブルの上の花々が浮かびあがっていた。その形は、この部屋で唯一息づいているもののように見えた。

リタは窓のほうへ近づき、外を眺めようとした。雨に濡れた地面が等間隔で並ぶ街灯に青白く照らされ、向こうのほうまでずっと続いていた。道の先から、誰か歩いてこないかと目をこらしてみたが、人影ひとつ見当たらなかった。誰か。ここでずっと、待っている。

「……ばか……」

リタは冷たい窓に頬をつけて、唇をかるく噛んだ。窓を流れる雨の雫が、うろうろと彷徨いながら降りてくる。その跡を指先でなぞると、雫がまるで指の動きに従うように不思議な模様を描いた。外からどこまでも静かな雨音がしとしとと耳元に響いてくる。

 

――どこにいるの?

もういつからこうしているのか、わからなくなっていた。リタの待ち望んでいる時は、永遠に訪れないかもしれない、そうふいに思って、怖くなった。

 

――いま、何をしてるの?

リタにはそれを知る術がない。そばにいるときだって知っているとは言い難かった。それでも、会うことさえできれば。

 

この雨の向こうに行くことができたら。あの道をずっと先に進めば。リタは食い入るように闇の先を見つめた。

「行かなきゃ」

それはほとんど無意識の行動だった。気がつけばリタは自室の机からノートを懐に抱きしめ、ふらりとした足どりで扉の外に出ていた。雨が頭上から降りおちているはずなのに、体は濡れる気配がなく、すべて体の内側へ吸いこまれていくような心地がした。薄暗い道を飛ぶように駆けた。駆けるように飛んだ。それは夢の中の旅のように現実感がなく、ぽつりと浮かびあがる灯りがつぎつぎと後ろへ流れていった。距離も時間もない。けれどリタの中にははっきりした想いだけが息づいていた。行かなければならない、と。

 

 

――どこに行くのか、知ってるの?

――いや。

――じゃあ、そんなに行きたがるなんて変じゃない。

――そうね、すごく暗くて、さみしいところかもね。

――そんなの、想像にすぎないでしょ。

――でも、そこが俺にはお似合いのような気がする。

――当たり前でしょ、遅かれ早かれ、みんなそこに行くんだから。

――みんな……そこで楽しく暮らしてるのかね。

――それなら、気長に待ってたらいいじゃない。案外、ここと変わらないかもしれないわよ?

 

 

 

いろいろな風景を見た。ざわめく街。懐かしい顔ぶれ。ちいさな式。鮮やかな花。

その中のひとつにあった風景。そこは仕切られた区画だった。四角い形の石が規則的に並んでいる。街はずれのようで、人はいない。と、思うと、ひとつの石の前に二人の人影を見た。一人は黒髪で背が高く、もう一人は桃色の髪の女性と見受けられた。女性は赤色の花束を手にしており、ふいにひざまずくと、石の前にその花束を捧げるように差し出した。それはどこか神聖に見えて、そして懐かしさと、さみしさを感じさせるものだった。リタは遠くからそれを眺めていた。胸の前で組んだ両手に力をこめながら。

やがて目の前が霞んで、その景色もうすれていった。だんだんと、雲のような霞に取り巻かれていく。耳元にしずかな雨の音。空気に包まれて、飛ぶように、けれど、流されるように、リタはその場所へたどり着くことを願い、手を伸ばした。まだ息をつづけているあの場所へ。

 

 

 

気がつけば、そこに立っていた。暗闇にみたされた部屋の窓際。ベッドと、棚と、机と、その他はなにも置かれていない。自分の部屋と似ている、と思った。みたされているのに、何かが欠けてしまったからっぽの空間。その場所から出られずに閉じこめられている。

――やっと、わかった。

リタは、自分の背から差す銀色の光を見て、ようやくすべてに思い至った。なぜここに来なければいけなかったのか。自分が、“どこから”来たのか。

「……レイヴン」

その銀色の光の中には、黒いシャツをまとった男が背中を向けて眠っていた。暗闇に溶けそうな姿。半分が空いたベッド。その空白にそっと膝をつく。

手を伸ばして、こちらからは見えない頬に触れてみる。ざらりとした感触の肌が、かすかに濡れていた。頬がとてもつめたくなっている。リタはかすかな温もりを与えるように、そっと指先を動かした。

