いつか解けるまで


 

 夢を見ていた。

 未来を見据える精悍な顔たちが、庭先で笑っている。

 訓練の声が、高らかに響いている。

 泥のような闇が口を開け、光は呑み込まれ沈んでいく。

 赤い炎が、指先の向こうで揺らめき躍ってすべてを焼き尽くしていく。

 

 白い空間にうずくまっていた。なぜここにいるのか、分からなくとも這って足を立たせなければいけない。

 砂塵が舞い、頬を打って目を潰す。何も見えない。ぎりぎりと歯を食いしばり懸命に目を開けると、何かが瞳から流れ落ちていく。涙なのか血なのか、それも分からない。

 何をしようとしていたのか、胸に張り付くようにくすぶるこの焼け焦げそうな感覚は、いったいなんだというのか。

 無我夢中で伸ばした手が、つめたい何かに触れる。青色の鎧、羽の意匠、霞む視界のなかにそれを捉える。熱はすでに失われ、ざらりと乾いた赤いものを指が撫でる。

 

 夢はそして現実となり、永劫に終わることはない。

 この身が潰えるまで、螺旋のように繰り返されていく。

 

 

 

 

 1

 

 

 

 鎖みたいだと思っていた。不思議な形状をしたそれは、すべてを失った身をこの世に縛りつけるためのもののように見えた。

 あるはずのなかった命は、この鎖の中に巻きとられ閉じ込められている。あの日から何度、言いあらわせない思いとともに、この体の異物に向き合ってきただろう。

 視線を下にやると、赤い光が明滅する。絶え間なく動き続けていることがわかる。こうして目に見えるのは良いことばかりではない。少なくとも、レイヴンにとってはあまり直視したくないものだった。

 鈍い光を目にすると、自分の意思とは関係なく生かされている、どうしてもそんな風に思ってしまう。仲間たちと多くの時間を過ごし、自分で再び生きることを選び取った今でも。

「はい、おしまいっ」

 少女の声でレイヴンはハッと我に返る。

 ダングレストの人気店で買ってきた焼き菓子は、リタにとても好評だ。検診が終わるやいなや、レイヴンの持ってきた手土産に飛びついて包みを開けようとしている。

「リタっち、おやつより先にごはん食べよーよ、せっかく二人分そこの店で調達してきたんだし」

「べつにどっちが先でも……」

「焼き菓子はもう少し日持ちするからさ、どっちもいっぺんに食べられないでしょ?」

「むう、わかったわよ」

 リタはしぶしぶといった様子でレイヴンの向かいに座る。小さな椅子がギィと音をたてる。ハルルにあるリタの住まいは、元アスピオの研究員たちが暮らす一角の端にある小屋だ。そこへ定期的に足を運び、心臓魔導器(カディスブラスティア)の検診を受け、食事をして帰る、それが一連の習慣となっていた。

「ほれ、採れたて野菜のサンドウィッチよ、焚き火で軽く炙ってたからまだあったかいはず」

「先に言いなさいよ、冷めちゃうじゃない」

「言わせる隙も与えられなかったんだけどね」

「はむ……ほへほふ?」

「ほいほい、いただきますっと」

 定期検診をしたい、初めてそう言い出されたのは旅の終わりも近づいた頃だった。いずれ会うのが難しくなるかもしれない、だけど期間を決めて定期的にその子を見せてほしい、そう真剣に頼まれた。

 すでにリタには何度か心臓魔導器を見せていた。それだって結局流れに押し切られてのことだった。リタがこの魔導器のためにそこまで時間を割く必要があるのか。そう言うと、リタは呆れたように息をついた。

 ――勘違いしないで、その子はあたしのこれからの研究にも必要なのよ。

 あのとき、少し恥ずかしいような気持ちになったことを思い出す。自分のためにすべてやっているなんて、自惚れるなと言われた気がした。

 けれど、やはり今になってみれば思う。レイヴンのために、などと言われれば、この定期検診が実現するのはもう少し遅くなっていたかもしれない。リタはきっとそれを分かっていたのだろう。もしそうだとしたら、賢い子だと思う。かなわない。

「来月も、これ売ってるわよね」

 サンドウィッチに加え、焼き菓子をひとかけらだけ口にしたリタは満足そうだ。

「リタっちがご所望なら次また持ってくるけどさあ……おっさんのこと、お菓子配達人だと思ってない?」

「ついでがあったら店覗いて、なかったらそれでいい」

「あー、ちゃんとチェックしとくって。だからお菓子ばっかり食べすぎちゃだめよ」

「ついででいいって言ってるのに……」

 ぼそぼそと呟くリタを横目に、散らかった部屋を少しだけ掃除にかかる。あまり置き場所を変えると怒られるので、様子を見ながらやることにしている。

 ――これもお礼、ってわけじゃないけど。

 毎度そうしないと、気が済まないのだった。

 

 

 剣が激しくぶつかり合う音が天高く響く。ザーフィアス城の端にある訓練場は上層とひと続きになっており、晴れた日は青空がよく見える。

「そこ、構えが甘い! もっと身を低くして、体をばねにして技を返せ」

「はい、レイヴン隊長!」

「もう一度だ」

 レイヴンは特別顧問として騎士団の指導にあたっていた。そんな大層な名前をつけられる身ではないと何度も拒んだのだが、フレンたちから、ギルドの戦術を騎士団にも取り入れ双方の垣根をなくすためにも、などと熱心に説得されてしまった。騎士団とギルドの仲介役が今のレイヴンの主な役目ではあるため、そのついでという体で引き受けることになった。

「ご指導、ありがとうございました!」

 深々と礼をして、去っていく若い騎士の姿を見送る。自分が後進の指導などしてもいいものか、とずっと思い続けてはいるが、熱心に訓練に取り組む騎士たちを見ているとレイヴンの胸は少しだけ熱を持つ。成したいことがあり、それを心に燃やし進み続ける者たちは、いつだって眩しい。

 シュヴァーン・オルトレインがどのような人物であったか、騎士団員の前で告白してからもういくらかの時が経つ。騎士団で二つとない隊長首席という称号を冠したその男は、ギルド幹部に近しい立場でもあり、十年ものあいだ両組織に属していた。

 そのことを告げられた騎士団員たちは動揺していたものの、おおむね同情的だった。騎士団長アレクセイの命で潜入任務を余儀なくされ、不自由な立場に置かれ続けていた、そうした印象になっているようだった。

 当面レイヴンが両組織の仲介役を務める以上、多少のそうした印象操作は必要なことだったのだろう。ヨーデルやフレンたちにも、シュヴァーンという名ではなくレイヴンとして城の中でも動けるようにずいぶん手を尽くしてもらった。

 レイヴンは首を振って考え事を追い払う。訓練用の剣を再び取り、模擬試合の準備をする。

 いろいろなものが失われ、いろいろなものが恐るべき速さで変わっていく。今はただひたすら、目の前のやるべきことに向かうだけだ。それが己の役目だというのなら。

 

 

 訓練が終わり、平服に着替えたレイヴンが廊下を歩いていると、後ろからふと呼びとめられた。

「あ、レイヴンさん! お疲れさまです」

 早足で近づいてきたフレンが敬礼をする。

「おー、フレンちゃんお疲れ、そんなかしこまらなくっていいのに」

「そう言っていただけるのは恐縮なのですが、仮にも城内ですので……」

 城の外で会ってもいつも同じ感じだけどなあ、などと思いながらレイヴンは頭を掻く。いつ顔を合わせても、若い騎士団長は各所を忙しく駆け回っている。

「訓練、模擬試合ともにつつがなく終わったわよ。あれ、そういえばフレンちゃん参加してなかったわね」

「申し訳ありません……レイヴンさんにすべてお任せしてしまう形になってしまいましたね。団長の私が穴を開けてしまい大変面目ないのですが、緊急の用件があったもので」

「緊急? なんかヤバい事件でもあった?」

 フレンの表情は固い。どうしたものか、言葉に迷っているように見える。

「いや、口外できない案件ってんならべつに……」

「……いえ、レイヴンさんにお伝えするために、わざわざお呼び留めしたのです。ヨーデル陛下の命を受けて」

「陛下が?」

 皇帝も絡んでいるとなると、よほど大きな案件らしい。レイヴンは表情を固くする。

「こちらへ」

 フレンに案内され、城の上層階へと上っていく。その間、ずっと重々しい沈黙が流れていた。限られた人間しか立ち入ることのできない区画を通り抜け、辿り着いたのは皇帝陛下の私室だった。ザーフィアスに来てから十年余り、ほとんど足を踏み入れたことはない。

「陛下、レイヴン隊長をお連れしました」

 いったいどんな厄介な話を聞かされるのかと、思わず浮かべた苦々しい表情をフレンの背に隠す。

「ありがとうございます。入ってください」

 ヨーデルの声とともに、フレンのあとに付いて入室する。ソファに腰かけたヨーデルの向かいには、先客がいた。

「デューク⁉ なんでここに……」

 レイヴンの驚いた声に、長い髪を揺らしこちらを一(いち)瞥(べつ)する。その向こうで微笑みをたたえながら一礼するヨーデルに、慌てて敬礼をする。

「陛下、ただ今馳せ参じました」

「訓練指導の後だというのに、わざわざご足労いただきありがとうございます。とりあえず、そちらへ座ってください」

 年若い皇帝陛下は柔らかに促す。示されるままデュークの隣に腰かけた。フレンはヨーデルの傍らに控えたままだったが、ヨーデルに言われ、その隣に腰を下ろす。

「どうぞ、楽にしてください。すみません、急な呼び立てで困惑されたことでしょうが、レイヴン殿にお伝えしたいことがあって、この場を設けたのです」

「私に?」

 レイヴンは軽く首を傾げる。自分以外の面々は、すでに把握している話のようだった。ヨーデルとフレンは分かるとしても、デュークがなぜ同席しているのか検討がつかなかった。

「前置きは省いて、さっそく本題に入らせていただきますね。我々も、数日前デューク殿から伺ったばかりなのですが」

 デュークからもたらされた、機密性の高い情報。つとめて柔らかにヨーデルが話していてさえ、拭えない重苦しい空気。レイヴンは背中に嫌な汗が伝うのを感じて、わずかに身震いした。

 予感など微塵もなかった。ただ次の言葉を聞いてしまえば、もう戻れないかもしれない、とぼんやり思ったのを覚えている。

「アレクセイが、生きていたのです」

 

「先日、城内に運び込まれ……姿を確認しました。確かに間違いなく、帝国騎士団元騎士団長、アレクセイ・ディノイアその人でした」

 ヨーデルの話が頭の表面を上滑りしていくように入ってこない。アレクセイは、ザウデでの戦いで巨大魔核(コア)の落下に巻き込まれて死亡したはずだった。立ち尽くした彼が大きな影に呑み込まれるのを、レイヴンはこの目で見た。

「い、生きてるって……何がどうなって」

 やっとレイヴンの喉から出た声は、情けないくらいにかすれて弱々しいものだった。

「デューク殿、お願いできるでしょうか」

 ヨーデルに請われたデュークは、長い息をつき顔を伏せる。

「……かの者を発見したのはクロームだ。もういくらか前のことになるか……海岸に横たわっていたのを見つけ、人の手の届かぬ場所に運んでいた。かろうじて息があったが、全身に深い損傷の跡があり、もういつ命の火が消えるとも分からぬ状態だった」

 レイヴンは震える手をもう片方の手で押さえ込みながら、じっとデュークの話を聞いていた。クロームは、デュークのため長年アレクセイの側に仕えていた。彼女の中に、何か思うところがあったのだろうか。

「そしてクロームがその在り方を変えたあと、私はかの者の元を訪れた。すると、わずかな反応が見られたのだ。クロームによる守護の術の中で、かの者はごくわずかな意識を戻していた。そのため、ここからは人の手に委ねるべきだろうと思い来たのだ」

 デュークは深く息を吐いて、ソファに背を預ける。目を閉じて、自分の役目は終わったとでもいうようにそれきり黙り込んでしまった。

「ご説明いただきありがとうございます。一刻も早くレイヴン殿にもお伝えすべきと思いましたが、なにぶん簡単に人の耳へ入れるわけにはいかない話だと判断したため、遅くなってしまいました」

 ヨーデルは深々と頭を下げる。

「この件をほかに知っているのは、限られた側仕えの者だけです。帝国、ならびに世界中を揺るがした大罪人が生きていた……我々も今後の処遇を決めかねています。ひとまず意識が完全に回復するまで、人の立ち入れぬ部屋で治療を施していくことになっています」

 震えは少しだけおさまってきた。だんだんとこれが与太話などでなく、現実の話をしているのだと頭では理解が追いついてきた。

 なぜもっと早くに知らされなかったのかという気持ちとともに、なぜ先んじて自分に知らされたのかという気持ちが湧く。ヨーデルとフレンは帝国の中枢であり、デュークは事のきっかけの関係者だ。自分に知らせて、いったい何をしろというのだろうか。

「アレクセイに……会うことはできますか」

 ともかく、本当に現実なのか自分の目で確かめるほかない。ヨーデルとフレンはともに心配そうな顔をしてレイヴンを見る。そんなにひどい顔をしているだろうか。

「……そうですね、わかりました。我々も同行しましょう」

「私はそろそろ行く。ではな」

 デュークは立ち上がり、ちらりとレイヴンに視線を向けた。感情の見えない瞳からは、その意を汲むことはできなかった。そうして颯爽と部屋を出ていこうとする。慌ててフレンが引き留めようとするも、あっという間にその姿は扉の向こうに消えた。

「フレン、構いません。彼にはわざわざこんな場所まで同席いただき、二度目となる説明をお願いしてしまいましたから。ただでさえ複雑な事態ですし、レイヴン殿にも、デューク殿ご本人から説明していただいたほうが良いだろうと思いましたので」

 ヨーデルがでは、と立ち上がる。先導するフレンとヨーデルに付いて、レイヴンも部屋を出る。

「人の立ち入れない場所、というのはいったい?」

「かつて研究者たちの詰め所として使われていたという、古い塔が裏庭に建っています。今ではほとんど使われておらず、人の目にもつきにくいということで、その最上階にアレクセイを運び込むことになりました」

 人気のない廊下を通り、裏庭に下りる。裏庭の奥、小さな庭園を抜けた先にその塔はあった。久々に訪れた場所にかすかな記憶がよぎる。

 ――昔、アレクセイが出入りしていたのを見た……?

 塔の内部に入ると、ひんやりとした静謐な空気に迎えられる。螺旋状の階段を一段一段のぼるたびに少しずつ体温が下がっていくような心地がして、レイヴンはぐっと奥歯を噛みしめた。

 長い階段の先は灰色の壁があり、一見するとこれ以上先に進むことはできないように思えた。しかしフレンが壁の端に鍵のようなものを挿すと、壁は左右に開き動いた。

「この先の部屋です」

 ヨーデルが指し示す。薄暗い廊下には小さな明かり取りの小窓がぼっかりと光り、その脇には両開きの扉があった。

「ヨーデル様は、こちらでお待ちください」

「お願いします」

 ヨーデルを廊下に残し、その重々しい扉をフレンが開けると、さらにもう一つ扉が現れる。扉には小窓らしきものがあり、赤い布で覆われていた。扉と扉のあいだのごく狭い空間のなかで、布の端から漏れる微かな光だけが奇妙な存在感を放っていた。

「レイヴンさん、こちらへ」

 布に手をかけたフレンに呼ばれ、扉のそばに寄る。レイヴンも赤い布に手を伸ばす。

「大丈夫ですか……レイヴンさん」

 小声でフレンが耳打ちしてくる。見ると、目には心配そうな色が濃く浮かんでいる。

「何言ってんの、大丈夫よ」

 つとめて普段通りの調子でそう返した。自分でも、何が大丈夫なのか、よくわからなかった。

 巻き上げられた布の向こう、ぽっかりと白く四角に縁取られた小窓を覗きこむ。室内は寝台と机と椅子、そのほかには何も置かれてはいなかった。無機質な白い室内の奥、白い寝台に人間が眠っていた。

 白いシーツに溶けるかのような真っ白な顔に、閉じられた目と唇があった。

「アレクセイ……」

 確かに、レイヴンの知るアレクセイ・ディノイアと同じ顔をしていた。何度も頭のなかで繰り返し、影に呑み込まれた顔。

 けれど、よく似せて作られた人形が横たわっているようにも見えた。窓越しに見て、生きているか分からないというよりも、生の気配が驚くほど感じられなかった。

 レイヴンはぎゅうと胸をつかまれるような思いがした。あのアレクセイがこのような状態で生き延びていたことが、信じられないくらいに痛ましく思えた。

 とたん、一つの声が聞こえた。

 ――お前のせいだ。

 窓に貼り付くように近づき、薄く映った自分と目を合わせた。

 ――俺が、止められなかったから。

 そうだ、というように目は語る。忘れたことはない。けれど時はあらゆるものを押し流す。日々のなかに埋もれていた罪をレイヴンに知らせるために、今帰ってきたのだ。

「……中に、入ってもよろしいですか」

 レイヴンは少し離れた場所に立っていたヨーデルに向き直る。

「少しの間でしたら構いません」

「それから、お願いしたいことがございます」

 自動的に体が滑るように動き、ヨーデルの前に膝をつく。

「アレクセイの身の回りの世話を、私に一部お任せいただけないでしょうか」

 顔を伏せていても、ヨーデルと背後にいるフレンが困惑の表情を浮かべているだろうことは想像できた。しかしレイヴンの口は止まらなかった。

「アレクセイの容態が回復するまで、今後の処遇などを決めることは難しいでしょう。なればこそ、私の微力を尽くして、迅速な回復の助力ができればと……彼が在任中、近く側にいた者としての責務でもあると考えます」

 レイヴンは影に呑まれた灰の床と見つめ合い、目を閉じた。風も空気も動かない静けさが立ち込めた。

「分かりました。レイヴン殿にお任せしましょう」

「ヨーデル様! しかし」

「あなたの本来の任務などに差し障りのない程度で、彼を見舞ってやってください。親しいあなたが側にいれば、彼も何か反応を見せるかもしれません」

 フレンは納得しかねるかのようにレイヴンの一歩後ろで鎧を鳴らす。深々と頭を下げたレイヴンは、立ち上がり振り返って扉を見つめた。もう夢まぼろしだとか信じられないだとか、そうした感情は薄れていた。ただ、やるべきことがある、それだけが頭の奥に激しく瞬いていた。

 

 

 一人、足を踏み入れた部屋は、不気味な白い明るさに満ちていた。格子の嵌められた窓から昼下がりのまっすぐな日差しが乱反射して、レイヴンの目を眩ませた。日が暮れると窓掛けを下ろすのだという。

 改めて近づいて見ると、アレクセイの顔は作られた陶器のように青白く、命ある人間の息吹をたたえてはいなかった。これが実は保存状態の良い遺体だと言われても納得するだろう。

 けれど、よく確かめてみれば呼吸をしているのが分かった。レイヴンは手を伸ばし、アレクセイの胸元にそっと押し当てる。かすかな温度と弱々しい拍動を感じて、ゆっくりと息を吐く。

 ――本当に、ここにいる。

 いったいどんな感情をおぼえればいいのか、レイヴンには分からなかった。こんな状態にあることを悲しめばいいのか、生還したことを喜べばいいのか。早く目覚めてほしいと焦燥に駆られればいいのか、いまごろなぜ現れるのかと苦々しい思いを抱えればいいのか。