「……ん」

レイヴンが身じろぎして、肌にふれる何かを確かめようとする。浅黒い手がふらりとリタの手をつかんだとき、その目がゆっくりと、そして大きく見開かれた。

「…………え…………」

驚きにみちた碧の瞳はがらんどうだった。まるでガラス玉をみているようだと思った。信じられないものを見るような空っぽの瞳。少し胸がきしりと痛みながらも、底知れぬ懐かしさをおぼえて、リタは唇をきゅっと軽く噛んだ。

「……レイヴン」

リタがもう一度名前を呼ぶと、レイヴンはますます驚きの色を表情に広げた。それはもはや驚きというよりも呆然としているといったほうが正しかった。

「……リタ、っち……?」

かすれた声で名前を呼ばれて、リタはやわらかに微笑んだ。あたしの顔、もう忘れたわけ?そう言いかけて、飲みこんだ。光のない瞳にリタの姿のみが揺らぐ。

「……泣いてたの?」

リタの問いかけに、レイヴンは初めて見るような、とても情けないと言える顔をした。すべてはがれおちてしまって、もうなにも取りつくろえない、ほんとうの深い悲しみだった。

「ずっと、ひとりでここにいたのね」

レイヴンの表情を目にするだけで、胸が音を立ててばらばらに崩れおちそうだった。それは後悔とも罪悪感ともつかない、もっと痛くてやわらかいものだった。刺すようでいて、離したくはないもの。レイヴンを見つめるリタの表情から微笑みが消えることはない。

「あたし、ずっと待ってる夢を見てたの」

ひとりきりの部屋。そこでいつかの時を待っていた。けれどその時を待ち望む自分は、今の心とは重なることはない。雨は、夢の外でいつも降っていた。

「まるで置いていかれたような気持ちでいた……でも……」

レイヴンは呆然とした顔のままでいた。まだ夢の中にいるかのように。そのぼうっとした顔の輪郭を、そっとなぞる。言葉でうまく思い出すことはできないけれど、リタの胸はいとおしさと幸福感で満ちていた。どうしても会いたかった。それだけでここまで来た。

「けど、謝ったりなんかしないからね、あたしも同じだったんだから……」

「……リタっち……俺は……」

震える両手がこちらに伸びる。なにもかもに打ち砕かれたひとが救いを求めるような仕草で。いつもどこかそんな風だった。それさえいとおしいと感じる。

リタはその腕のあいだをすり抜けて、空っぽの表情にそっと口づけた。少し塩からい味を感じた。ふいにさす銀の光が一筋の雫を照らしだす。それをそっと指先で受けとめた。

「……一人でいると、静かだった。あんたがいないから」

この人を、とても好きだった。そんな風に言葉であらわすと軽くて、どれも違うように感じられた。腕とか足とか、もっと大事な、体の奥深く、自分の一部だった。

「でもよく考えたらべつに、あんたもそんなにうるさくなかったわね」

どんな会話を交わしただろう。一人のときと比べてどれくらい違っていただろう。どれだけ静かでも、そこにいるだけでなにもかも違った。それをこの瞬間リタは痛いほど噛みしめていた。

ベッドの上で呆然と佇んだままの男を、窓からのかすかな光が映しだす。かさついた頬のしわが、すこしだけよく見えるようになったと思った。

「……ねえ、あんた、夢見はよくなったの?」

「…………あんまり」

かすれた声で答えた。すぐそばで体にふれるリタのことを、じっと見つめたかと思えば、戸惑ったように目をそらす。

「……あたし、最近気づいたことがあるの」

体を向き直して、ぼんやりと光をもった窓のほうを指し示してみせる。

「夜って、案外明るいのね」

いつか黙って抱きあった夜。眠れない、と言ったから、ずっとそのままでいた。そうしたら、いつの間にか外は薄い光にみちていて、二人でぼんやりとした明るさのなかそっと笑った。