 ――あなたも見ていたのか、こんな姿を。

 レイヴンの記憶が、十年の月日を越えて引き戻されていく。今に至るすべてが始まった、それまでのすべてが終わったと感じられた、横たわる自分の姿が蘇る。

 目覚める前、アレクセイがどのような処置をもってこの胸に魔導器を埋め込んだのか、レイヴンは知らない。けれど、処置を受ける前に死んでいた姿をアレクセイは目にしていたはずだ。そうして目覚めた人間は、命を繋ぐための機構を埋め込まれたことに絶望し、抗議し、生を放棄した。

 レイヴンは膝を折って枕元にすがりつき、シーツの端に顔を埋めた。そうして、今度こそはっきりと理解した。

 ――この人をこうしたのは、自分だ。

 命も、名前も、痛みも与えられながら、一番近くにいたはずなのに、何もできなかった。その人間はいまや与えられた名を過去のものにし、まだ消えない命の残り火をみっともなく燃やしながらおめおめと生きている。

 アレクセイの体の両側に置かれた腕をたどり、冷えた手に触れる。ぞっとするほど冷たい手を両手で握りこむ。レイヴンにいくつもの感覚を刻み込んだこの手に、こうして再び触れる日が来るとは思わなかった。

「アレクセイ……」

 対面してから初めて、名を呼んだ。アレクセイの目は閉じられたまま、呼びかけに応えるはずもない。海の底から帰ってきた主は、果たしてレイヴンのことを覚えているのか。再び名を呼ばれることなどあるのか。胸の奥がざわざわと騒ぐ。

 しばらくの後、レイヴンが握った手を緩めたとき、アレクセイが一瞬身じろぎしたような気がした。驚いてしばし見ていると、もう一度体がびくりと動き、ゆっくりと、ゆっくりとまぶたが開かれる。

 アレクセイの双眸が、レイヴンを見ていた。暗く、虚ろな瞳がそこにあった。かつて何度も見つめ、何度も逸らし、間近に迫り、彼方に遠ざかった色だ。

 レイヴンは息をするのも忘れて静止した。指先のひとつも動かせなかった。そうして、ただ、ひとつの声だけが巻き付くように廻っていた。

 おまえはここにいなければならないのだ、と。

 

 

 

 

 2

 

 

 

 リタは薄いおんぼろの扉を蹴り開けて、一目散に走り出した。中型の機械を紐でくくり付けた台車を引っぱりながら、ハルルのなだらかな丘をのぼる。

「よし、このあたりがいいわね」

 丘の上から家々の屋根を見渡せるくらいの高さまで来た。背後からは、ハルルの樹がざわざわと枝を揺らしながらリタを見下ろしている。

 台車から装置を引き下ろす。リタの身の半分くらいの大きさがある。個人的に作っていた飛行装置の試作品だ。安定運用できる最低限の精霊術を組み込み、あとは筐体側の機構で動力効率については工夫した。一人用で、ごく短時間しか稼働はできない。

「いつまでもバウルだけに頼ってられないしね」

 魔導器が失われ、移動手段がさらに限られてしまった現代で、空を飛べるジュディスとバウルはあちこち引っ張りだこだ。彼女たちの負担を減らすというだけでなく、いずれ自分たちの力で空に辿りつきたい。そんなことをふと考えて、思いつきで空き時間に作り始めた。

 組み立てを行い、起動確認をして背負う形で体に装着する。しっかりと固定しても、少しよろけるくらいの重量がある。軽量化、もしくは負担軽減は今後の課題だ。

「いくわよっ」

 地面を蹴って、向こうの屋根目がけて飛び降りる。体がふわりと浮き上がる。地面が体を引こうとする力に抗って風が足元から吹く。風の流れに乗り、屋根の上へと飛び移ることができた。

「次のポイントは、あそこね」

 もう少し離れた家の屋根に狙いを定める。まだ動力が切れる気配はない。そのまま踏み込み、空気の軌道に乗ろうと宙に飛び込む。

 そのとき、背中から異音が鳴る。何かの不具合が起きたのかもしれない。リタは肩のスイッチを操作し緊急仕様に切り替える。そうしても向こうの屋根には届かない。なんとか小さな樹の枝にしがみついて事なきを得た。

「いたた……ここまで稼働時間が短いなんて想定外だったわ」

 葉っぱにまみれた体をはたき、機械の様子を確認する。見ただけでは不具合の原因は分からず、ひとまず出力を落とすしかなかった。小屋に戻ってから調べるべきだろう。

 リタは枝に腰かけてハルルの街を眺める。現在の研究者たちの本拠だからというだけでこの街に住んでいるが、なかなか悪くはない。アスピオに比べて昼間は明るすぎるし空気も少し乾いているが、少しずつ慣れてきた。旅暮らしのおかげでいろいろな気候を知ったからだろうか。

 ふと、街の入り口のほうに目を向けると、数名の騎士団員、研究員が集まり何事か話していた。その近くには馬車に運び込まれようとしている大きな荷物がある。

「あれは……確か」

 遠目からだが、あの形には見覚えがあった。先日完成したばかりの、精霊術を組み込んだ医療装置だ。レイヴンの心臓魔導器の件で多少医学についての心得を身につけたリタも、その開発に携わっていた。

 魔導器を手放したことで人々はさまざまな問題に直面しなければならなくなったが、なかでも差し迫った課題の一つが医療についてだった。医者たちは魔導器による治癒術が使えなくなり、持ち合わせた医学の知識をもとに新たな治療法を模索することになった。また、魔導器の力によって重い病に抗っていた人々も少数ながら存在し、そうした人々の代替手段になり得るものを探すことが、リタたち研究者には課せられていた。

 ――まずは帝都に運ばれるってことだったけど……今日がその日だったのね。

 リタの記憶では、帝国が装置を引き取りに来るのは来週の予定だったような気がしたが、向こうの都合で早まったのかもしれない。少しずつ、ほんの少しずつだが、着実にいろんなものが前進している。やわらかく拳を握り、さて早く帰ろうと樹から下りようとする。

 ――あれ……何か忘れてるような……。

 すっかり動かなくなった飛行機械はきちんと装着している。リタはひとり首をかしげる。医療装置を見たときに、何か頭のなかに引っかかったことがあった。一瞬思い出した、誰かの顔。

「あーーーーーーっ‼」

 

 土にまみれた飛行装置を部屋の端に置き、リタは今日の日付を確認する。このところ研究所のプロジェクトが忙しく、空き時間は飛行装置の作業に没頭していたため、すっかり日付感覚がなくなってしまっていた。

 ――もう、ずいぶん経ってる。

 思い出したのは、レイヴンとの約束の期日のことだった。前回会ったときに決めた次の約束の日から、もうすぐひと月が経とうとしている。そのときレイヴンにもらった焼き菓子の箱など、とっくに空になった。

 互いに忙しい身ということもあり、会う日がずれ込むことはこれまでもあった。それでも、ここまで何の便りもなしにすっぽかされたのは初めてだ。

 リタの内にさまざまな想像が浮かぶ。とんでもなく面倒な任務に追われている。どこかで人知れず倒れて帰れなくなっている。心臓が急に異変を起こして、それを隠している。

 がたりと立ち上がる。ひとまず汚れを拭ききってピカピカになった装置を部屋の端に片付けて、リタはまた小屋をばたばたと出ていく。坂を駆け下りて、街の入り口に立つ騎士に声をかける。さっき見た馬車はもう出発したようだ。

「ちょっと、いい?」

「はっ……ああ、モルディオ殿ではないですか」

「レイヴンって奴、どこにいるか知らない?」

「はい?」

「シュヴァーンだったのにレイヴンとか言い出したあの変な奴よ」

 騎士は、兜で表情は見えないものの困惑したように首を傾げる。しばらくして、ああ、と合点がいったようにうなずく。

「そういえば、近頃こちらにはいらしてないですね」

「そうよ、で、今どこにいるか、何してるか知らないの?」

 リタがうろたえる騎士を問い詰めていると、離れたところに立っていたもう一人の騎士がこちらへやってきた。

「なんだ、何をしている」

「こちらのモルディオ殿が、レイヴン隊長が今どこにいるのかとおたずねでして」

「レイヴン隊長ぉ?」

 怪訝そうに言った騎士は、それなら、と言葉をつづけた。

「重要任務のため、しばらく帝都に滞在されると聞いたぞ」

「それ、本当?」

 へえ、と呑気にこたえた騎士を押しのけて近寄る。

「ああ、先日街道で会った、帝都からの部隊による話だ」

 帝都に滞在。それなら、なぜリタに何の一報もないのか。事情があって来られないのなら、それを知らせてくれさえすればいいのに。

「……わかった。ありがと」

 ひとこと残して、リタは踵を返しまた坂をのぼる。だんだん足が早まるごとに、腹の底にふつふつと怒りが湧いてくる。

 前回会ったときは、特に変わった様子はなかった。魔導器の調子も安定していた。またリタの好きな菓子を買ってくると言っていた。

 旅の終わりに半ば強引に取り付けた約束が、この先ずっと果たされる保証はないと分かっていた。それでも、リタのできる精一杯のことをしようと決めた。この手で守れるというのなら、そうしないという選択肢はない。

 すぐにでも帝都へ行かなければいけなかった。そうしないと、収まらなかった。

 

 

 魔導器を失った世界は、当然ながら多くのものが様変わりした。帝都ザーフィアスも例外ではない。水道の流れが途絶え、水を汲み上げ各所に行き渡らせる取り組みが必要となった。街灯の明かりが消え、決まった時間に騎士たちが見回りがてら火を持って巡回することになった。挙げていけばきりがない。

 それでもこうして歩いていると、人々がせわしく行き交い、以前より少し慌ただしいこと以外は変わりないように見える。市場のにぎわいが遠くから聞こえてくる。リタには今の帝都のほうが好ましかった。変に威張らずかしこまらずに、人々が暮らす拠り所であろうとしている。

「はあー……あいかわらず無駄に段差の多い街ね」

 いくつもの階段をのぼり、ようやく城にたどり着いた頃にはリタの息はすっかり上がっていた。最近小屋や研究所にこもりきりだったので、街の外でこんなに動いたのは久しぶりだったかもしれない。

 門の前でハルルの研究所から持ってきた報告書を突き出し、戸惑う騎士たちを横目に城内へ入っていく。報告書は、なるべくすみやかに帝都へ行くために作った口実だ。

 ついでに書庫ものぞかせてもらい、貴重な書物でも借りて帰ろうか、などと考えていると、長い廊下の向こうからわらわらと人が出てきた。騎士団員もいれば評議会員もいる。その奥のほうに、見知った人影が見えた。レイヴンだ。

 来ていきなり、探し人に出会えるとは思わなかった。部屋の入り口そばで話しているのはフレンとヨーデルのようだ。なにごとか言葉を交わしたあと、二人は廊下の奥へと去っていき、レイヴン一人が残された。

「何かの会議?」

 ずんずんと近づき声をかけると、振り向いたレイヴンは目を丸くした。一見して前に会ったときと特に変わらないが、少し疲れているように見える。リタを見て、驚きに満ちた顔とばつの悪そうな顔を一瞬ごとに浮かべ、すぐにへらりと笑った。

「いやあ、ほんとはおっさんなんかが出ていいもんじゃないんだけど」

「出されてるのは、ちゃんと意味があるからでしょ」

「そ、ね……ごめん」

 レイヴンはまるであっさりと傷ついたように目を伏せて黙り込んだ。リタに釈明するための言い訳でも考えているのかと思ったが、そういう雰囲気でもなかった。それよりも、心ここに在らずといった風に見えた。

「なんで、検診来なかったの」

 だから、単刀直入に聞いた。少しでもまわりくどい聞き方をすれば、リタの望む答えは得られないと思った。

「ごめん、とっくに過ぎてたね」

 レイヴンは手を顔の前に出してごめん、とふたたび謝る。力ない弱々しい声だった。てっきり何かしら理由を並べ立てられると思っていたのに、レイヴンの口からはそれ以上何も出てこなかった。

「……それだけ?」

「もしかして、リタっち、俺に会いに帝都まで来たの?」

 そう聞かれて、すぐに頷けばよかったのかもしれない。あんたに会いに、わざわざ来てやったのよ――けれど、できなかった。心がざわざわと波立って、足がかすかに震えるのを感じた。

「ち……違うわ、調べ物のついで。あんたがちっとも連絡寄越さないから、会ったら一発殴ろうとは思ってたけど」

「いや、ほんとごめん、いろいろあって……次からこういうことないように、気をつける」

 本当にすまなさそうに頭を下げるので、それ以上リタは何も言えなかった。本当はもっと怒るつもりだったのに。言葉が出てこない。

「あ、ごめん、俺そろそろ行かないと……この通りしっかり元気だし、次の検診はちゃんと行くからね、ごめんね」

 早口で言い残して、慌ただしく廊下の奥に駆けていく。呼び留めることはできなかった。残されて、呆然とする。

 会えたら、すぐにでもどこかの部屋に引っぱりこんで、心臓の様子を確かめようと思っていた。どんな言い訳をされようと、知らせ一つも寄越さなかったことをきっちり言い含めてやろうと思っていた。

 ――なんで、謝るだけなのよ。

 レイヴンは言い訳など一つもせず、謝罪の言葉だけを何度も口にした。あんなにあっさりと何度も謝られたのは初めてかもしれない。

 明らかに、レイヴンの様子はおかしかった。リタとの約束を思い出す暇もなかった何かがあったのかもしれない。

 もしそうじゃなかったら。リタはぐっと奥歯を噛みしめる。レイヴンがまた、自分の命を軽んじて、リタの負担などを気にして、遠ざかろうとしているのだったら。

 

 ――レイヴン! しっかりしなさいよ!

 あのときの記憶がよみがえる。旅の途中、レイヴンが突然倒れた。リタはそのとき初めて、レイヴンの心臓魔導器を診た。その少し前から、レイヴンには一度早く診せるように言っていたが、今日は調子が悪いとか眠いとかなんとか言って、いっこうに実現しなかった。

 それがいきなり、いますぐ何とかしなければならない状況に直面することになった。仲間たちが見守る中で、おそるおそる制御盤を開いた。目にした術式は、これまでに見たことのない類のもので、リタが今までに見たヘルメス式魔導器と似たところはあったが、おそろしく複雑に緻密に組み上げられていた。

 目を閉じて動かないレイヴン。不安げな仲間たち。あまりにも複雑な未知の術式。リタは震えを必死に押さえ込みながら、心臓魔導器と向き合った。

 一晩かけて、なんとか術式の乱れを調整することができた。組み上げられた術式は難解ではあったが、無駄に煩雑になっているわけではなく、既存の知識を応用すれば道筋をつけることができた。

 けれどその独特な構造に、そのすべてを自分が引き受けていくことができるのか、リタは不安を覚えた。何も分からずレイヴンの魔導器を診ていくと言っていた自分の浅はかさを思い知った。

 調整後、レイヴンが目覚めるのを待つあいだ、思い出したのはバクティオン神殿でのできごとだった。あのときは最期のすがたさえ見ることができなかった。暗い瓦礫の奥に置いていってしまった。許せないのに、助けてくれた。大嫌いなのに、仲間だった。

 思い出すたびに、リタの心はかき乱される。胸に灯った赤い光を見たときの衝撃も、見覚えのない昏いまなざしを向けられたときの痛みも、あまり呼び起こしたくはないものだ。

 もし、また助けられなかったら。自分の手でこの火を消してしまったら。

 リタは想像して、自分の心臓が止まるかと思うくらいひどい寒気が襲うのを感じた。かたかたと震える膝を抱えて、にじむ涙を服の袖に吸わせた。

 早く、早く目を覚まして。何度も何度も祈って、祈って、疲れて、少しだけうたた寝しかけたとき、レイヴンはやっと意識を取り戻した。

 ――あれ、リタっち……おはよう?

 気の抜けた挨拶をしてくる呆けた顔を、思わず軽く叩いてしまった。

 

 それから、リタは定期的にレイヴンの心臓魔導器を診ることになった。初めは抵抗を示していたレイヴンも、リタや仲間たちから倒れた事件のことを出されれば、強く言えなかった。

 もう二度と、あんなことを起こしたくない。リタはふるふると首を振り、気を取り直す。

 先ほどのレイヴンは、何か別のことに気をとられているように見えた。きちんと応答しているように見えてどこか上の空というような。

 リタを避けていると考えるのは早計かもしれない。本当に会いたくないというのなら、あの男はもっと上手くやるだろう。リタと会っていないあいだ、レイヴンにいったい何があったのか、突き止めなくてはならない。

 城の中はいたっていつも通りに見えた。何か大きな事件が起こって、それの対応に追われているという風でもない。

 それなら、一部の人間にしか伝わっていないことがあるのかもしれない。エステルやフレン、ヨーデルに会えれば、何か聞ける可能性がある。その辺りの騎士を捕まえて、三人の居場所を聞いてみたところ、今日は多忙で誰であっても面会の時間は持てない、ということだった。

 リタは廊下の人影を確かめながら、上層階に向かう。はるばる帝都まで来たのに、何日も待っていられない。

 しかし、リタには城内の構造がさっぱり分からない。いつも決まった場所にしか行かないため、気にしたこともなかった。階段の陰で頭を悩ませていると、ふと城の中庭を行き過ぎる侍女の姿が目に留まる。もしかすると、上の階の掃除にでも行くのかも知れない。付いていけば、誰かのいる部屋に出られるかもしれない。

 こっそりとあとを追うことにする。隠密行動は得意なわけではないが、かつての旅のあいだにいくらかは慣れたところもある。侍女は奥まった廊下から裏庭に出ていく。こんな庭に出て何を、と物陰から様子を確かめていると、侍女の姿は、庭の奥にそびえ立つ塔の中に消えていった。

 ――あの塔は、なに?

 遠目から見ても、かなり古びた塔のように思える。あんなところに侍女の用向きがあるものだろうか。

 目当てとは違うが、何か怪しい感じがする。あの塔に近づいてみよう――そう一歩踏み出したところで、後ろからポンと肩を叩かれる。

「ふぎゃああっ」

 反射的に飛び上がって、大声を出してしまった。まずい、見つかった、と思い振り向くと、フレンが立っていた。

「ごめん、驚かせてしまったね。君が僕を探していると聞いたから」

「あ、そ、そう……たしかに、探してたけど……」

「何か話したいことでも? いや、こんなところじゃ何だし、場所を移そう」

 移動しようとするフレンを、リタはとっさに呼びとめる。

「ちょっと待って、あの、庭の向こうにある塔、あそこに人が入っていくのを見たの。あの塔、何かあるの?」

 リタが尋ねると、フレンは目を丸くして首をかしげる。

「いや? あの塔はもう長い間使われていないし、扉に固く鍵もかかっているし、気のせいじゃないかな」

 あっさりとそう言って、リタを別の階層へと案内しようとする。その間フレンが口にした世間話は、どれも耳に入らなかった。不自然だ。リタの知るフレンなら、念のため一度調べてみようとか言い出しそうなものなのに。

 この違和感は、リタの求めるものに繋がっているのか。

「ねえ」

 廊下を歩くフレンの背に問いかける。

「何か、あったの? ここ最近、帝都で」

「……どうして、そんなことを?」

「いろいろと、おかしいって思って」

 フレンは笑って首を振る。

「特に変わりないよ、騎士団が忙しいのはいつも通りだけど、大きな事件や事故も近ごろは起きてないし、気を引き締めないといけないね」

「じゃあ、おっさんは、何してるの」

 リタはフレンに一歩詰め寄る。

「帝都に滞在させて、騎士団の重鎮として働かせといて、騎士団長が行動を把握してないわけないわよね。あたしはあいつの体に責任があるの。もし無茶な働かせ方してたら見過ごすわけにはいかないのよ」

「リタ、落ち着いてほしい。レイヴンさんは何も……」

「おかしいのよ。おっさんも、あんたも、何か隠してる。どうしてもあたしに言えないことなら、せめておっさんが今何してるのかだけでも、教えて、お願い」

 最後のほうは舌がうまく回らなかった。フレンの鎧を掴みながら、自分が思ったよりもずいぶん冷静でなかったことに気付いた。レイヴンの任務内容など聞き出してどうしようというのだろう。それで気持ちは晴れるのか。納得して帰れるのか。

 リタはただ、動転しているだけなのだ。レイヴンの様子がいつもと違った、それだけのことに。

「リタ? フレン? どうしたんです?」

 そこに、柔らかな声が飛び込んでくる。見ると、正装姿のエステルが廊下の先から歩いてくる。

「二人とも、何かあったんですか……? リタ、顔色が悪いですよ。どこかで休んだほうが……お願いします、フレン」

「分かりました、こちらへ」

 エステルに支えられ、リタは城の一室へと案内される。久しぶりに親友の顔を見て、波立った心が少しずつ落ち着いていくのを感じた。

 部屋のソファに座らされ、エステルが用意してくれたお茶を口にする。温かくやさしい味だ。

「ありがと、もう大丈夫……フレン、ごめん。ちょっと、どうかしてた」

「いや……いいんだよ。こちらこそすまなかった」

「あんたに当たったって、仕方ないことなのに」

「どういうことです? リタが突然帝都に来たって聞いて、会いたくて探していたんですが……何かよくないことでも起きて……」

 心配そうに隣へ腰かけるエステルに、曖昧に笑ってみせる。

「ちがうわ、あたしは特に変わりない。むしろ、そっち側に……帝都で何かあったんじゃないかと思って、あんたたちと話したかったの」

 エステルとフレンが顔を見合わせる。やっぱり、何かある。リタは確信する。

「あいつが……おっさんが検診に来なかったの。今まで知らせもなしに、こんなに長く来なかったことなかった。それで、帝都にいるって聞いて、来てみたら……」

 気のせいだと片付けることもできた。それでもこんなに胸の内が騒がしいのは、今までレイヴンを見てきた直感だ。

「フレン、リタにも伝えたほうがいいと思います。わざわざレイヴンを心配して、来てくれたんですから」

「……そうですね、近いうち、凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)の皆とともに共有する予定はありましたし……すまない、リタ。慎重になりすぎてたみたいだ」

 向かいのソファに座るフレンが、深々と頭を下げてくる。

「レイヴンさんがリタとの約束に行けなかったのは僕の落ち度だ。いろいろと手一杯になっていて、気が回らなかった。今後はレイヴンさんの休息の確保とともに、最大限の配慮をする」

「ちょっと……どういうこと? やっぱりあのおっさん、働きすぎで疲れてるの?」

 沈黙が走る。エステルが、膝の上に置いた手をぎゅっと握り込む。

「わたしも、つい先日知らされたばかりで、まだ受け止めきれていないんですが……」

 エステルの視線を受けたフレンが、ゆっくりと頷く。リタに向き直ったエステルの瞳が、わずかにふるえる。

「アレクセイが……生きていたようなのです」

 一言口にして、エステルは苦しそうに息をつく。リタはぱちりと瞬きをして、その言葉を頭のなかに巡らせる。

「アレクセイ……って、あの? なんで、今まで……」

 困惑するリタに、フレンが説明を始める。クロームが発見し、人の手の届かない場所に隠していたこと。デュークがそれを引き継ぎ、こちらへ引き渡しにきたこと。

「そんな、いくら始祖の隷長(エンテレケイア)だからって、死にかけてる人間の命をとどめることなんてできるの?」

「詳しいことは分からないんだが、クロームの術はあくまで外界の変化から生命力の流れを一時的に守るもので、ここまでアレクセイが命を失わなかったのは、針の穴を通すような奇跡的なことらしい」

「もともと、ザウデから無事に生き延びたのも、本当に奇跡的なことだと思います。思わぬ形であっても、彼の命が助かったというのなら、わたしたちのできることをしたい……」

 エステルはぎゅっと両手を組み、祈るようにうつむいた。

「とはいえ、まだアレクセイの意識は安定しない。少しのあいだ目覚めて、また眠ることを繰り返しているようだ。言葉も発さない」

 リタは説明された言葉のひとつひとつをゆっくり飲み込んで、長く、息をついた。

「要するに……あの塔にアレクセイがいて、おっさんもそこにいるってことなのよね」

 二人は目を丸くしたあと、苦々しい表情を浮かべる。

「さすがだね、その通りなんだ……レイヴンさんが、ヨーデル陛下に自ら願い出られて……自分が一番側にいた時間が長いのだから、意識を取り戻す手助けがしたいと」

「近ごろは帝都にいる日が多くて、騎士団の訓練や会議など任務の時間以外はずっとアレクセイのそばに付いてるみたいなんです。私も一緒にと言ったのですが、危険だからと、窓越しにしか……」

「……重傷を負っているとはいえ、彼はエステリーゼ様を傷つけただけでなく、多くの罪を成した大罪人です。彼を案じるお気持ちは分かりますが、どうかご理解ください」

 レイヴンは、意識の曖昧なアレクセイのそばについて、あの塔にこもりきりになっているという。リタとの約束など思い出せないのも無理はない。自分の身をかえりみず、余計なことを考え思いつめているのだろうことは、容易に想像がついた。

「アレクセイって……あのザウデの巨大な魔核の下敷きになったんでしょ? そこから奇跡的に生還したとはいえ……治る見込みはあるの?」

「全身の至るところに、相当な損傷を負っている。治療のための手配を今極秘で行っているところなんだが……」

 エステルが悲しそうに目を伏せる。

「きっと、体だけでなく、心も……」

 かすかに声を震わせながらつぶやく。

「やり方は間違えていたかもしれませんが、帝国を守ろうとして、災厄を蘇らせてしまった……そのことにアレクセイはひどく動揺していたようでした。意識が戻って、そのことを思い出してしまったら、彼の心はどうなってしまうのか、心配なんです」

 アレクセイはエステルの力を用いてザウデ不落宮の封印を解き、太古に封じられた災厄である星喰みを蘇らせた。彼の計画では、ザウデ不落宮の力を始祖の隷長などに対抗できる兵器として用いようとしていたようだった。

「エステルを傷つけたのは今も許せないけど……結局のところ、先送りにしてた問題を引きずりだしたんだから、今思えばあいつのやったことも全部が全部悪かったわけじゃないのかもね……」

 リタたちの、さまざまな人の力により、星喰みは打ち倒され精霊に変わった。世界中のすべての魔導器と引き換えに。

「しかし、アレクセイは多くの人を犠牲にし、争いを生んだ……結果がどうあっても、それは変わらない。僕も、それを見過ごしてしまっていた。だからこそ、アレクセイが戻ったことは、帝国や僕らが彼の罪に今一度直面しなければならないということだと、思っている」

 フレンが重々しく告げる。アレクセイに傷つけられたエステルも、アレクセイに守るべきものを揺るがされたフレンも、それぞれの考えでアレクセイを案じている。

 レイヴンは、どんな気持ちでいるのだろう。自らに心臓魔導器を埋め込み、生き返らせた直属の上司。聞いた話によると、騎士団長の懐刀とも呼ばれていたという。

 ――あのときだって、アレクセイが……。

 バクティオン神殿の天井が揺れたとき、レイヴン――シュヴァーンは、おそろしく落ち着いた様子で言っていた。アレクセイが自分ごと生き埋めにするつもりなのだろう、と。

 戻ってきたアレクセイに対してレイヴンがどんな思いでいるのか、リタには到底押しはかることができなかった。けれど、簡単に理解できないほどに、さまざまなものがレイヴンを苦しめているのだろう。

 ふとあの時の光景がよぎる。初めてリタがレイヴンの心臓魔導器を調整し、目覚めるまで見守っていた夜のこと。

 胸がちぎれそうに痛くて、息を吐いたらすぐに涙がこぼれて、それが嫌で、いらいらして、お腹の底が熱いのに、体ががたがた震えるくらいにひどく寒かった。あの感覚を、ずっと忘れることができない。

 ――あんたも、同じなの?

 リタはぼんやりとティーカップに手を伸ばし、残りを口にする。すっかり冷めてしまった茶をゆっくりと飲みこむ。ティーソーサーに反射した灯りを見つめながら、頭のなかではずっとレイヴンの曖昧な笑みがちかちかと瞬いていた。

 

 

 

 

 3

 

 

 

「シュヴァーン、こちらへ来い」

 有無をいわせぬ口調にからだはひとりでに動く。するどい眼光に貫かれ、そこから動けなくなる。

「調子は」

「変わりありません」

 赤い光に、アレクセイの俯いた顔がぼんやりと照らされる。普段誰にも隠している心臓魔導器に触れるのは、ただ一人のみだった。

 この体へ心臓魔導器を埋め込む処置にアレクセイ以外の誰かが関与したのかは分からない。だが、覚えているかぎり彼はずっとただ一人でこれを調整していた。

 願いと意志を宿した瞳を、ふれられそうな距離で何度も見ていた。その眼差しが注がれるたび、火で炙られるような責め苦を感じた。

「また、技を乱用したな」

「切り抜けられないと思ったもので。油断していました」

「次はない。心しておけ」

「御意」

 なかったら、いったいどうなるというのか。答えながらぼんやりと思う。

 胸元にかかげられていたアレクセイの手がするりとのぼり、シュヴァーンの肩を掴む。もう片方の手が顎に添えられ、瞳が間近に迫る。

 ――ああ、怒っている。

 なぜ、と思うこともいつからかなくなった。寝台に身を沈めながら、呼吸さえすべて奪われていく。熱い火にくるまれながら、氷海に溺れていくような感覚にふるえ続けた。

 何を思ってアレクセイは自分に近づくのか。触れるのか。自分がただ一人の生き残りだから。わざわざ手ずから生き返らせた死人だから。使い勝手の良い駒だから。ひとつひとつ並べてみては、どれも十分な理由ではないような気がして、結局いつも答えの出ない問いが取り残される。

「おまえは、私の――」

 何度も、おなじ言葉を流し込む。

 時を経るごとに、その眼差しと手つきは苛烈な怒りを帯びていった。行き場のない苛立ち、計画遂行の行き詰まり、駒の不手際、さまざまな怒りの炎で彼はシュヴァーンを幾度も焼いた。どうすることもできず、ただ甘んじて受けいれ続けた。何をされようとも、すべてを。

「おまえは、ここで、生きるのだ」

 アレクセイが与える熱は、冷えた体を流れる毒のようで、その毒に浸されつづけて、沈んで、そのまま朽ちることを願い続けていた。

 そんなことしか、願っていなかった。

 

 

 

 静かだ。

 部屋にレイヴン以外物音をたてるものがないので、不気味なくらい静かなのだ。

 そう思ったとき、ヴィン、と音が鳴る。アレクセイの体に装着された医療装置が微かな駆動音をたてる。その音に少し安心する。

 寝台周りを軽く拭き上げた布を洗うため、レイヴンは一度廊下に出る。ついでに花瓶の水を替えることにする。

 アレクセイのいる部屋は、城の裏庭にそびえる塔の最上階の奥にある。何重もの扉に守られ、現在立ち入れるのは身の回りを世話するためのごくわずかな者に限られている。

 こんな人の目から隠すためにあるような部屋が、城の中に存在したことが驚きだ。もっとも、レイヴンは城の構造をそこまで把握しているわけではない。この城自体が古代文明の遺跡でもあることが先の動乱で明らかになった今、おそらくレイヴンが知らないことのほうが多いだろう。かつて帝都を乗っ取ったことのあるアレクセイは、どこまで把握していたのか。

 この塔のことも、知っていたのだろうか。長く使われていないらしいとは聞いていたが、以前はどのように使われていたのか。レイヴンの知らない目的で人が立ち入ったこともあったのかもしれない。何度もこの塔に通ううちに、そんなことを考えるようになっていた。

 綺麗になった花瓶に生けるのは、エステルから差し入れられた花々だ。彼女はその身分もありこの部屋に立ち入ることを許されていない。それでも、せめて回復を祈るために何かしたいと思いを口にしていた。贈られた花々は、他にろくなものがない殺風景な部屋に唯一の彩りを与えている。

 レイヴンは、格子で守られた窓のほうを見やった。もうすぐ陽が傾こうとしているのが光の加減でわかった。その日の任務を終え、塔にのぼり、アレクセイの世話をする。それが最近のレイヴンの日課だった。

 ――今日は、よく眠っている。

 ヨーデルのはからいで、先日ハルルから輸送されてきた最新の医療装置が、アレクセイに用いられることになった。精霊術を組み込んでおり、先日完成したばかりの先行型らしい。

 世界の混沌を招いた大罪人に、最先端の医療技術が施される。アレクセイのことを知るわずかな者の中からも、そのことに対する疑問は出た。しかしヨーデルは、彼自身の口から事の次第が語られるまで、回復のために最大限の治療を施し、彼を保護するという判断を下した。彼の罪に対する処遇は、その後で論ずるべきだとした。

 アレクセイの容態は依然としてなかなか変わらない。眠っている時間が大半で、ごくたまに目を開けているときも、視線はさまようばかりでこちらを認識しているのかどうかも定かでない。

 それでもレイヴンは、アレクセイが目覚めているときはなるべく話をするようにしていた。少ない灯りをわけあう帝都の街並み、騎士団に入団した期待の新人、少しずつ変わっていく今の世界の話をしたかった。

 同時に、それはとても残酷なことだとも思っていた。アレクセイが死の運命をみて眠りについているあいだに、世界はあまりにも様変わりした。この人が目指した覇道の理想も、目にした終末の絶望も、今はない。

 少しでも、今の世界のことを知ってほしかった。かつての絶望は去ったのだ。アレクセイが今ここにいるというのなら、自分はこの世界で彼が生きていけるように、力を尽くす必要がある。

「俺は、せめて、あなたを……」

 アレクセイから与えられたものは、あまりにも多すぎた。それでも、ただ、彼がふたたび世界を自分の目にいれるときまで、できることをしなければならない。このひとを見ようとしなかった、見ることができなかった、罪滅ぼしのために。

 ふと、音もなくアレクセイの瞳がひらかれた。レイヴンはおどろいて、その顔をおずおずとのぞきこむ。

「具合、どうですか? 少し、水飲みますか?」

 小声で話しかけるが、反応はいつものようにない。虚ろな瞳が宙をみつめている。

 レイヴンは水差しを手に取り、アレクセイの顔のそばに持っていく。抵抗する素振りはなかったので、そのままゆっくりと少量を口に含ませる。つうと唇の端からこぼれたものを柔らかな布で拭き取る。

「もうすぐ夕方ですよ、一日あっという間ですね」

 窓のほうを指し示して、レイヴンは明るく話す。

「ここからだとあんまり見えないですけど、結界がなくなったので、けっこう空が広く見えるんですよ。晴れた日なら、向こうの山まで見えるかも」

 アレクセイは微動だにしない。レイヴンの話し声だけが部屋に響く。構うことなく、いつものように話をつづけた。いくつかの他愛もない話を白い空間に披露する。

「市民街の噴水も、再建の目処が立ってそろそろ作業の準備が始まってるんですよ。歩けるようになったら、見に行きましょう」

 何も語らず、こちらを見ることもないアレクセイの目が、ひとつ瞬きをする。

「すみません、少しうるさかったですかね。今日は長く話しすぎたかもですね、そろそろお暇しますよ」

 話しているうちに、部屋に射す光はだんだんと陰りはじめていた。レイヴンは立ち上がって窓掛けを下ろし、壁の燭台に火を入れる。アレクセイのそばに戻り、軽く枕元のシーツを整えて、部屋をあとにしようとする。

「……れ」

 何か声に似た音が聞こえ、レイヴンは振り向く。幻聴だと思った。わずかにアレクセイの声に似ていたからだ。

「……てくれ」

 レイヴンは硬直する。アレクセイのふたつの瞳が、はっきりと、こちらをとらえていた。一歩近づく。アレクセイの虚ろな、濁った眼差しは、目の前にいる人間に向けられていた。レイヴンを見つめながら、かすれた声が、何かを伝えようと紡がれる。

「殺してくれ」

 一切の音が消える。静寂な部屋に、アレクセイとレイヴンと、その言葉だけが残される。

 曖昧な意識のうちで口にしたうわごとかもしれない。けれど、視線は片時も逸らされることなくレイヴンをまっすぐに刺している。

 頭が熱い。ぐらぐらと揺れる。寒気がおそう。腹の底が熱く暗く沸き立つ。

 ――あなたが、俺に、それを言うのか。

 レイヴンは、アレクセイの憐れむような目を思い出した。動かない体を引き寄せた熱い腕を思い出した。

 すべて逃れられない罪ばかりだ。

 レイヴンは枕元に手をつき、寝台のアレクセイを見下ろした。白く、古い陶器のような頬に指を這わせる。そのつめたさに震えて、泣きたいような思いがした。また、なにごとか口にしようとして開きかけた唇を、自分の陰のなかに閉じ込めるように塞いだ。

「あなたは……まだ、生きている」

 陰に覆われた顔が、すぐ間近でほんのわずかに揺らいだような気がした。ほかに、どうすればいのかわからなかった。その揺らぎをたぐり寄せるように、レイヴンはふたたび手を伸ばした。

 

 

 

 戦いの喧騒があちらこちらから聞こえはじめた。レイヴンは状況を確認し、一度後方に下がることにする。土煙がもうもうと立ちこめる前線から、中継拠点へと戻ってくる。

「状況は?」

「はっ、平原の主は南東方面からの動きがあり、部隊前方に現れるのは予定時刻通りかと」

「報告ご苦労、そのまま陣形を保ったまま各部隊備えろ」

 レイヴンの指示を受け、騎士はギルド部隊のほうにも伝令を届けに走っていく。デイドン砦を望むペイオキア平原の主の討伐に、騎士団とギルドの合同部隊が当たることとなった。レイヴンはその全体指揮官の役割を与えられた。

 帝都から離れた任務に赴くのは久々だった。会議が多くあったことや、アレクセイの件の根回しなどもあり、長く帝都への滞在が続いていた。

 レイヴンは木組みの高台にのぼり、全体を見渡す。案じていたような小競り合いが起こっていることもなさそうだ。すぐ近くの部隊では、ギルド員と騎士団員たちがそれぞれ憧れの首領と隊長について語り、その素晴らしさなどについて論議していて、思わず溜め息をつく。

 今回の討伐任務は、今後の騎士団とギルドの協力体制を本格化していくための演習の意味合いが強い。天候も荒れる気配はない。風向きもこちらに地の利がある。レイヴンは見える限りの周囲をくまなく確認する。

 見渡す先に、山々の稜線が見える。青い空を横切るその形に、ふと何か不思議な感覚をおぼえる。違和感とはちがう。どちらかというと、既視感に似ている。頭の奥に引っかかるものがパチリと火花のように弾ける。

 ――そうか、この辺りが……。

 どうしてそんなことを今思い出したのか。これまで何度も赴いた地のはずなのに、なぜ今ごろ、見覚えのある景色だと気付くのか。

 いまや跡形もなくなった故郷の外れで見た空と、よく似ていた。

 レイヴンは首を振る。戦いの前の張りつめた思考が思い違いをしているのかもしれない。十年以上前に地図から消えた街だ。もう座標すらうろ覚えだ。本当にこの辺りだったかも自信がない。それくらいに遥か遠くまで来た。