「あかるくて、思ったより、ずっと短くって、いろんな音が聴こえる」

雨が景色を白く閉ざしていた。外の世界も、遠くの音も。けれど、きっとこの雨はいつか止んで、まぶしいほどの世界とつながると知っていた。

この部屋も、ずっと閉ざされていた。夜も朝も見えず、限られた同じ空間と時間のなかから出られない。リタはずっと“ここ”にいたのだ。どこよりも近く同じで、そして一番遠い場所。

リタはたまらずレイヴンの背に手を回し、頬に感じる熱を確かめた。確かに生きている。それはなによりも、リタが待ち続けた意味だった。

「あたし、うまくやってるから」

胸元に顔を埋めたせいで、声はくぐもって聞こえた。

「おっさんがなにも心配すること、ないんだから」

なにかが頬をつたう感触がした。それがレイヴンの服にしみ込んだかと思うと、ふうっと風に飛ばされるように消えていく。わずかな糸が切れようとしている。もう涙ですら、ここに残していくことはできない。

「大丈夫、あんたが思ってるより、悪くなかったわ、これは画期的な報告でしょ?」

リタはレイヴンからそっと離れ、にっと笑って言ってみせた。困惑の表情を変えないレイヴンは、リタの背から射す光にただ目を細める。

「だから、気長に待ったらいいと思うわ、そのうち、待ってることも忘れるくらい」

リタは穏やかな気持ちに包まれていた。なにも変わることがないとしても、自分の満足のためだけだったとしても、きっとここに来た意味はあった。ここまでたどり着くことができたのだから。生きていることを確かめられたのだから。

「あたしも、期待せずに、待ってるわ」

白い光が、リタを包みこんで、視界を閉ざした。水音が体にしみ込む。雲が去る、切れ目が来たのだ。

「リタっ……!」

目を閉じる一瞬前、こちらに手を伸ばし、叫ぶレイヴンの姿が見えた。その姿が、ふわりと瞼の裏にひらめいて、そして霞の中に消えていった。

 

何の音も聞こえない。何も見えない。けれど、どこからか水の流れる音がする。遠くでまばゆい光がきらめいている。朝が、あの部屋へゆっくり降りそそごうとしているのだ。

リタの体は動いているのか止まっているのか、浮いているのか落ちているのか、それさえもはっきりとはわからなかった。ただ、今までいた場所から、どこにもない場所へ向かっていくのだと、それだけは感じ取れた。そして、どこにもないということは、どこにでもあることだと、今のリタはそう思うことができた。

「……一番、本気って顔、してたわ」

そっと呟いた声は、しゅうと湿った空気の中に溶けていく。リタはそっと目の前の空気を抱きしめるように、腕を伸ばした。生温かい風が、胸のすき間を通り抜けていった。

 

 

 

 

鳥の声がどこからか聞こえる。そっと目を開けると、部屋の中は薄明るい光に満たされていた。

レイヴンは起き上がると、しばしぼうっと虚空を見つめ続けた。とても悲しい夢を見たような気がする。胸に穴があいたように、ひゅうひゅうと痛む。瞼の裏にひらめく銀色の光。夢だとは思えなかった。けれど、夢だと思わないと、耐えられなかった。

あんな夢の後でも朝が来るなんて、なんて残酷なことだとレイヴンは思った。よろよろとした足どりで立ち上がると、床がみしっと軋んだ。足元の酒瓶がこてん、と一本倒れる。なにもない部屋。なにも返らない部屋。これからも、なにも生みだされることのない、動かない空間。

 

ふと、殺風景な部屋に似合わないものを見つけ、レイヴンはそちらに近づいた。最低限の仕事書類だけが置かれた机の上に、鮮やかな赤の表紙のノートがきちんと置かれていた。この色には見覚えがあった。“彼女”がいつも使っていた――