 今のレイヴンは、今ここに立っている理由がある。守るべきものを守る責任がある。

「敵影、前方に現れました!」

 知らせの声に、レイヴンは高台からひらりと飛び降りて号令を告げる。作戦が開始されたのを確かめ、自らも中央の部隊に合流する。

 巨大な平原の主は、近づくと動く山のようだ。畏怖するいくらかの者たちを激励し、レイヴンも弓を引き、攻撃を加える。

「左翼方面、救援を!」

 予想外の事態が起きたのか、レイヴンは周囲の者たちに合図するとそちらに向かう。崩れた陣形を掻き分け進むと、平原の主よりひと回りほど小さいが、巨大な魔物が別方面から迫っていた。主の番だろうか。

 こちらの部隊は元々少し心もとない戦力だった。軽傷ではあるが負傷者も出ている。他の部隊から救援人員が来るまで距離からしてあとしばらくはある。

「負傷した者は後方へ、体制を立て直して応戦する!」

 レイヴンは弓剣をかかげて迫る敵をとらえる。ギルド部隊の前衛たちも武器を構えなおして駆けだす。

「ぐっ!」

 前方にいたうちの一人が土に足を取られる。負傷にかまわず戦闘を継続しようとしたのだ。その隙を、主の番らしき魔物は見逃さずに鋭い突進の構えをとる。

 ――ダメだ、間に合わない。

 一瞬気付くのが遅かった。レイヴンは滑るようにそこへ飛び込み、無我夢中で技を発動させた。胸の魔導器が熱く鼓動する。

 力の奔流に、巨大な影は怯みをみせる。そこに畳みかけるように、次々と部隊が突撃していく。

「すまねえ! 俺が油断して……」

「軽い怪我でも甘く見るなよ。ほら、退(さ)がれ」

 ギルド員は足を引きずりながら後方へ向かう。そのうちに救援が到着し、なんとかこちらが優勢に転じたようだった。

 一難は去った。主と今も交戦中であるはずの、中央の戦況を確認しに行こうとする。瞬間、視界がぐらりと揺らいだ。

 心臓が燃えるように熱い。夢中ではあったが、出力は多少加減していたはずだ。それなのに、襲いくる痛みと息苦しさに、思わず膝をついてしまう。

「こんな体で……何を守るって……」

 ――自分の罪も、なにひとつ償えはしないのに。

 意識が暗転した。

 

 

 

 薪の爆ぜる音が聞こえる。心地よいあたたかさに包まれているのを感じる。つめたい体の芯にその温度がしみいる。

 目を開けると、木製の天井があった。ぼんやりと見つめていると、近くから声がした。

「気がついた?」

 そこにいたのはリタだった。レイヴンのいる寝台のそばの椅子に腰かけて、本を読んでいたようだった。

「意識ははっきりしてる? 痛みはある?」

「……大丈夫、ちょっとぼうっとしてるけど、どこも痛くないよ」

 リタは安堵したように息をつく。少しずつ思い出してきた。どうやら作戦中に倒れて、ここまで運ばれてきたらしい。

「ここ、リタっちのお家?」

「あたしの小屋にこんな広い部屋あるわけないでしょ。ハルルの研究所の部屋を借りてるのよ、他の怪我人も何人か運び込まれてきたわ」

「そっか、そうだった」

 呆れたように首を振って、リタはレイヴンに水の入った器を差し出した。黙って受け取り、すこしずつ口に含む。

「あんた、自分が倒れたときのこと、覚えてる?」

「えーっと、おぼろげには……」

 心臓の痛みに耐えかねて、意識を失ってしまったのだ。そうして、はたと気付く。リタと会うのはずいぶん久しぶりだった。レイヴンが検診の約束をすっかり忘れてしまっていたからだ。

「ごめんね、手間かけちゃって」

「ほんとよ、他の奴らの間でも噂になってたわよ。あんたが変な技使ってぶっ倒れたって」

「はは……全体指揮官だってのに、情けないわ」

「作戦は無事に終わったみたいよ。優秀な部下たちに感謝したほうがいいわね」

「ほんと、その通りね」

 会話が途切れて、沈黙が走る。リタと最後に会ったのは帝都だった。ごく短い会話を交わして、すぐに立ち去った。そのときに、次の検診には行くと言ったことを思い出した。

 ――今日は何日だ?

 レイヴンは頭を押さえる。一度詫びて、今度こそはと自分で言ったのにもかかわらず、また完全に約束のことなど忘れてしまっていたのだ。

「リタっち……俺」

 リタは静かにレイヴンの言葉を待つ。何を言われるか、分かっているような顔で。

「また、約束、破っちまったかな」

 ぱちり、と薪がひときわ大きく爆ぜる。

「そうね、もう、三か月以上診てなかった。数値の乱れもひどくて、あんな状態で魔導器の出力上げたら、倒れるのも当然ね」

 リタの声は落ち着いていて、ほとんど怒りの色を感じ取ることはできなかった。あのリタでも、怒りを通り越して呆れるくらいなのだろう。

「嫌なの? ここに来るの」

 そう言われ、レイヴンは弾かれたように顔を上げる。

「ちがうって、嫌ってわけじゃ」

「あんたが無理やり診られるのが嫌っていうなら、あたしが勝手に無理強いし続けるのもどうかと思うし、考える」

「勝手なんて、リタっちは俺のことを考えて……現に俺がずっとすっぽかし続けたせいでこんなことになったし、俺が全面的に悪いんだって。リタっちのせいなんかじゃない、いくら怒られても仕方ないって思ってる……本当にごめん」

 レイヴンが布団に頭を擦り付けても、リタは何も答えない。バカじゃないの、信じられない、嘘つき、そんな風に怒って叱りつけてほしかった。

 けれどいくら待っても静寂ばかりが返ってくる。胸が苦しくなる。勝手なのはどう考えてもこちらのほうだ。そうして怒られる段階すら、もう越えてしまったのだと理解した。

「……それとも」

 リタは重々しい息をゆっくりと吐き出す。

「そんなこと考えてられないくらい、気がかりなことでもあるの」

 まっすぐに向けられた視線に、レイヴンの体は硬直する。リタのこういう目を見るのは苦手だった。己の内にある浅ましいものをすべて引きずり出されそうな気分になる。

「そんな、ほんとにちょっと、忙しかっただけで」

「アレクセイのことで?」

 あまりにもあっさりとその名前を口にされて、レイヴンは明らかに動揺した。なぜリタが知っているのか。喉がつかえて、言葉がうまく出てこない。

「この前、帝都でフレンとエステルから聞いたのよ。近いうちに凜々の明星のメンバーとかにも伝えるって話だったから。あんたはそのこと、聞いてなかったの」

 リタは埃を払うように、机に置かれた本の表紙をそっと撫でる。

「いずれ折を見て、とは……言ってたと、思う」

 確かヨーデルがフレンにそういうことを言っていた。すでに他の面々にも伝えられているのだろうか。

「それなら、ちゃんと言ってほしかった。そんなひどい顔になる前に」

「ひどい顔って、ちょっとリタっちったら……」

「この前会ったときもおかしかった。あんたがそんな顔してるのは、アレクセイのことが原因なんでしょう」

 なんとかおどけようとした隙に、容赦なく問いが撃ち込まれる。何を言えばいいのか。何と答えればいいのか。言い訳も説明も誤魔化しも、なんの言葉も浮かんでこなかった。

「あたしだって関係ないわけじゃないのに、あんた一人で全部そうやって抱え込んで、何も知らせてくれないで……おっさんだけで解決できることじゃないんだから」

 リタの言葉が胸に突き刺さる。じくじくとした痛みを伴って、呼吸が苦しくなる。リタの言うことは正しい。レイヴンのほうが間違っている。

 けれど、間違っているからこそ、この手でなさねばならないこともある。取り返しがつかないことを誰よりも知る者として、償わなければならない。自分の罪を。

「解決なんて、当然、俺にできるわけじゃない……それでも……あの人があんな風になったのは、俺のせいだ」

「そんなわけない、全部あいつが招いたことなんだし、もしおっさんに責任があるっていうなら、あたしたちにだってあるわ」

 リタはレイヴンのほうに身を乗り出して、必死に訴える。耐えられずに目を逸らした。耳を塞いで逃げ出したくなった。何も聞きたくない。何もかもが痛くて苦しくて仕方がない。

 ――そんなわけないだろう。

 レイヴンとリタたちの負ったものが同等であるはずがない。あの人をずっとそばで見ていた。違う。そばにいたのに、何ひとつ見ていなかった。それどころか、どうだっていいとさえ思っていたかもしれない。

 一度死んで、与えられた命でいまも長らえているこの体に、できることなどもう限られているのだから。

「俺はあの人を……アレクセイをもう死なせない。償わなきゃいけない」

「だから、あんたひとりで……」

 リタの肩をそっと押し返して、うつむいたまま言った。

「何が、分かるんだ」

「え?」

「あの人の何が分かる? 何をもって、俺だけのせいじゃないなんて言う? 何も知らないから、そんなことが言えるんだ」

 ひと息に吐き出したあと、耳を圧迫するような沈黙が部屋に訪れる。レイヴンは布団をぎりぎりと握りしめた自分の拳と見つめ合っていた。リタの表情を見ることなどできなかった。

「モルディオ、ちょっと今、いいか?」

 しばらくして、ノックの音で静寂が破られた。リタはわずかに戸惑ったような気配のあと、今行く、と答えて、そのまま部屋を出ていった。

 レイヴンは途端、うずくまるように布団に顔を押しつけて、手のひらに爪が食い込むくらいに拳を握りしめた。

 ――最低だ。

 ここへ運び込まれたレイヴンに魔導器の調整を施し、目覚めるまでそばについてくれていたのは誰だと思っているのか。リタはただ、レイヴンの無理を案じていたにすぎない。あんな風に声を荒げて、思うまま感情をぶつけるなんて、どうかしている。

 心臓が軋むような感覚に胸を押さえる。規則的に鳴り続ける駆動音が体じゅうに響く。その響きを感じるたび、体が少しずつひび割れていくような気がした。

 

 

 

 

 4

 

 

 

 研究棟の廊下は少し寒い。いつも人がせわしく行き交っているが、あまり陽の光が入らない構造だからかもしれない。元アスピオの研究員たちにとっては落ち着く環境だともいえる。

「ふわあ……」

 実験室の施錠をして、リタはひとつ大きなあくびをする。このところあまり眠れていなかった。進めている研究が忙しいのもあったが、単純に寝つきが悪く、横になっても目が冴えてしまう日が続いていた。

 この前まで滞在していた騎士団・ギルド合同部隊の負傷者たちも、数日間の療養を経てそれぞれ帰還していった。いつもより騒がしかった広間の喧噪もすっかり落ち着いている。

「モルディオ、来客が来てるらしいぞ」

「あたしに?」

「遠目からしか見てないが、黒髪の奴だったな」

 礼を言って、早足で入り口へ急ぐ。黒髪、と聞いて反射的に頭をよぎった顔に苦々しい思いが湧き起こる。そんなわけがない。会いに来るはずがない。

 あちこちで立ち話をする研究員たちを避けて、辺りを見回す。それらしい人影は見当たらない。外に通じる扉を押し開けると、少しだけしめった風がふわりと吹き込んでくる。薄曇りの昼下がりだった。

「よ、リタ、いきなり悪かったな」

「あんたか……久しぶりね」

 柵にもたれかかったユーリが、片手をあげてこちらに合図してくる。

「誰だと思ってたんだ?」

「……べつに、誰でもないけど」

「実験中だって追い返されたから、ここで待ってりゃ来るかと思って。ギルドの仕事のついでで寄ったんだよ。ジュディからリタの様子を見てこいって言われたのもあるけどな」

「ジュディス、忙しいの?」

「このところ、ちょい仕事が立て込んでてな。もうそろそろ落ち着くから、そうしたら会いたいって言ってたぜ。ほら」

 小さな紙袋を渡される。促されて開けてみると、焼き菓子を詰め合わせた箱が入っていた。

「ジュディからだ。あんまり無理すんなってさ」

「これ……ダングレストで買ったの?」

「そう聞いてるが、なんで分かった? 知ってる店か?」

 リタは首を振った。よくレイヴンが持ってきてくれたのと同じものだった。ずいぶん長いこと食べていなかった。

「あたしは直接行ったことないけど、食べたことあっただけ……好きな味だったから、また食べたかったの。お礼、言っといて」

「了解」

「お茶でも飲む? 大したものは出ないけど」

「いいよ、それ届けに来ただけだし……いや、でもせっかくだし、ちょっと話でもするか。ジュディへの土産話も持って帰らないといけねえし」

「土産話って、何話すつもりよ」

「お前のこと、なんだかんだ心配してたからな、いろいろと」

 そんなことを話しながら歩き始める。リタの小屋は、連日の寝不足や報告書三昧のせいで、とても人を招いて茶を飲める場所などなかったので、研究棟の裏庭に行くことにした。裏庭といえるほど整えられてはいないが、簡素な椅子とテーブルがある。もっとも、ここでのんびりと休憩するような研究員はほとんどおらず、人気のない静かな場所となっている。

「はい、お茶とクッキー」

「なんか、このクッキー変わった匂いだな」

「頭がよく回る成分が配合されてるのよ、この研究所にはそれなりに備蓄されてるわ。それとも、あたしがもらった菓子のほう、食べる?」

「いや、いいよ。それはお前にって話だしな」

 ユーリはクッキーをもぐもぐと頬張りはじめる。リタも口にすると、少し固い食感が疲れた頭に刺激を与えてくる。

「見るからに寝てないって感じだけど、忙しいのか?」

「最近ちょっと実験続きだったってだけ。夜は寝るようにしてるけど」

「あんま寝れてねえのか」

「まあ、ね」

 リタは草地につま先を擦りつけて答える。目を閉じるといろいろなことが頭を巡ってしまう。どうすればいいのか、どうすればよかったのか、何度も答えを探して自問自答して、そのうちに朝が来てしまう。

 ――何も知らないから、そんなことが言えるんだ。

 結局、あれからレイヴンとは一度も顔を合わせないままだった。程なくして、いつの間にかレイヴンはハルルを発っていた。乱れていた数値が確かに落ち着いたかどうか、再度検診することもできなかった。あんなに声を荒げたレイヴンを見たのは、初めてだった。

 リタは激しく後悔した。怯まずに、ちゃんともう一度会いに行くべきだった。自分の感情なんて脇に置いて、とにかく魔導器の様子だけでも確認するべきだった。

 けれど、レイヴンはそれを拒否したかもしれない。リタが、何も考えずに自分の都合だけ押しつけてしまったから。

「よく眠れる茶とか、エステルに聞いてくるか」

「前にもらったのがあるし、わりとよく飲んでるわ」

 心配そうに腕組みするユーリを見て、リタは顔をそむけて息をつく。心配される側になると、あまり言葉が出てこずにそわそわと話を切り上げたくなってしまう。そんなことはもういいから、と言ってしまいたくなる。

 ずっと、そういうことを繰り返してきたのだ。レイヴンがどう思っているのかなんて聞こうとせずに、自分の求める答えを引き出そうとしてきた。心臓魔導器の検診を始めたときもそうだ。そうするのが当然だと、そうしなければいけないと思っていた。

 深く息を吸い込んで吐き出す。かすかな花の香りを感じる。立派に広がった枝の向こうに見える空がまぶしい。

「ユーリ……もう、エステルかフレンから、聞いた?」

 それだけで、ユーリは察したようで表情を険しくした。

「ああ、アレクセイのことだろ」

「今、おっさんがそばについてるって話も?」

「ちらっと聞いたな。フレンはおっさんの負担を減らそうとしてるみたいだったが、あのおっさんいつの間にかいなくなってて、なかなか上手くいってねえらしい。あいつも立場上ホイホイと病室に近づくわけにはいかねえみたいだし」

「そう……」

 ユーリは眉をひそめてリタの顔を見やる。

「おっさんのことが心配で、眠れねえってわけか」

「ばっ……そうじゃないわよ、そうじゃなくって、ただ、あたしが……失敗しただけ」

「失敗?」

 目を閉じると、レイヴンのうつむいた暗い表情がよみがえる。思い出すたびに頭の端が焦げつくような痛みが走る。

「レイヴンは、アレクセイがあんな風になったのは、自分のせいだって言ってた。あたしはそんなわけないって、あたしたちにも責任があるって言った。そうしたら……」

 ぐっと息をひとつ飲み込んで、言葉を絞り出す。

「あたしにわかるわけないって、そう言われた。何も分からないから言えるんだって……あたしは、あいつだけが思い詰めるのは間違ってると思うし、ちゃんと自分のことも考えてほしかった。でも、どうしたらよかったのか、わかんない」

 検診のことなど思い出せないくらい、ずっとアレクセイのことを考え続けているのだろう。自分の体のことなどどうだっていいと思い始めているのかもしれない。今のレイヴンは、アレクセイのためなら自分の命などあっさりと使いつくしてしまいそうに見えた。

「そうか……おっさん、リタにそんなこと言ったんだな」

 ユーリは驚いたように目を見開く。

「そうだろうな、何も分かってねえっていうのは、その通りかもな。おっさんがあのアレクセイの近くで何を見てきたのか、オレたちはほとんど知らねえ」

 風がびゅうと吹いて、テーブルから飛ばされそうになったクッキーの空袋をユーリは器用につかまえてみせる。

「知らねえから、本当は知ってほしかったんじゃねえか、おまえに」

「どういう、こと?」

 空袋を懐にしまい込むと、ユーリは立ち上がって庭を歩き始めた。

「アレクセイと戦う前、レイヴンがアレクセイのことを話そうとしたことがあった。あいつも初めから腐ってたわけじゃなく、騎士団長として重い責任を背負ってたっていうようなことをな」

 責任、という言葉に、リタの体は知らずこわばる。

「その話をオレは聞かなかった。聞いたらあいつを斬る剣が鈍るって思ったからだ。けど今になってみたら、あの時きちんと聞いとくべきだったと思う。聞いたうえで、斬らなきゃならなかった」

 背を向けたままのユーリの髪が、温い風にたなびく。

「アレクセイがああして生きて帰ってきて、おっさんがそんな風に抱え込んでるのは、それこそオレのせいでもあると思ってる」

「そんなこと」

 振り向いたユーリの穏やかな表情で、はっとする。また同じことを繰り返そうとしていた。

「オレにも、オレだけの責任がある。それは誰に何を言われても変わらない。オレ自身が向き合わなくちゃいけねえもんだ」

 ユーリの言葉に、リタはぎゅっと拳を握りしめる。どうにもならないもどかしさが胸を埋める。

「おっさんも、そう思ってるってこと?」

「そうかもしれねえし、違うかもしれねえな。だから……分からないといけないのかもな、簡単にできることじゃねえだろうが」

 知らないから、分かろうとしたい。そう思っていた。知りようのないことに触れるというのは、いつだって難しく綱渡りの作業だ。分かりたいという気持ちが先走って、本当に知るより前に分かったような気になってしまうのだ。

「わけを聞いたって、アレクセイがやったことはなくならない。けど、それでも知らなきゃいけねえことは、あるのかもな」

 ハルルの花びらがひらひらと舞い込んでくる。リタは手のひらに偶然落ちた欠片に目を落とし、ユーリの口にした言葉を胸のうちで繰り返しつづけた。

 

 

 アレクセイについてリタが知っていることは、ごくわずかだ。リタも知り得ない魔導の知識を持っていたこと。ヘルメス魔導器の一つである心臓魔導器をレイヴンの体に用いたこと。

 騎士団長としてアスピオに何度か要請を送ってきたこともあった。けれどよく読まずに断ったのを覚えている。なぜか、城直属の魔導士として帝都に屋敷を用意するからと、移住してくるように勧められたこともあった。当然、これも断った。

 今から思えば、アレクセイはリタの能力に目をつけていたのだろうか。もしあのとき誘いを受けていれば、リタもアレクセイの計画に加担することになっていたかもしれない。

 ――シュヴァーンは空っぽな奴で、何も考えずに任務をやるだけだったのよ。

 以前、レイヴンはそんな風にこぼしていた。アレクセイが何をしようとしているのか考えずに、その計画に加担していたこと、最後にその命を救いきれなかったことが、レイヴンにはずっとのし掛かっているのかもしれない。

「よいしょ……っと」

 リタは小屋に戻り、本棚の上のほうから紙束を引っぱりだす。長いあいだしまい込んだままだったので、少し埃をかぶっている。魔導器ネットワークについての論考だ。アレクセイの残した研究を元に、リタやウィチルが新たに書き加えたものがまとめられている。

 この魔導器ネットワークについての論考がなければ、世界中の魔核を繋ぎあわせて星喰みに対抗するという手段を取ることは難しかった。アレクセイは、自分の手で蘇らせたものが自分の知識を元に打ち砕かれたと知ったら、どう思うだろうか。

 やはり、アレクセイの持っていた魔導の知識については疑いようがない。論考を読み返し、改めて確信する。ヘルメス魔導器を多く計画に用いていたこともあって、リタの知らない術式の組み上げ方や、魔核の構造にまで踏み込んでいる。

 リタは思い出す。何度かこの手で調整した、今もひとつ残る魔導器のことを。リタは心臓魔導器がいかにして設計されたのか全く知らない。基盤となっている構造も、生命力を巡らせている仕組みについても、どうにか手探りで少しずつ紐解いている状態だ。

 レイヴンの検診で毎度調整するたびに、複雑な術式と戦いながら、今の自分の限界を思い知らされた。難解な術式を通して、リタは前調整者の影をずっと感じ続けていた。精密に組み上げられた術式は、知識を持って調整する者がいなければ長年維持できるものではない。

 この魔導器は、リタがその存在を知らなかった頃から、十年間もレイヴンの体にあった。そのあいだ、アレクセイが今のリタのように、レイヴンを定期的に診ていたのだろうか。

 どんな風に。どんな気持ちで。

 リタにとって魔導器はきょうだいのようなものだった。それがほぼすべて失われた今、レイヴンの心臓魔導器は生き別れのただひとりの家族のような、そんないとおしさを覚えている。

 そんな感情とともに、失いたくない、生きていてほしい、そう思うのは、リタのきょうだいとともに生きるあの男の存在が、知らないうちに大きく心にあるからなのだろう。

 ――やっぱり、自分でちゃんと確かめなきゃ。

 リタは論考を閉じて立ち上がる。アレクセイがまだ生きているというのなら、確かめなければならない。アレクセイが知っている魔導の知識、心臓魔導器の詳細、それからレイヴンのことも。

 死んでしまったのなら、もう永久に話すことはできない。本人だけが知ることは、永久に闇に葬られる。

 けれど、まだ生きている。

 それなら、できることがあるはずだ。

 

 

 

 帝都に張り巡らされた長い階段をのぼりながら、リタは空を仰ぐ。以前に来たときとは少しばかり違う心持ちでいられている。焦りでもなく、苦しさでもなく、ただやらなければという気持ちが全身を動かしている。

 前回の訪問で、いきなり訪れてもリタの友人たちに会うのはなかなか難しいということが分かったので、今回はあらかじめ手紙を出しておいた。そのうえ、エステルとフレンの二通を用意し、帝都に直帰するという騎士団の部隊に預けた。これで普通に出すよりは幾分早く届くだろうし、どちらかが手違いで届かなくなっても片方の伝をつけられればそれでいい。友人たちが帝国きっての要人であるせいで、少し手間はかかったが仕方がない。

「エステルかフレンか、どっちかに会いたいんだけど、手が空いてるほうに取り次いでほしいの」

 今回は特に研究所から持ってきたものもない。身ひとつで門番に告げると、左右の二人で顔を見合わせて、ひとまず入り口の広間で待つように、と言われる。

「モルディオ殿、こちらへどうぞ」

 城内に入って待っていると、恭しい態度の騎士に案内される。城の中は、前回来たときとさほど変わりないように見える。特に騒がしいわけでも静まりかえっているわけでもない。

 ――アレクセイのことは、今のところ漏れずにいられてるの?

 リタがアレクセイの生存を知らされてからひと月ほど経つ。今、アレクセイの容態がどの程度回復に向かっているのかが気になった。レイヴンと何か話はできているのだろうか。最後に会ったレイヴンの様子を見るかぎり、前向きな意思疎通ができているとは考えにくい。

 そんなことを考えていると、いつの間にかどんどんと城の奥へ奥へと通されていた。こんな場所までリタが足を踏み入れるのは初めてのような気がする。人気のない廊下を曲がると、角からフレンが顔を出す。

「わっ、びっくりした……」

「すまない、驚かせたね。ありがとう、君は下がっていい。あとは私が」

 案内人の騎士はフレンの言葉を受け、敬礼の後すぐに廊下を引き返していく。

「こんなところまで来ちゃったけど、よかったの?」

「気兼ねなく話をするには、人払いされた場所のほうがいいと思ってね。帝都まで足を運んでくれてありがとう。手紙、読んだよ」

 フレンの顔がわずかに緊迫した色を見せる。手紙には帝都で話がしたいとだけ簡潔に記した。もし万一手紙が紛失しても構わないようにだ。

「失礼いたします」

 フレンが扉を開けると、綺麗に設えられた部屋の中にはヨーデルがいた。ソファから立ち上がってにこりと挨拶をしてくる。

「あんた、なんでこんなところに」

「リタ、陛下と……」

「フレン、かまいません。あなたがエステリーゼとフレンに同じ内容の手紙を送ったとのことだったので、私はエステリーゼの代理だと思ってください。あいにく、彼女はちょうど今日市民街の視察に出ていて」

「そう……おっさんは?」

「レイヴンさんは、ギルド方面の仕事のためにダングレストへ向かったよ。ここしばらくずっと帝都にいらっしゃったから、少しでも気分を変えることになればと」

 レイヴンには現在のギルドの情勢調査を任せることにし、しばらく帝都から離れるよう命じたという。それを聞いて、落胆の気持ちよりもほっとした気持ちのほうが大きかった。今日のところは会わずにすむ。今会っても、同じことを言ってしまいそうな気がする。

 レイヴンのことは心配だ。心臓魔導器の様子も気になる。けれど、今のリタができることは限られている。レイヴンを案じるなら、あの胸のうちに何を抱えているのか、少しでも近づかなければならなかった。

 ――このまま、何も知らないままじゃ、いられない……。

 ヨーデルはリタとフレンにも腰を下ろすよう促す。リタが送った二通の手紙はどちらも無事届いたようだが、どうやら皇帝陛下が出てくるほどの重大事だと察されているらしい。

「手紙では最低限のことしか書けなかったから、さっさと本題に入るわ。アレクセイに面会させてほしいの。今ってどういう状態なの?」

 フレンとヨーデルが顔を見合わせる。リタが何を言うかおおむね予想はついていたのだろう。二人ともがそろって深刻な表情を見せる。ヨーデルのほうが先んじて口を開く。

「アレクセイは、ここに運ばれてきたときよりはいくらか回復してきています。目覚めている時間も増えてきたようです。容態が安定していると見なしたのもあって、レイヴン殿にはしばし帝都を離れていただきました。しかし……このところ、錯乱したような様子を見せることがあるのです」

「錯乱って……暴れるってこと?」

「そういうこともごくたまに出てきています。身体は不自由な状態なので、まださほど大きな問題にはなっていないんですが……おかしなことを口走ると、傍仕えの者から聞いています。『真の改革』、『進むべき覇道』、『世界の支配』など……そのような言葉を誰にともなく語りはじめると」

「まるで、彼が騎士団長として僕らの前で話していたようなことを……いったい……」

 フレンは沈痛な面持ちで頭をかかえる。

「怪我で、記憶が混濁してる可能性があるってことなの?」

「そうかもしれませんが、医者も判断を迷っているようです。そうした錯乱状態は時間が経てば収まるのです。ですから、まだアレクセイの状態を断ずるのは待ちたいところなのですが」

「そういうことなんだ……だから、今の状態で君をアレクセイに会わせるのは危険すぎる。また状態が落ち着いたら、必ず連絡をすると約束する」

 真剣な表情で、フレンはリタに頭を下げてくる。こうなるだろうことは予想がついていた。けれど想像していたより事態は悪いらしいということが分かった。

「あなたに、私から一つ、聞いてもいいでしょうか」

「……なに?」

「あなたは、なぜアレクセイへの面会を望むのですか? どのような思いや目的があるのか、よければ聞かせてくれませんか」

 ヨーデルの真っ向からの質問にリタは思わず目を逸らす。どう考えても、ただの見舞いだと言って通るわけがないだろう。実際に、リタにアレクセイの状態を心から痛ましく思う気持ちがあるかと言われたら、迷いなく頷くのは難しい。彼を案じているのは、自分の目的によるところが大きい。

「アレクセイと……話がしたいの。あたしのこれからの目的と大事なもののために、どうしても確かめなくちゃいけないことがあるの、ただ、それだけ」

 そのまま、正直に話した。するとヨーデルはなるほど、と頷き、フレンに目配せをする。

「教えてくださりありがとうございます。代わりというわけではないのですが、私から、あなたに共有しておきたいことがあるのです」

 首を傾げるリタに、フレンが頷いてみせる。

「実は……アレクセイが生きているという噂が評議会員の一部の間で流れているらしい。まだ噂程度で済んでいるけど、万一明るみになる前に、こちらから手を打つ必要があるかもしれない」

「しかしこのまま状態が落ち着かず、事態が長引けば、アレクセイの処遇の判断は先送りになるばかりです。その間に噂が噂を呼んで、混乱を招くことは避けたいのです。何より……」

 ヨーデルはリタを見つめ、何かを伝えるように目を細める。

「あなたと同じで、私にも目的があるのです。そのために、彼には早く回復してもらいたいと考えています」

「目的って、まさかアレクセイの処遇を、政治的に利用しようってこと?」

「おおむね、その通りですね。あなたが聡明な方なのは存じていたつもりですが、そこまで見通されるとは」

「皇帝が、罪人の処遇について何も考えてないほうがおかしいと思うけど」

 苦々しく言うリタに、ヨーデルは眉を下げる。

「私は……評議会の体制を変革したいと考えています。帝国を代表する議員たちが一部の貴族のみで構成されている現状は、これからの帝国の在り方にはそぐわない。平民も議会へと参加し、広い民の声を集める体制を作りたいのです」

「平民も議会に、ね……貴族が好き勝手しにくくなって、いいじゃない」

「賛同くださって嬉しいです。そのために、彼の力を借りたいと思っているのです。彼の知る、評議会の暗部の情報が欲しい。また、彼の知識も今後の帝国に必要なものだと考えています」

「しかしこのままだと、正当な裁きを下すのは難しくなってしまいます。噂が広まり、真実として広がってしまえば、死罪にしろという声も大きくなるかもしれない」

「フレンの言うように……そうした選択肢もあり得ます。このまま彼が危険な言動を繰り返し続けるなら、そちらの正当性も重くなるでしょう。そうなれば、帝国がなした過去の罪として彼を処断する……古い過ちと別れを告げ、新しい時代に進むための禊とする。しかしそれが、本当にこの時代にあって正しいことなのか……もう少し、今の彼を慎重に見つめ、見極めたいのです」

 リタは悩むヨーデルを見やりながら、長く息を吐く。アレクセイの状態が回復するのと、アレクセイの噂が広まるのと、どちらが早いか。何にしても刻限は迫っている。

 ――いろんなことが決まる前に、どうにかして話をしないと……。

 アレクセイは錯乱状態にあるというが、まだ医者から何か判断が下ったわけではない。レイヴンが離れたのと入れ違いに錯乱するようになったという話も引っかかっていた。

 アレクセイは、レイヴンという存在をちゃんと認識しているのだろうか。もし記憶が混濁しているというのなら、レイヴンに関する記憶も正しいものではないのだろうか。

 分からないことだらけだ。やはり、実際に自分の目で確かめなければならない。

 何を得るのかは分からない。それでも、知らなければならない。

 リタと同じ目的を持っているのかどうかを。

 

 

 

 

 5

 

 

 

 白い部屋で、レイヴンは格子窓越しの夕暮れを見た。

 静かな部屋にアレクセイのかすかな呼吸音だけが響く。もう医療装置の出番はずいぶん減った。少しずつ食事もとれるようになってきている。

 白い服の合わせ目からのぞく肌が、少し汗ばんでいるのに気付く。引き出しから清潔な布を取り、そっと拭ってやる。シーツと同じくらい白い肌が、ほんのりと赤みを帯びている。

「……ちゃんと、生きてる」

 呟いて、頬に手を這わせた。ほんの少し温もりをはらんだ、ぬるい温度がレイヴンの手のひらに伝わる。生きている人間のあたたかさに、レイヴンは泣きそうな思いがした。

 同時に、恐ろしいと感じた。こんな風に、勝手に安心している自分に対して。

 アレクセイとは、まだまともに言葉を交わせてはいない。身体の状態は少しずつ回復に向かっているものの、会話は誰ともすることがなかった。わずかな身振り手振りのみが、意思疎通の手段だった。医者は、まだ脳機能が回復途中なのだろうと推測していた。

 しかし、アレクセイは少なくとも、自分が置かれている環境について理解し始めているとレイヴンは確信していた。なぜこんな厳重な部屋に閉じ込められているのか。会いに来る人間がごく限られているのか。

 ――殺してくれ。

 アレクセイが度々口にする意味のある言葉は、それ一つきりだ。少なくとも、レイヴンが知る限りは。

 アレクセイはその言葉とともに、レイヴンに請うような眼差しを向けた。なぜ殺してくれないのか。なぜ生きなければならないのか。見ているものを虚無に引きずりこむような昏い瞳がレイヴンをとらえつづけた。

 レイヴンはアレクセイが口を開くたび、その言葉を熱のなかに閉じ込めた。それ以外に、どうしてよいのか、分からなかった。

 このまま身体が回復していっても、心がついていかないのでは厄介なことになるかもしれない。まともな裁きが受けられず、処遇に悩んで死罪が下されることも十分あり得る。

 本来、今アレクセイが生存しているのはあり得ない事態なのだ。それなら、初めからなかったことにすればよい。そんなことに割く労力が惜しいくらいに変わりつつある世界は誰にとっても目まぐるしい。

 ――いったい、どうすればいい?

 アレクセイに生きていてほしいと思うのは、自分の勝手な願いだ。助かったアレクセイの命を、過去を償うための機会として見なしているのはひどく傲慢なことではないのか。それなら、他ならない自分の手で、アレクセイの望みを叶えてやるべきなのだろうか。

 眠るアレクセイの服をもう一度整え、レイヴンはそっと離れる。すると、目尻がわずかに濡れていることに気付く。そのままするりと涙が一滴すべりおちる。

 レイヴンは持っていた布地の端でそれを拭った。それからしばらく、枕元にうずくまって、動けなかった。

 

 

 

「以上、報告終わり」

 ユニオン本部の一番奥の部屋で、レイヴンは形だけの報告書を読み上げる。

「ご苦労、どうにか片付いたみたいで一安心だな。これで厄介な案件が一つ消えたってわけだ」

 ハリーはその体よりいくらか大きな椅子にもたれて、安心したように息をつく。今やユニオンを束ね、首領の肩書きを背負う昔馴染みの、時折見せる幼い表情に少しだけレイヴンの心はほどける。

「どうにか頼まれた件は片付いたけど、他には?」

「あー、しばらくは大丈夫だ。お前、帝都から帰ってきていきなりずっと動きっぱなしだったろ? 当面待機ってことで、久々の酒場でも行ってこいよ」

「え、ハリーが俺に酒を勧めるなんて珍しいね、飲み代は持ってくれるってこと?」

 馴染みの青年は、溜め息をついて呆れたような顔をする。

「んなわけねえだろ、飲みすぎて何か起こすようなことがあったら連絡しろって、あの団長兄さんに言われてるからな」

「ああそう……んじゃ、ほんとにブラブラしちゃうけど、いいのね?」

「ああ、何かあったら呼び出すから、もう行っていいぞ」

「冷たいねえ」

 茶化すレイヴンに、ハリーはさっさと行け、とでも言うように手の甲を向けてくる。はっはと笑い声を残して、ギルド本部をあとにする。出口に向かう階段を一段ずつ降りる自分の足音が、いやに大きく響く。

 外に出ると、変わらない黄昏の空が頭上に広がっている。ダングレストを訪れるのは久しぶりだった。ギルドの仕事ということで呼び戻されたが、フレンとハリーが手を組んでレイヴンを休ませようとしているのは明白だった。このところ騎士団の任務とアレクセイの件で手一杯になっていたのは確かだった。しかし、レイヴンは最後まで帝都を離れることを拒んだ。

 ――確かに長いことあっちを留守にしてるけど、今は……。

 ――騎士団の訓練も、レイヴンさんのおかげでとても順調です。アレクセイの状態も少しずつ回復に向かってきていますから。

 ――そうはいっても、いつ不安定になるか。

 ――こちらばかりがレイヴンさんを借り続けていた形になって、これ以上はギルド側から睨まれてしまいます。そういうわけで、しばらくギルド方面にお力を貸してあげてください。レイヴンさんを必要としている人は、たくさんいるんですから。

 フレンに押し切られる形で、要請を受けいれることになってしまった。実際、人手が足りない案件があったのは確かだったが、レイヴンがやったことなどほんのわずかなものだった。ギルド員の喧嘩の仲裁や、遺跡調査の護衛など、本当に細々とした仕事をやっただけだ。

「どうすっかね……」

 あてもなく街を歩きだす。何もしなくていい時間というのはいつ以来だろう。世界の激変以来、思えばずっと何かに追われていた気がする。それを苦だと思っていたわけではなかった。何かやることがあるというのは楽なものだ。今も、こうして空っぽの時間を与えられたことに戸惑っている自分がいる。

 街の賑やかなざわめきに、懐かしい思いが蘇る。この街に初めて来たのは潜入任務のためだった。それがいつしか、馴染みの街になっていった。

 この街で過ごしているときは、自分の身分を忘れられた。自分が誰なのか、何をするために生きているのか、そんな些細なことなどざわめきの中に放って、酒と一緒にどこかへ流してしまえた。

 任務を命じたアレクセイの存在さえも、忘れられた。

 行きつけだった酒場に向かっていた足が、別の方角へ向く。裏通りの店で、酒瓶をひとつ買い、中心部の喧噪とは反対の方向へ歩いていく。

 

 

 煉瓦の階段を上って下りて、街の裏手まで出る。ダングレストに住む者、ギルドに関わる者やその親族が眠る墓地だ。ザーフィアス城の墓地よりは質素だが、多くのギルドがこの場所を維持するために協力しあっている。ダングレストの歴史を感じられる場所だ。

「……ずいぶんご無沙汰しちまったね」

 墓地の一番奥の大きな墓石の前に立つ。天を射る矢(アルトスク)の前首領、ドン・ホワイトホースの眠る場所だ。数々の供え物の中心に堂々とそびえる墓標は、さながら本人がそこに立ち続けているかのような風格をたたえている。

 レイヴンは買ってきたばかりの酒瓶を他の供え物の脇に置く。たまに二人で飲んだときに、彼が気に入っていた酒の一つだ。

「運良く売ってて助かったよ、これで勘弁してくれよな」

 ――今更、おめえの何を勘弁しろって?