そのノートを手に取ると、レイヴンは魅入られるように、ページをぱらぱらとめくった。そこには、ただ、数式と、図と、専門用語らしき走り書きが、所狭しと綴られていた。ページの端から端まで、隙間なくびっしりと、研究の証が残されていた。式や用語の意味ははっきりと理解できずとも、これが何について書かれたものなのか、どういう用途で使われていたものなのか、レイヴンは悟ることができた。ギザギザの曲がった線で書かれた、筐体と魔核の形。

「……心臓、魔導器……」

そこには研究に関すること以外は、何も書かれてはいなかった。落書きとか、メッセージとか、そういったものを探してみても、そこにあるのはおびただしい数の数字と、式と、図と、最低限の言葉だけだった。

ただ、最後のページに、一つだけ違うものが記してあった。

 

『最重要資料No.1

――No.2に続く』

 

他のページの文字より丁寧に書かれた一文と、それからいつもの名前のサイン。

レイヴンはノートを胸に押しつけるように、強い力で抱きしめた。まるで“彼女”自身であるかのように。確かにここに残されたものは、“彼女”そのものだった。どうしようもない一人の男のために、そして自分自身のために、捧げた時間と命の記録。なにも終わっていない、そう言われているような気がした。これを届けに来た“彼女”に、何も言うことができなかった。何も言えないくらい、無様だった。きっとそんなことは最初から分かっていたのだろう。“彼女”はかつてのように、力強い笑みを浮かべていた。

「……連れていってほしかったのに」

いつかちいさな体をこの腕の中に抱き寄せたときのように、限りない熱を抱きしめているような気がした。小さな火が、ここで息づき燃えている。彼女のかぎりない力が深いところへ流れこんでくるような心地がして、レイヴンはうち震えながら、静かに涙をこぼした。

「……まだ早いから、ここで待ってろって?」

涙をたたえた目で、レイヴンはそっと天を仰ぐように、窓の外を見上げた。窓からは朝の光がきらきらと差し込み、そのまばゆさに目を細めた。雨上がりの、澄んだ空気があたり一面にみちていた。涙に光の粒が揺れる視界のなかで、レイヴンはそれを、ただただ美しいと思った。

 

 

 

 

 

―I'm living in Eden

where is still beautiful―


あとがき

 

初めに、このあとがきは長いわりにかなり蛇足だと思うので、本編への説明や付け加えなどを必要としない方はお戻りになることをおすすめします。書いた経緯とイメージ着想、あとはただのレイリタ語りです。

 

 

この世界、現世を離れた存在はどこに行くのか。それは人間の言葉で、天国だとか、地獄だとか、冥府だとか、そうした言い方をされています。周囲の人間を多く亡くしたおっさんは、そうした世界のことについて人より深く考えたのではないか、そんなことを考えながら、この話を書きました。けれど、この話はリタの目線が中心です。それは書いているときに考えたもうひとつのことに関わっています。

失い続けたおっさんがふたたび誰かと一緒にいることを選んだとき、やはり一番おそれるのは失うことなのではないか。リタっちが絶対に離れないと言っても、この世に絶対などあり得ない。もしおっさんの側からリタっちがいなくなってしまったなら、彼は、そして彼女はどういう選択をするのだろう……そのテーマについて考えてみた結果、こういった話になりました。

 

それから、この話のイメージを得た『At Eden』について。

この曲を聴いたとき、ある光景が浮かびました。銀色の光にみたされた薄暗い部屋と、暗闇のなかベッドに横たわるレイヴン、それから羽根をひろげてレイヴンのそばに寄り添うように立つリタ。そのイメージを最初は絵にしようと思ったのですが、如何せん絵心がなく、それからしばらくして、そのイメージを文章にしようと思い立ちました。雨と、部屋と、静けさが胸に満ちるような曲です。

 

最後に、この曲で一番好きな歌詞を紹介しようと思います。

 

You left me in Eden

  Where don't you know by now

  I'm living in Eden

  Where is still beautiful

 

“Eden”とは何なのか、どこにあるのか。考えても果てがないところに連れて行かれるのも、またこの曲の魅力だと思います。

 

曲紹介に熱が入って、かなり好き勝手に書いてしまいました。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

二人の“Eden”が、光さすものでありますように。