 そう声が聞こえてくるような気がした。レイヴンは墓石の前にうずくまる。

 レイヴンは改めて墓石の前の供え物を眺めた。ドンの好物の酒当て、よく磨かれた工芸品、色とりどりの花々。だんだんと居たたまれない思いが湧いてきて、唇を噛む。

 ドンが死んだのも、巡り巡ればレイヴンに責任の一端がある。レイヴンが逃げ続けた果ての報いとして、彼の命は差し出された。そうして〝ギルドでの役目〟は終わりを告げた。

 それでも、まだレイヴンはここにいる。あのとき逃げ続けた報いが今もすぐそこにある。払いきれていない代償が山のようにある。

 辛気くさい面してんじゃねえ――そんな風にドンなら一発張り飛ばすだろうか。ドンの拳はいつも脳天に響くような衝撃だった。想像して懐かしく思ったあと、レイヴンはふと空恐ろしくなった。

 ――もしアレクセイが死んでいたら、こんな風に懐かしく思い返したんだろうか?

 実際に、つい先日までは死んでいたと思っていたのだ。アレクセイのことを過去の痛みにして、今の出来事に精一杯になって、少しずつ進もうとしていた。

 そうしているうちに、自分の行いなど薄れていき、鮮やかな眼差しも、夢を語る声も、触れられた手も、刻まれた痛みも、やがてすべて美しい思い出などになっていたのだろうか。

 レイヴンは立ち上がる。これ以上ここで追憶に耽っていると、本当に化けて出たドンに叱り飛ばされそうだった。

「……じいさん、俺はいつまで経っても、腑抜けなんだわ」

 呟いて、踵を返した。

 

 のろのろと歩きながら街の中心部まで戻ってくる。甘い匂いに、ダングレスト有数の菓子店が今日も営業していることを知る。リタによくこの店の菓子詰め合わせを買っていった。次にまた同じものを買っていくと言って、いったいどのくらい経っただろう。

 ダングレストに向かう道中で、こっそりとハルルに立ち寄った。あんなことを言ったあとで、しれっとリタと顔を合わせる気はなかったが、様子だけでも確認したかったのだ。

 しかし、リタは不在だった。しばらく調査のために遠方に向かったという。それを聞いてレイヴンは心からほっとした。本当は会いたくないと思っていたのに、なぜ立ち寄ったのか。謝りたいという思いと、いったい何を謝るのかという思いが同居していた。結局、手土産だけを研究所の受付に預けて去った。

 ぼうっと歩いていると、余計なことばかり考えてしまう。予定通り酒場にでも行くか、さっさと寝床に帰って眠るか迷っていると、勢いよい声が耳に飛び込んでくる。

「さあさ、とれたてピッチピチのお魚天国じゃぞ~新鮮な魚がよりどりみどり、どれも早いもの勝ちじゃ!」

 老若男女の歓声が次々に響く。どの客も店主の謳い文句に寄せられて、我先にと店頭に押し寄せている。

「乱暴な扱いは御法度じゃぞ、魚を傷つけたものはそれなりの代償をいただくからの」

 店主が上手に客たちをいなし、礼儀正しく並んだ列がするすると捌けていく。レイヴンが呆気にとられて見ている間に、屋台の品物は空っぽになってしまった。

「……パティちゃん、商売上手だねえ」

「おお、おっさんか! あいにくじゃがもう売り切れてしもうての」

「いや、今べつに魚はいらないんだけど……なんでこんなとこで魚屋さんしてんの?」

「仕事のついでに寄った海で大漁になっての、みんなで食べきれんほどじゃったので、せっかくなら自分で売ってみようと思っての」

「ギルド所属なら市場の許可も取りやすいけどさ……相変わらずすんごい度胸ね」

 話しているあいだにパティは素早く荷物をまとめ、屋台の周辺はあっという間に綺麗に片付いた。

「おっさんは散歩か? よく考えたら久しぶりじゃの」

「そうね、パティちゃんがギルドを率いて海で大活躍って噂は聞いてたけどさ」

「再会を祝して、一杯どうじゃ? うちも陸の食事は久々じゃからな」

 パティは伸びをしながら、返事を待たずに歩いていく。レイヴンは頭を掻いてそのまま付いていくことにする。

 

 

「ぷはあーっ、久々の一杯は格別じゃの」

「豪快な飲みっぷりねえ、ジュースでも」

 パティはオレンジジュースをあっという間に空にして、早々に二杯目を注文する。

「酒が不足して、ギルドの決まりも厳しくなったというからの。ここでうちがうっかり酒を口にしようものなら、たちまちおっさんが牢屋行きじゃな」

「おっさんのことを思って? 優しいねえ」

「一流の船乗りとしては、各地の酒を海風と一緒に味わいたいんじゃがな」

「大丈夫、まだまだ人生長いからいくらでもできるって」

 酒場の雰囲気もあって、久方ぶりのパティとの会話は賑やかに弾んだ。ダングレストの馴染みの食事に、レイヴンの酒もいくらか進む。

「そういえば、この前ジュディ姐に会ったぞ」

「おお、ジュディスちゃん、元気だった?」

「近ごろ特に大忙しみたいでな、皆に会う暇がないと嘆いておった」

「あらま、そんなに? 心配ね」

 すばやく持ってこられた二杯目を傾けながら、パティはレイヴンを見やる。

「おっさんのことも、心配しとったぞ」

「心配って……ジュディスちゃんが? 俺を?」

 ジュディスに最後に会ったのはいつだっただろう。記憶をたどっていると、がたん、とグラスを置いたパティがじっとレイヴンを見ていた。静かな海のような瞳が、店の灯りにきらめく。

「アレクセイのことじゃ。おっさんが看てやってるんじゃろ?」

 その名前を出されて、レイヴンは口に運びかけていたチーズを手元の皿に戻す。楽しい雰囲気に薄れかけていた痛みがじくりとよみがえり、胸を刺す。

「看て……って、そんな大層なことしてないって。たまたま城にいる時間が長いから様子見に行ってただけでさ、今はギルドの仕事で呼び戻されて、お役御免になってるし」

 はっは、と軽く笑ってみせたが、パティは表情を変えなかった。

「なるほどの、ジュディ姐の心配は見事的中しとったというわけじゃな」

「いやいや、どういうことよ……」

「アレクセイのことで、うちらの中で一番つらい思いをしとるのは、誰なのか明白ということじゃ」

 落ち着いた様子でパティはグラスを空にして、三杯目にパインジュースを注文する。

「つらい思い、って」

 つらい。つらいとは何なのか。言葉がぐるぐると回って、思考がかき乱される。

「そ、んな……ことないって、それを言えばさ……パティちゃんのほうが、思うところあるんじゃないの? びっくりしたでしょ、仇が生きてたなんてさ」

 パティは目を丸くしたあと、そうじゃな、と考え込むようにうつむく。

「今でも、あいつのことは許せん。あいつのしたことを思うと、仲間たちのことを思うと……腹の底が煮えくり返りそうになる。憎くて、たまらなくなる」

 重々しい声が絞り出される。憎しみを語る言葉に、レイヴンの体は知らず震える。己の手でもしかすると止められたかもしれない悲劇だったのに、事件の詳細すら知らなかった。あれだけそばにいながら、アレクセイの行いに何の関心も持っていなかった。すべては自分の外側で回ることだと思っていた。

「……けど、うちがあいつをもう一度殺したところで、何にもならん。せいぜいうちの心が少しばかり晴れるくらいじゃ。その代わり、おっさんが悲しむのは嫌じゃからな。心を晴らすなら、他にもっといくらでも良い方法がある」

 もう一度殺す。心臓がどくりと音を立てた気がした。自分の感傷などどうでもいい。そうしたほうが、あの人にとっては幸せなのではないか。ずっと考えていた迷いが、ふっと顔を出す。

「悲しむなんて……そんなことないよ」

 呟きながら、酒を一口流し込む。喉が焼けるように熱くなる。

「フレンや、他の奴からほんの少し聞いただけじゃが、おっさんとアレクセイは……サイファーとうちみたいなものだったんじゃな」

 しみじみと口にするパティに、慌てて否定する。

「いやいや、パティちゃんにとってのサイファーはさ、信頼できる右腕以上のかけがえない人だったんでしょ。俺とあの人は……そんなんに例えていいもんじゃないよ」

「そうかの、まあうちが知ることなど些細なことじゃが……もしサイファーが、と考えてみると、少しばかりおっさんの胸中が分かるような気がするのじゃ」

 パティはわずかに微笑んで、サイファーとの思い出をいくつか話してくれる。酒を賭けて何度も博打を打ったこと。無茶を何度も叱られたこと。めくるめく航海の日々をともに過ごしたこと。

「そばにいるからこそ、案外分からないことも、ぶつかることもあった。それもすべて大事な思い出じゃ」

 宝物をそっと懐からひとつずつ出すように、パティは語る。そのひとつひとつが眩しい光を放っていて、レイヴンは目が眩むような感覚をおぼえる。

「聞けば聞くほど、パティちゃんとはぜんぜん違うことばっかだわ。ぶつかるどころか、言い合いすらしたことなかったよ」

 アレクセイが道具たれと望むままに、レイヴンは道具以外のものになろうとしなかった。人間としてそばにいたのではなかったのだ。

「俺は……あの人の好きな酒も知らない」

 酒を飲み交わしたことなどない。アレクセイが酒を飲むのかどうかも知らない。ただ分かるのは、彼の体から酒の匂いがしたことは一度もなかったということだけだ。

「それなら……今度こそ、おっさんの気持ち、伝わるといいの」

 パティはちっとも減らない料理の皿をレイヴンのほうに差し出す。それに曖昧に微笑みかえし、のろのろと手をつける。

 今更、何を伝えればいいのか。

 アレクセイの濁った瞳が、強い残像のようにずっと焼き付いて離れないのに。

 

 

 パティと別れて、夜半過ぎ、レイヴンは街をふらふらと彷徨っていた。酒はそんなに飲んでいないはずなのに、足元が少しおぼつかない。

 街の入り口に渡された大きな橋のたもとまで来る。昨日は雨だったせいか、水の流れが速い。ごうごうと音を立てる濁流が、欄干に押し寄せている。

 深夜に歩き回ってはよく、この橋の上から水の流れを見ていた。この流れに飲み込まれたらどうなるのだろうと、想像することもあった。けれど、身を乗り出そうとしたことは一度もなかった。

 ――あの人に、終わらせてほしかった。

 今のアレクセイは、かつての自分によく似ている。なぜまだ生きているのか、なぜ終わらせてくれないのか。その思いに苛まれ、他をすべて塗りつぶす勢いで望みは膨らみつづける。

 かつての自分と違うのは、アレクセイが紛れもない大罪人だということだ。

 多くの人間を犠牲にし、多くの悲しみを生んだ。そのことを正しく覚えているとしたら、今の状態は耐えられないほどの責め苦だ。だからこそ、アレクセイはレイヴンに請い続けたのだろう。

 レイヴンはふらりと橋の欄干にもたれかかる。夜風で冷やされた石のつめたさが服越しに伝わる。ぼうっとそのまま体重を預けていると、橋の中央に、白い影が立っていることに気づく。

「な……デューク?」

 目を凝らすと、白髪が風になびいて翻る。デュークはレイヴンの驚いた様子など意に解さぬように表情を変えない。

「世を儚んで、川に身でも投げるつもりか」

「……んなことしないって、今夜はこんなに寒いし」

 なぜこんなところに、と問おうとしてやめた。この男にそんなことを聞くのは、いつだって無意味なのだろう。

「そうだ、お前さんに聞きたいことがあったんだった」

 このまま黙っているとさっさと立ち去られそうだったので、次の言葉を繰り出す。

「なんで、アレクセイを助けた?」

 デュークは闇の中で、わずかに眉をひそめる。

「助けたのはクロームだ。私はかの者を運んだにすぎない」

「術が消えるまで放っておけばよかったのに、そうせずに、わざわざ帝都まで運んだ。お前さんらしからぬ行動だと思っただけだ」

 レイヴンは話しながら、なぜこんなことを聞こうと思ったのか、よく分からなくなっていた。ただ、デュークはアレクセイの生存を以前から知っていたのだ。クロームを除けば、誰よりも早く。

「……私の答えによって、お前は何を得る? 私がかの者を打ち捨てておけば、今のような惨状にならずに済んだと、そう言いたいのか」

「惨状って、いや、何よ」

 デュークは重い息を吐き出す。彼にしては、程度の大きい感情表現だ。

「かの者が、再び世界の災厄の引き金となるやもしれん」

「災厄、って……どういう」

「人々によれば、かの者に再び野望を遂げんとする言動が見られるという。あれほどの損傷を負ったのだ、多少認識が混濁している面もあろうが、危険な兆候は確実に見られるといっていいだろう」

 レイヴンは困惑する。最後に見たアレクセイの様子から、いくらか状況は変化しているらしい。

「野望って、記憶がちょっとごっちゃになってるだけでしょ? あの人はもう今更何かできるような状態じゃない。そんな、災厄の引き金なんて」

「先日、側仕えの者が危うく害されかけたとも聞いた」

 背筋に戦慄が走る。そこまでの事態になっているとは思わなかった。ダングレストにいる間、そうした知らせは一切なかった。いったいアレクセイに何があったというのか。

「あの人は……まだ意識が混乱して……精神が」

「このままではいずれ混沌がもたらされるだろう。かの者を万一自由にでもさせれば、変化を遂げた世界の理をねじ曲げることもあるやもしれん」

 デュークは未来の危険性を繰り返すばかりだ。聞いているとだんだん動揺が苛立ちに置き換わり、ふつふつと腹の底が熱くなっていく。

「何? お前さんは、アレクセイをどうしたいの? このままさっさと処刑されてほしいの?」

「人間たちの判断に介入することはない。今しばらくは静観していよう。だが、私は今も昔も、この世界を守りたいだけだ」

 そう言って、デュークはいずこかへと去っていく。影の去っていった方向を追うことはしなかった。ただその場で、レイヴンは立ち尽くしていた。

 アレクセイが、再び世界を脅かす存在となる。果たしてそんなことがあり得るものか。

 レイヴンが少し帝都を離れている間に、あまりにも多くのことが起こりすぎている。濁った暗闇に沈んでいた瞳が、今は野望の炎を宿しているというのか。

 ――まさか、あの人は。

 一つの可能性に思い当たる。その気付きが、じわじわと確からしさをもって思考の隅々に浸みる。

 レイヴンが望みを聞き届けないというのなら、彼は次の手段を考えるのではないか。自らの生を再び終わらせるために、もっとも現実的な手段のことを。

 アレクセイは、自ら死罪の裁きを受けようとしているのではないか。

 レイヴンは橋のたもとに崩れ落ちる。だらりと首を傾けると、曇った夜空が頭上を覆っている。

 彼がもう一度今の世界を目にするまで、できることをしようと思っていた。けれど、アレクセイが今の世界を歩く未来は果たしてあるのだろうか。このまま城から出されないままに、再び命を終える可能性のほうが高い。正式な裁きが下されても、デュークから聞いた現在の状態で、死罪を免れることはあるのだろうか。ヨーデルならあるいはと思うが、それを知ったアレクセイはいよいよ自ら命を絶とうとするかもしれない。

 ――できることなんて、何があるんだ?

 終わりたがっている人間に生きろと言うことが、どれほど酷なことかレイヴンは知っている。それでも、言わねばならないときがあることも知っている。

 けれど、言えなかった。あの瞳を前にして、どうか生きてほしいと伝えることなど、とてもできなかった。

 ――終わらせなきゃ、いけないのか。

 いくつもの迷いが、決意になって絡まっていく。誰かに幕を引かれるくらいなら、と静かな衝動に駆り立てられる。

 アレクセイの望みを叶えて、自分の手にその罪を引き受ける。自分にしかできない、自分に似合いの役だと思えた。

 あのとき、叶えられなかった望みを、自分の手で叶える。

 そうしてすべてを手放して、楽になりたかった。

 

 

 夜が明けるとレイヴンは帝都行きの馬車に飛び乗った。誰にも言付けはしてこなかった。

 シュヴァーンとして呼び戻されたときの旅路を思い出す。仮面を付け替えるまでの、緩やかな猶予を馬車の振動とともに過ごしていた。

 今の自分はレイヴンでもシュヴァーンでもないのだろう。アレクセイのそばにいた、ただの罪深き人間の一人だ。

 いくつかの夜を越え、帝都に着いたのは夜更けだった。そのまままっすぐ城へ向かう。人気の少ない城の闇に紛れて、あの塔を目指した。

 塔の監視を眠らせ、中へと入る。自由に出入りできる身分だというのに、そうしてしまったのは思考が〝任務〟のときと同じになっているからなのか。

 隠された区画に入り、一番奥を目指して歩く。何度も訪れたこの長い廊下も、こんな風に歩くのは今夜が最後なのだろうか。

 ノックはせずに、部屋に入る。変わらず白い部屋は、壁の燭台のみに照らされて薄暗い。

 部屋には、誰もいなかった。

「アレクセイ……⁉」

 まさか、一歩遅かったのか。しばらく離れていたが、レイヴンが最後に見たときと部屋の様子はほぼ変わりないように見える。寝台に近づき、シーツに触れる。まだ温かい。先ほどまでアレクセイはここにいた。

 脱走。その文字が脳裏に浮かび、レイヴンは部屋を出る。廊下に出たところで、違和感をおぼえた。どこかから、物音が聞こえた気がした。わずかな人の気配も感じる。

 レイヴンは耳をすませて気配を辿る。壁伝いに一歩ずつ進むと、少しずつ気配は近くなる。ほんのかすかな人の声が耳に届く。

 壁に触れると、そこだけ質感が違うように思えた。その壁を丹念に調べると、床との境目のごく近くに小さな突起のようなものがあった。それを押し込むと、壁は扉のようにゆっくりと奥に向かって開く。

「なんだ、この空間……」

 扉の向こうにはさらに暗い廊下が伸びていたが、その先に薄明かりが漏れているのが分かった。レイヴンはその光に向かって進む。辿り着いた、わずかに開いた扉の向こうに、明かりの元はあるらしい。ゆっくりと、扉を押し開ける。

 中は小さな書庫のようだった。本だけでなく、用途の分からない器具なども納められている。

 その部屋の奥に、アレクセイが立っていた。

「……お前か」

 アレクセイはレイヴンを見て、そう呟く。どこか安堵したような響きにも聞こえた。部屋にはほかに誰もいない。アレクセイひとりが片手に杖を持ち、ただそこに立ったままでいる。部屋に来る人間を待ち構えていたかのように。

「歩けるように……なったんですか……」

「つい先日からな、これがなくてはまともに体を支えることもできないが」

 そう言って杖を見やる。アレクセイと、久方ぶりにまともな会話を交わしていることに、レイヴンの頭は困惑する。

「なんですか、ここ……なんで、こんな時間にこんなとこにいるんですか」

 恐々と問いかけるも、アレクセイは答えない。その表情は落ち着いたもので、最後に見た虚ろさの影は見られない。ただ、薄暗い部屋のなかでしっかりとその姿を目に入れていないと、ふとした瞬間に影に溶けてしまいそうに思えた。

「お前こそ、なぜここにいる。しばらく離れるのではなかったのか」

 レイヴンはやはりと確信する。この人は、すべてを正しく認識している。レイヴンのことも、今の状況のことも。

 言いたいことが山のようにあった。実質、アレクセイが謀反を起こして以来の会話といってもよかった。それならば、伝えなければならないことが数えきれないほどあるはずなのに、レイヴンの喉は詰まり、何も音を紡ぎ出してはくれない。

「そうか」

 アレクセイは一人、得心したとでもいうように息をつく。

「私を、殺しにきたのか」

 レイヴンの体がこわばる。当然のように見通された。殺しに、そのために来た。すべてを終わらせようと思って来た。

 なのに、なぜそんな目を向けるのか。

 アレクセイはゆっくりと歩を進め、レイヴンの脇を通り過ぎようとする。

「私の望みを叶えるのは、今少し待ってくれ」

 そして、振り返って手を伸ばし、レイヴンの背後から何かを取り上げる。小さな模型のように見えた。

「約束があるのだ」

 何かを堪えるような眼差しで、アレクセイはレイヴンを見つめた。

 

 

 

 6

 

 

 

「それで、私を呼び出したというわけね」

 長い足をソファの上で組み替えて、ジュディスは楽しそうに笑った。

「……なんでそんなに面白そうなのよ」

「だって面白いじゃない、深夜の潜入計画なんて」

 リタはずっとそんな調子のジュディスに困惑しながらも、小声で話を続ける。市民街の宿の個室なので、誰かに聞かれる心配は少ないのだが念のためだ。

「城内の地図は調達したし、頭にもだいたい入れた。裏庭と、アレクセイのいる塔の位置関係も分かってる。あとは侵入する手段だけなの」

 問題なくジュディスと帝都で会うことができたのは運が良かった。リタが菓子の礼として送った手紙の返事に、先の予定が記されていたのだ。帝都に立ち寄る日取りを覚えていたので、仕事がいったん一段落したジュディスをなんとか捕まえることができた。

 ジュディスなら、真正面から話せば協力してくれる可能性が高いと思っていた。うまくいかない可能性も頭には入れていたが、ジュディスはリタの話を聞くなり快諾してくれた。

 リタが単身ザーフィアス城に潜入し、アレクセイに会うという計画に。

「城の構造から、塔に飛び移れる距離の足場を割り出したの。そこに辿り着くためには、このポイントに降り立つ必要があるの。……現実的に、可能だと思う?」

 テーブルに地図を広げて説明する。ジュディスは長い指を顎にあてて、そうね、と呟く。

「バウルが城にどの程度近づけるかによるかしらね」

「やっぱりそこよね……夜だから、そんなに注目はされないと思うけど、でも、ある程度の高さまで降下してもらえれば、あとはコレでなんとか飛べるわ」

 そう言って、リタは背後の大きな荷物を撫でる。身長の半分ほどの大きな袋に包まれたものは、リタがずっと調整に取り組んでいた飛行装置だ。最初の試作段階から、ずいぶんと飛行可能距離も伸びた。

 帝都に発つ前から、フレンたちとの交渉に失敗した場合は、最終手段としてこれを使ってなんとかしようとは決めていた。だからハルルからわざわざ持ってきて、市民街の宿で厳重に保管していたのだ。ジュディスとバウルの協力が得られない場合は、地上から上層までなんとか潜入し、その後飛行機械によって塔を目指すルートも考えていた。

「大丈夫、あなたの理想の距離まできっと飛べるわ。バウルは今やみんなの憧れの的みたいなものだから、ちょっと帝都の空を散歩しているくらい、なんてことないわ」

 ジュディスは窓の外を見て目を細める。遠くの空に、見覚えのある影がぷかりと浮いている。

 バウルは、たびたび各土地に現れて物資を届けてはまた去っていく、神秘的なヒーローのような存在になっているらしい。

「可愛いあなたの頼みだから、力を貸してあげたい……とは思っているのだけど、やっぱり心配は心配ね。アレクセイがあなたに危害を加えない保証はないのだし」

「それはもちろん想定の内よ。ただ、話によるとアレクセイは手足が自由に動かせない状態らしいし、距離をとって接すればいざというときも逃げられると思う。精霊術の試作装置も身につけていくし」

 もし、ろくに話もできない状態なら、そのまま撤退するしかないだろう。しかし、少しでも話が通じる状態にあるのなら、確かめなければならないことがある。

 リタの言葉を聞いて、ジュディスは目を伏せて頷く。

「あなたの実力と覚悟は疑っていないわ。それにあなたなら……もしかしたら彼と話ができるかもしれないと思っているの」

「あたしなら、って、どういうこと?」

「アレクセイとあなた、似た目線でものを見ているところがある気がするの。そのことに気付いて、あの人もあなたに目をかけていたんじゃないかしら」

 おそらく、リタが帝都に来るよう誘われていたようなことを言っているのだろう。

「単に、帝国の言うこと聞かない魔導士だから、手元に置いて監視したかっただけでしょ」

 ジュディスはなぜか、寂しげに微笑む。

「私が思うに、彼があなたに特別な目を向けていたのは、あなたが……」

 途中で言いよどんで、首を振る。

「……いいえ、あなたの持つ紛れもない才に、惹かれるものがあったんじゃないかしら。利用価値とかそういうのとは別に、ね」

 ジュディスの言うことはよく分からなかったが、アレクセイの意思を確認する上で、リタに対してどういう感情を持っているのかが、多少重要なことだというのは分かった。それをここで考えてもさっぱり答えは出ないので、これも確かめるしかないだろう。

「何にしても、本人に直接聞くしかないわね」

「出たとこ勝負ね、ハラハラするわ」

「だからなんでそんな面白そうなのよ……」

 宿の外はまだ明るいが、いろいろと準備をしておかなければならない。地図の印を指でたどり、再び作戦の確認を始める。

 決行は今夜、満月が南の方角を過ぎた刻限だ。

 

 

 空中に浮かぶフィエルティア号から、明かりの灯る帝都を見下ろす。街の各所に灯された火が、花びらのようにぼんやりと円状に広がっているように見える。

「風も少し穏やかになってきたわ。そろそろ降下する頃合いかしら」

「今が絶好の機会ってやつね、行けるわ」

 こうして船縁に立つのは苦手だ。これほどまで高いところから低いところを見下ろすと、どうしても足が震える。けれど、怖気付いている場合ではない。

「もし危険だと思ったら、これ、バウルの角を渡しておくわ。強く念じて、握って」

「バウルの角って……クリティア族のナギーグってやつがないと使えないんじゃないの?」

 ジュディスはやさしく目を細めて見せる。

「あなたにも……使えるように加工しておいたの。角はふたつ……私が持っているものと、引きあうようにできているから」

「ちょっと原理はよく分からないから今度ちゃんと聞くとして……分かったわ。ありがと」

 応えるように、ブオオ、とひかえめにバウルが声を上げる。リタは懐に角をしまい込むと、飛行装置の起動をはじめる。事前の念入りな調整のかいあってか、操作は問題なくできそうだ。背中にかたく装着する。

「じゃあ、お願い」

 少しずつ、バウルが降下を開始する。だんだんとザーフィアス城の輪郭がはっきりと見え始め、城の中空にせり出した足場が夜闇の中で浮かび上がる。第一の到達目標地点だ。

「行くわ」

 リタは甲板から足を踏み出し、つま先で縁を蹴って空中へと飛びこむ。リタの体を包む風がごうごうと鳴る。奇妙な浮遊感に背筋がぞくりとするが、落下の速度は調整した通りゆるやかだ。

 怖いと思うのは、落ちることを想像するからだ。背中からリタの翼となってくれている装置の熱が伝わってくる。リタは飛ぶことができる。どこにだって行ける。

 予定通りの地点に降り立つ。見上げると、バウルは少し離れた空をゆっくりと回遊してくれているのが見える。

 ここから塔に飛び移るために、二度の滑空をする必要がある。特に物音は聞こえない。足場の縁から塔の方角を確かめる。いくらかの明かりが灯る城に比べると、その一帯は深い暗闇に沈んでいる。闇の中でも足場を見通せるように、暗視ゴーグルを装着する。

 装置はまだ順調に稼働している。操作を行い、ここより一段低く、塔へ一番近い足場へと飛び移る。ふうわりと足が地面につき、一度深く息を吐く。

「いよいよだわ」

 口のなかでひそりと呟く。ここまで来るだけでも、手に汗をびっしょりとかいてしまっている。心は気合いで誤魔化せても、生理的な反応は抑えがたい。

 塔の屋上を見据える。そこから壁の管を伝って下りて、まず窓からアレクセイの様子を確かめるつもりだった。それで部屋の構造を確かめ、侵入経路を探す。

 リタは二度深呼吸をして、足場の端に立つ。風がひとつ吹き去ってから、空に躍り出る。

 そのとき、もう一度びゅう、と強い風が吹いた。リタは体のバランスを崩しそうになり、慌てて装置の操作をおこなう。とっさに体勢を立て直したものの、屋上よりいくらか低い高度になってしまった。

「もう一度出力を上げるか、それとも」

 塔はだんだんとリタの眼前に近づいてくる。とにかく飛びつけそうな箇所を探していると、格子のつけられた窓を前方に見つける。

 あれがアレクセイの部屋の窓だろうか――そう思って目を凝らすと、格子の向こうに人影のようなものが揺らめいたような気がした。

「え」

 窓の向こうにいたのは、痩せてやや異なる印象はあるものの、アレクセイ・ディノイアだった。

 窓越しにリタを見て、目を丸くしている。装置が出力限界を訴えてきたので、とっさに脇の管に掴まる。

「アレクセイ……?」

 ここから問いかけて、聞こえるだろうか。格子窓はぴったりと隙間なく開閉できないようにはめ込まれており、このまま部屋に入るのは難しそうだ。

 アレクセイと見つめ合いながらリタが悩んでいると、ふいにアレクセイが片手を挙げた。人差し指を立てて、ゆっくりと上方を示すように動かす。

「……上?」

 アレクセイの意味するところは分からなかったが、ひとまずそのまま管を支えに、屋上にのぼる。幸い装置のおかげで、体重すべてを持ち上げずに済んだ。

 屋上にたどり着くと、いくつかの装置らしきものが設置してあった。どれも魔導器だが、すでに魔核はなく動いてはいない。

 当初窓をこじ開けて侵入することも考えていたが、あのようにしっかり格子が嵌められているなら、無理やり壊すのは難しいだろう。精霊術を工夫すれば壊すこともできるが、大きな音を立ててしまう。

 アレクセイはリタを認識しているように見えた。こちらの話が通じる可能性は高まった。指を立てたのも何かしら意味がある動作だと信じて、リタは屋上をしらみ潰しに調べ始める。

 とっくに動作を止めた装置たちは、この塔の機能を維持するためのもののようだ。元は研究員の詰め所だったと聞いたが、かつて帝都に詰めていた研究員たちはここでも何か研究していたのだろうか。それがなぜ、今はアレクセイを人目から隠し治療するための場所に使われているのか。そもそもなぜこんな城の奥まった場所に塔が立っているのか。

 尽きない疑問を次々脇にやりながら、リタは装置とその隙間を丹念に調べていく。装置の下に潜ると、ふと、床の一か所がわずかに発光しているのに気がつく。ぼんやりと淡い光で、近づかないと分からない。

「違う……」

 呟きながらゴーグルを一度外す。視界の外から暗闇が押し寄せる。暗視ゴーグルを装着していたから意識していなかったが、ここは城の明かりもほとんど届かない。月の光は方角からちょうど影になってわずかにしか頼りにならない。ゴーグル越しでようやく認識できるくらいのささいな違和感だったのだ。

 その一点に触れる。他の地点と違い盛り上がっている。指でそっと押してみると、正方形の淡い光がその周辺を縁取っていく。リタの体を囲むように。

「……え?」

 突然浮遊感に包まれる。リタが這いつくばっていた地面が忽然と消えていた。暗い空間に吸い込まれるように落下する。

「うきゃあ……っ!」

 恐怖に漏れる声を塞ぎながら、真っ暗な通路を滑り下りる。浮遊感に包まれたのはほんの一瞬で、あとは通路の行く先のまま体が運ばれる。ぼうっと明かりが前方に浮かんだのを捉えたとき、リタの体は布地の上に投げ出された。

「ふぎゃっ」

 ふわりと頬に暖かい布地がふれる。絨毯のようだ。体をゆっくりと動かし、体勢を立て直そうと顔を上げると、目の前に大きな影があった。

「来たな」

 屈んだままのリタの眼前には大きな寝台があった。そこに腰かけたアレクセイが、静かにリタを見下ろしていた。

 立ち上がって見回すと、小さな棚が三つと、大きな布のかけられた何かと、壁の燭台と、その他はなにも置かれていない簡素すぎる部屋だった。リタの背後にはぽっかりと四角く穴が開いていた。ダストシュートのようなもので運ばれてきたのだろう。

「……ずいぶん荒っぽい方法で迎え入れてくれるじゃない」

「不法侵入者に詰られるとはな」

「思ったより元気そうじゃない」

 そうは言ったものの、白いローブをまとったアレクセイは、リタが最後に見た鎧姿から受ける印象とはずいぶん異なっているように思えた。しかし最悪の場合、錯乱して話も通じない状態を想定していたので、言葉を交わせているのはそれだけでリタにとって幸運な事態と言える。

 けれど、アレクセイの前に立って、リタは知らず体が震えた。目の前にいるアレクセイがまとう雰囲気もそうだが、この部屋に満ちる空気はあまりにも静かすぎる。生きている人間が過ごしている部屋とは思えないほどに。

 ――あいつはいつも、この部屋でアレクセイを見て……。

 黙っているとそのまま呑まれそうになる。リタはわざと大きく息を吸い込んで、頭をぶんぶんと振る。

「聞きたいことがありすぎて、混乱しそうだけど……あんたと話がしたくて来たの。それ以外の目的はないわ」

「私と……話を?」

 アレクセイはぴくりと眉を動かす。発する声もところどころかすれていて、覇気がない。ローブからのぞく手足には包帯がしっかりと巻かれている。

「今、どういう状態なの?」

「どういう、とは」

 ぼんやりとした返答に、リタは溜め息をつく。

「頻繁に錯乱して、手のつけられない状態って聞いてたんだけど、芝居だったの? そんな状態だから今は会わせられないって言われて、やむなくこんな手段を取るしかなかったんだけど」

 アレクセイはうつむいたまま、じっと黙りこんでいる。リタは背負っていた飛行装置をいったん床に下ろして、壁にもたれかかる。

「嘘ついて、芝居して何がしたかったの? それも、あんたを甲斐甲斐しく世話してたレイヴンが離れたタイミングだって言うし……何か考えでもあったわけ?」

 リタの問いに、くく、と薄闇がふるえる。アレクセイが笑んだのだ。

「果たして、芝居だと思うか? 私の今の状態は、ほんの一時の凪に過ぎないとしたら? 君はこの後、私の手に落ちて計画の一部に用いられるやもしれん」

 背筋がぞくりと粟立つ。アレクセイの暗い瞳がリタに向けられ、一瞬、得体の知れない魔物を前にしているような感覚をおぼえる。リタはじわりと汗ばんだ拳を握りしめて、足元の飛行装置の存在を確かめる。まだすこし熱を持っていて、あたたかい。

「……あたしになんて、なんの利用価値もないわよ。あんたが欲しがってる力なんて持ってない」

「その頭脳だけで十分価値がある。そして君には……大切な友人たちがいるのだろう?」

 リタは歯を食いしばり、アレクセイを鋭く睨みつける。

「そんなにぼろぼろの体だってのに、ずいぶんくだらないことばっかり考えてるのね」

「考える時間なら……嫌と言うほどあったからな」

 陰になって見えない表情から、静かな声が漏れる。リタは意識的にゆっくりと呼吸をして、波立つ己を抑えつけようとする。この部屋と、アレクセイのまとう空気が、リタを揺さぶりつづけている。ここには死のにおいが満ちている。立っているだけで、自分には何もできないと根拠もなく思わされそうなほどに。

 アレクセイはリタを脅すような言動を向けてきてもなお、そこに原動力のようなものは感じられなかった。とても目的のために何かを為そうという人間の様相ではない。まるで人形が無機質に脅し文句を述べているようで、別の意味で気味が悪い。

「……そんなくだらない話をしにきたんじゃないのよ。あたしは、あんたに聞きたいことがあるの。あんたに、生きる気があるのかどうか」

 アレクセイは軽く目を見開いたあと、不可解な表情をする。

「なぜ、君がそれを私に問う?」

「あんたにちゃんと生きる気があるなら、協力してほしいことがあるからよ」

「君のほうが、私を利用しにきたということか?」

「まあ、そう思ってもらってかまわないわ。で、どうなの?」

 リタは腕組みをして、アレクセイの返答を待つ。恐れることはない。リタはアレクセイという人間について確かめるためにここへ来たのだ。ならば、それがどんなものであっても解の一部として目を逸らすことはできない。

「生きるなど……今更口にするような身の上ではないだろう」

 アレクセイは低く重々しい声とともに口を開く。

「私に残されたものは、死と裁きのみだ。もはやほかに何もない。このまま死が再び訪れぬままならば、まもなく罰を受け損ねた私への正当な裁きが下されるだろう」

 その言葉にリタは弾かれたように一歩前に出る。

「やっぱり、罰を重くするための芝居をしてたってわけ……⁉」

 アレクセイの手が、宙に浮かぶようにゆっくりと持ち上げられる。

「この世界はすべて誰かの見る夢であり、誰かによって作り上げられた芝居のようなものだ。そのような舞台に再び転がされた私は、さしずめ亡霊のようなものだろう」

 格子窓からかすかな月光が差し込んでくる。青白い光が、アレクセイの顔を浮かび上がらせる。

「地の底から這い出し民を汚す亡霊は、正義の剣によって斬られることで、観客の惜しみない喝采が飛ぶだろう。万一演目に変更があったのなら、自ら退場の手立てを用意するほかない」

 ゆっくりと、ある一点をアレクセイが指さす。リタがこの部屋に来るときに使ったダストシュートだ。

「この塔は、かつて私が管理し、統括していた計画の拠点の一つだった。未だに残されている機構もあることだろう。時が来れば、この塔から出て、ふさわしい場所へと還ることもできる」

 リタは屋上を調べていたときのことを思い返す。光に触れたとたん、突然穴の中へと誘い込まれた。あれは古い魔導の仕掛けに似ていた。

 すでにこの世界の魔導器は多くが災厄の打倒に用いられた。しかし、エアルの消費量がきわめて少ないため感知できず、巧妙に隠され見落とされたものは、魔導器ネットワークに組み込まれずに今もわずかに残っている可能性が高いとされていた。それがこんな城の一角に堂々と隠されていたとは驚きだ。

「じゃあ……何? あんたは死罪を受けたくて仕方がなくて、それがもし失敗したら、この塔を抜け出して、何かやらかそうってわけ?」

「私の意思に関係なく、世界がそのように演目を進めるだろう。今更、狂乱した亡霊を解き放つような愚を犯さぬとは思いたいがな」

 ふっと鼻で笑うように言う。アレクセイは、ヨーデルたちがさまざまな理由から彼を生かそうとしていることに勘付いているのかもしれない。

 舞台やら演目やら、聞いていると、だんだんとリタの中に苛立ちが増していくのを感じる。ぎりぎりと手のひらに爪を立てながら、言葉を返す。

「あんたを……死にかけてたあんたを、ずっと生かそうとしてた奴がいることについては……どう思ってるわけ? 生き延びたのも、あんたが今こうやって喋れることも、偶然じゃないのよ」

「死人を気まぐれに死の淵から引き上げるなど……愚かなことだ」

「愚かって……あんたが命を繋いだ、レイヴンの前でも……同じこと言えるの」

 しばしの沈黙が走る。ようやく、その名前をアレクセイの前で口にできた。リタはどこかで恐れていた。アレクセイに、レイヴンの存在を問いかけることを。

 そこはリタの知らない暗闇だ。謎がどこまでも横たわって、手探りでは解くことができない。リタが触れてきたレイヴンの命のはじまりは、アレクセイに繋がっている。心臓魔導器の術式に触れるたびにそのことをどこかで考えていた。その絡まった問いをいつか解かなければならない日が来るのが、怖かった。

「……レイヴンなどという者の名は知らんな。君が知っているのは、どこかで別の生を受けた、別の者だろう」

「本気で言ってるの? あんたをそばでずっと見てて、何ができるのか考え続けて、あんたに生きてほしいって思い続けてた奴が……誰なのか分からないわけ?」

 アレクセイは、青白いまぶたを閉じ、ややあって開く。

「私が蘇らせた男は、とうに死んだのだ」

 リタはとっさに前に踏み込み、アレクセイの胸ぐらを掴んだ。白くさらりとしたローブが手のひらに食い込む。

「馬鹿言わないで」

 悔しさに涙がにじむ。レイヴンが何を思ってこの男のそばにいたのか、リタに分かるはずもないが、それでも少しだけ分かったような気がした。生きてほしいとひとりで祈りつづけることがどれほど苦しいか、リタは知っている。

「あんたが死にたいのはよく分かったわ。でも、レイヴンでもシュヴァーンでもなんでもいいわ、あんたのそばにいた奴のこと、そんな風に言うのは許せない」

 レイヴンはシュヴァーンという存在を自ら遠ざけようとしていた。けれどそれは前に進むためのレイヴンなりのけじめで、過去を切り離すための行いではないと、少なくともリタは思っていた。

 過去は決して消えない。自分の一部になってどこかに残り続ける。だからこそ、レイヴンは償わなければならないと一人で苦しんでいた。

「自分のせいだ、って言ってたわ。あんたがこんな風になった責任を、バカみたいにずっと抱え込んでたのよ。せめて勝手に死ぬ前に、あんたから言うことがあるんじゃないの?」

 アレクセイはリタから目を逸らし、苦々しく呟く。

「私が舞台から降りれば、その役も解かれる」

 リタは苛立ちがだんだんと深い怒りに変わっていくのを感じた。ふつふつ煮えていた腹の底が、温度を上げていく炎のように静かな熱を宿す。

「あたしが間違ってたわ」

 薄明かりの中で、アレクセイの痩せた首元を見下ろした。

「あんたに生きる気があるかどうかなんて、この際どうだっていいわ。あんたの命が、今さらあんたの好きにできるなんて思わないで。勝手にバカやって勝手に死のうなんて、あいつと一緒じゃない……そういう奴、大っ嫌いなのよ」

 顔を背けたままのアレクセイがわずかに眉をひそめる。

「でもね、あたしはそれでもあんたが必要なの。これ、見て」

 リタは懐から一冊の記録帳を取り出し、アレクセイの前に突き出す。

「レイヴンの心臓魔導器の、構成術式の一部よ。あたしが分かる範囲で書き留めてる……でも、どうしても解けない部分がある。他の魔導器にはない、心臓魔導器特有の編まれ方をしてるせいで、肝心な調整が行き届かないところがあるの」

 記録帳に目を向けたアレクセイに、そのままリタは続ける。

「もちろん、あたしがなんとか解き明かすつもりだったわ。でも、あたし一人の力では時間がかかる。いつ、その解が必要なときが来るか分からない。けど、あんたが生きてるっていうなら、あいつの心臓魔導器についてあたしとレイヴンの他に、ちゃんとした知識を持ってるのはあんたしかいない」

 リタは深く息を吸い込む。レイヴンの心臓魔導器に初めて触れた夜は、こんな時が来るなんて思ってもみなかった。

 たった一つリタの元に残された魔導器が、大切なひとの命であるという事実は、リタを奮い立たせ、同時に苛んだ。命には始まりと終わりがある。そしてたやすく失われようとする。

 手入れをし、調整をするということは、永くあるよう祈ることと同じだ。どれだけ術式に深く潜ろうとしても、命そのものに触れることはできない。だから、どうかと手を伸ばして、指先の向こうに祈る。生きてほしいと紡いだ式が、命を動かす解を導くようにと。

「だから、あたしは、あんたに生きてもらわなきゃいけないの。あたしが、あんたも、レイヴンのことも生かす」

 リタの言葉のあと、しばらくしてアレクセイはゆらりと手を持ち上げてリタの記録帳に触れた。ぱらり、とめくりながら、目を通す。

「そうか……あれは、今は君が診ているというわけか」

 独り言のように口にして、ふっと笑みをこぼす。

「君に引き継がれて……彼も誇りに思うことだろう」

 そうしてごく微かな声でなにごとか呟く。リタは意味が分からず、首を傾げる。

「誇り?」

 記録帳をリタに返したアレクセイは、長く、長く息を吐いた。何かを体の内から絞り出すように、小さく呻いた。

「君に見てほしい場所がある。来たまえ」

 寝台のそばに立てかけてある杖を取って、アレクセイはよろよろと立ち上がる。突っ立ったままのリタを横目に、一歩ずつ、覚束ない足取りで部屋を出ようとする。

「中から、その扉開くの?」

「先ほど君が屋上で操作をした関係で、一時的に解錠されているはずだ」

 アレクセイの言う通り、扉は手で押されるとわずかに動いた。だが、それなりに重量のある扉らしく、アレクセイは扉を押したまま立ち止まっている。見かねたリタが手伝うと、ようやく通れるくらいには開いた。

「助かる」

 そのまま廊下をよろり、よろりと歩いていく。リタは部屋に置いたままの飛行機械を背負うと、その後を追いかけた。

 

 

「ここだな」

 廊下のある一点でアレクセイは立ち止まる。

「すまないが、私は屈むことが難しい。この壁と床の境目辺りを調べてくれ」

「いいけど……隠し通路でもあるわけ?」

「察しがいいことだ」

 言われた通り、リタは屈み込んでその周辺を探る。廊下はほとんど灯りが入っておらず、リタの持つ発光装置だけが頼りだ。

 いや、と思い直す。屋上では、肉眼で見つけることができなかった。装置をしまい、暗視ゴーグルを付ける。そうすると、ごく淡い光が壁の模様の隙間に埋もれているのが分かった。

「これ、押せばいいのね?」

 アレクセイが頷いたので、リタはその光を指で押し込む。すると辺りの壁が扉のようにゆっくりと開き、その奥にまっすぐな暗い通路が現れた。

「研究に使ってたって言ってたけど……ここも怪しい目的のための区画なの? それって何?」

「来れば分かる」

 廊下をゆっくりと進むアレクセイの後ろに立ち、リタはしぶしぶ付いていく。アレクセイの歩く速度はおそろしく遅いので、リタはしばらく止まっていてもじゅうぶん追いつけた。

「時に、君は……」

「なによ」

「なぜここまで、あの男のために動こうとするのだ」

 アレクセイの後頭部を見つめながら、リタは顔をしかめた。

「違うわよ、あいつのためっていうか……心臓を診るって決めた責任があるから、魔導の専門家としてちゃんときっちりやる必要があるって思ってるだけよ。中途半端は嫌いなの」

 そうか、とアレクセイはちらりとリタを見やる。

「それほどにまで、愛しているのかと気になっただけだ」

「あ、愛……っ⁉」

 危うく手にしていた発光装置を落とすところだった。リタは数回咳き込んでから、アレクセイをじとりと睨みつけた。こんなことを言うような男だったのかと呆れた気分になる。

「そんなんじゃないから! あいつとは検診のとき会うくらいだし、あたしは単に義務っていうか一回引き受けたからには投げ出したくないだけ……それだけよ」

 それを言うなら、とリタは複雑な気持ちになる。レイヴンはここ数か月ずっとアレクセイのために動き、アレクセイのことを考えて悩み続けていた。結果、リタとの約束を数度も忘れることになった。それほどの想いを向けられていることに、果たしてこの男は気付いているのだろうか。

「この部屋だ」

 アレクセイに示されたのは、ずいぶん古びた扉だった。それはアレクセイの力でもキィと音を立ててのろのろと開いた。

 中に入ると、古い紙の匂いがした。城の地下書庫と少し似ている。けれどここは長いあいだ誰の手入れもなかったからか、埃っぽく冷えた空気に満ちている。

「何ここ……資料室?」

 四方の壁と部屋の中央に備え付けられた棚には、所狭しとあらゆる本や紙束、実験器具のようなものが詰め込まれていた。どれも長い時間触れられていないのか、時が止まっているように縮こまり眠っている。

「ここに、心臓魔導器の開発についての資料が残されているはずだ」

「え……⁉ なんで、ここにそんなものが」

「この塔は、秘密裏にヘルメス魔導器の研究と改造を行うための実験施設の一つだった。表向きは帝都詰めの魔導士たちの寝所ということになっていたが、こうした区画を知っていたのはごく限られた者だけだ」

「そんな場所、よく知られずにいたわね」

「ここにあるものはごく一部だ。多くは騎士団本部の研究区画に保存されていたが……失われた」

 アレクセイがゆらりと棚の一角を指さすので、そちらを見る。何かの模型だった。ちらりとアレクセイを見ると小さく頷いたので、手に取ってみる。まじまじと正面から見て、気がついた。

「これ、心臓魔導器の模型……!」

「この部屋にあるものは、すべて好きにして良い。今夜すべて持ち帰るわけにもいくまい……後日、誰かにこの部屋の存在を話し、引き取るなり滞在するなりするといい」

 リタは模型をぎゅっと両手で挟みこみ、ぼんやりと発光装置に照らされたアレクセイの顔を見上げる。

「そんなことしたら、この塔の秘密もバレることになるけど……あたしの頼みは、承諾してもらえたと思っていいの?」

 リタが距離を詰めると、アレクセイは目を細め、背を向ける。

「資料さえあれば……とか思ってない? あたしが言ってるのは、そういうことじゃないんだけど」

「君は、なぜそこまで私にこだわる? 罪人の処遇がどうなろうと、君には関係のないことだろう」

 淡々と述べるアレクセイに、リタは心臓魔導器の模型を突き出す。

「どんな経緯とか、理由とか、そんなのは知らないけど……あんたが命を繋いだから、あたしはあいつと出会って、今もその命に関わることになった。その命の持ち主が、あんたのことも守りたいって思ってるなら……あたしもその願いを繋ぐ役目をする」

 アレクセイは苦しげな眼差しでリタを見つめたあと、ぐっと目を閉じて息を吐いた。そのとき、ぴくりとアレクセイの肩が動く。

「どうしたの?」

「人が来る」

「こんなところに? 通路の入り口は閉じてきたはずでしょ」

「まだ入り口までは開かれていない。だが、君が見つかると厄介なことになるだろう」

 アレクセイは杖を使って、リタを無理やり壁際まで誘導しようとする。

「見回りの騎士でしょ? べつに、見つかったら諦めて申し開きするわよ」

「静かに」

 唇に指を当てられ、リタは狭い壁に背を当てたまま硬直する。アレクセイの顔が間近に迫り、困惑や緊張や動揺などで鼓動が速くなり、体が震えた。

「私の部屋にあった通気口と同じようなものが、ここにもある。塔の外に出たら、あとは君が想定していた脱出方法なりで何とかするがいい」

「ちょっと」

「君の申し出、しばし考えさせてもらおう。次は空から来ずとも、あの男とともに来るといい」

「話、聞きなさいよっ」

 一瞬感じた恐怖も飛んでいき、アレクセイに抗議しようとするも、そのまま不意に開いた通気口にリタの体は吸い込まれる。遠ざかっていくアレクセイの顔を思い切り睨みつけたが、体がすべり落ちていく浮遊感への恐れにすべて巻きとられてしまった。

 長い降下の旅はふいに終わり、塔の外、城の裏庭に体は投げ出される。暗闇に満たされた裏庭は、誰の気配もなくとても静かだった。リタはようやく息をつく。両手が、かたかたと小刻みに震えていた。ジュディスからもらったバウルの角をぎゅっと握りしめた。

「大丈夫……上出来よ」

 装置を背負いなおし、どっと疲れの乗った体を引きずって、リタは草を踏みしめた。白み始めた空に、月がぼんやりと佇んでいた。

 

 

 

 

 

 7

 

 

 

 坂をのぼる足がずっしりと重い。地面に敷き詰められたハルルの花びらを踏みしめて、レイヴンは鉛のような体をのろのろと引きずっていく。

 リタに会うのは、レイヴンが倒れてハルルに運ばれたあの日以来だった。今さら合わせる顔がないとずっと思い続けていたのに、こうして会いにやってきてしまった。いつかはそうしなければならないと思いながら、永久にその時が来なければいいと思っていた。

 いつだって、自分がどんなに愚かであるかを正面から見つめるのは恐ろしい。鏡を見て、自分が誰なのか分からなくなるときのように。

 街の奥地にたどり着き、リタの小屋の前に立つ。何度もこの小屋を訪れた。その度に扉をノックする手が少し震えたものだった。今は笑いだしてしまいそうなほどに全身が震えていた。自分がこれほどにまで臆病な人間だと知って、ほんとうに乾いた笑い声がこぼれた。

「……なに、人の家の前で笑ってんのよ」

 背後から声がして、硬直する。さく、さく、と軽い足音がレイヴンの脇を抜けて、黄色いリボンがさらりとなびいてレイヴンの腕をかすめていく。

「ひどい顔」

 リタは、やわく目を細めて言った。

 

 

 アレクセイと再会したあの夜は、不思議なことだらけだった。

「時に、君は……リタ・モルディオと会っているのか」

「は?」

 あの塔の謎の隠し部屋で、アレクセイはそんなことを聞いてきた。

「君の心臓魔導器は、今は彼女が診ていると聞いた」

「……そんな話、誰から聞いたんですか」

 そう聞き返すと、アレクセイは黙りこむ。検診のことを知っているのは、かつてともに旅をした面々のみだ。その中で現在アレクセイと直接会える者はフレンくらいだ。レイヴンが帝都を離れている間に、彼と話をしたのだろうか。

 レイヴンはもどかしさに溜め息をつく。久方ぶりに話したというのに、意味のある会話がちっともできない。

「約束って、なんなんですか? 俺がいない間に、何があったんですか……分からないことだらけで、こっちは混乱してるんです……説明してもらえませんか」

 うつむいたままのアレクセイに詰め寄る。すると、その体がばさりとくずおれる。とっさに手を伸ばして倒れる前に支えることができた。

「……部屋に戻る」

「分かりました。こっち支えたら、歩けますか?」

 アレクセイは弱々しく頷く。間近だとひどく疲れが見えた。それほどになるまで、この部屋でいったい何をしていたのか。何か目的があって、部屋の外に出たのか。

 廊下に出て、アレクセイの部屋までようやく戻ってくる。手足に力の入らなくなったアレクセイをなんとか寝台に横たえる。

「君は、もう行け」

「いや、けど」

「代わりというわけではないが、頼みがある」

「なんですか」

「リタ・モルディオを連れてきてくれ」

 レイヴンは顔をしかめた。なぜ先ほどから彼女の名前が出るのか。

「……なぜ?」

「さほど急ぐ用ではない。だが、頼む」

 そう言って、アレクセイは白いまぶたを閉じた。少しだけ苦しげな表情で、しかし存外穏やかな寝息をたてる。

 レイヴンはうす明るい部屋のなかでぼうっとアレクセイの寝顔を見下ろした。壁の燭台の炎はとうに消えて、代わりに白い光がうっすらと細くさしこんでいた。

 

 

 リタの小屋の中は、最後にレイヴンが来たときよりはいくらか整頓されているように見えた。奥のほうには積まれた本が崩れかけているのが見えるが、玄関側はいくつかの装置めいた置物以外こざっぱりとしている。

「預けてくれてた土産、受け取ったわよ。ありがと」

「う、うん……よかったわ」

「元気だった? しばらくダングレストにいたって聞いたけど」

 リタは簡易な精霊術装置で淹れたお茶を出してくれた。床に腰を下ろして、それを受け取る。

「あ、そう……ちょっとの間ね、この前戻ってきたとこ」

 あの後、ハリーに急いで手紙を書いた。しばらく待機を言いつけられていたから大きな問題にはならないだろうが、帝都で火急の任があると送っておいた。騎士団には、ギルド方面の手が空いたことによる帰還だという言付けをしておいた。

 何はともあれ、レイヴンには最優先の任務ができてしまった。リタに会い、アレクセイの元へ連れていくこと。そうして、アレクセイの言葉の意味を今度こそ確かめなければならなかった。

「リタっち……あの」

 それよりも先に、言うベきことがあった。決心して顔を上げると、リタがいつの間にかごく近くに寄ってきていた。

「レイヴン」

 めずらしく名前を呼ばれて、どきりとした。まるで、リタのほうがこれから謝罪の言葉を述べるような、張りつめた表情をしている。

「診て、いい?」

 リタはおそるおそる尋ねた。慎重に、わずかに瞳を震わせてこちらをのぞき込むリタに、レイヴンは胸がつまる思いがした。いつも問答無用で開始されたこれまでが、ひどく遠く、なつかしい。

「うん……お願いするわ」

 そう答えるだけのことに、とても大きな気力を振りしぼった。

 

 明滅する赤い光が、リタの真剣な表情をほのかに照らし出す。制御盤を細い指が巧みに操るのをレイヴンはぼうっと眺めている。

 心臓魔導器の制御盤に並ぶ文字の意味を、レイヴンは知らない。一度自分で調整しようとしてみたことはあったが、うまく操作することはできなかった。そこをアレクセイに見つかって、制御盤には触れないようかたく言い付けられたものだった。

 ――思えば、あのときのアレクセイは、ちょっとリタっちに似てたな……。

 己の目的のために、と言いながら、こちらの身を嫌というほど気遣ってくる。今も昔も、逃げ出したくなるくらいに。

「リタっち、ごめん」

 手元のノートと制御盤を見比べていたリタが、顔を上げる。

「俺、なんも分かってなかった」

「何が?」

「リタっちの気持ちとか、自分のこととか」

「そんなの、簡単に分かるもんじゃないでしょ」

「リタっちにとっても、難問?」

「あたりまえよ」

 リタは答えながら、ノートに筆を走らせる。

「あれから、何かやらかしてない? 無茶な技発動させたりとか、倒れたりとか」

「そういうことはなかったかな、大きい戦闘任務もなかったし」

「そう……よかった」

 ほんとうに、心から安心したように目元をゆるませた。レイヴンはそれを見てどうしようもなく居たたまれなくなった。今診てもらっているはずの胸のあたりがおかしな感覚に包まれる。そんなときに何をすればいいのか。体の内側で熱が跳ねて、はじけた。

「ありがと、ね」

 リタの丸い瞳がくるりと瞬く。誰かに命を預けることは覚悟がいる。この身を縛る異物をさらすことにも、ためらいはずっとある。けれど、こうして己の身を案じてくれる存在がそばにいることの意味を、レイヴンは長くかえりみずに生きてきた。だからこそ、今は伝えなければならないと思った。今度こそ、伝えたかった。

 検診が終わり、レイヴンは服を整えながらテーブルの上の茶を一口飲む。しばらく両手でカップをぎゅっと包んでから、用具を片付けているリタに話しかける。

「あのさ、リタっちに、頼みたいことがあって」

 頼みっていうか伝言っていうか、とレイヴンがぼそぼそ言っていると、用具を手にテーブルのそばに戻ってくる。

「なに? 頼みって」

「ええっと……その、ね」

 いざ口に出そうとすると戸惑いが勝つ。いきなりこんなことを言いだして、リタはどう思うだろうか。けれど、自分のためにも、伝えなければならない。

「アレクセイが、リタっちに会いたいって……一緒に来てくれない?」

 リタはほんの少し目を丸くして、しかしすぐに首を縦に振った。

「わかった、行くわ」

「そんなすぐに決めていいの?」

「あたしも会いたかったから」

 リタの決断が早いのはいつものことだ。彼女はほとんどの場合、決断の意味を短時間で理解し、自分が取るべきと判断した選択を迷わない。

 けれど、あまりにもすっぱりとした態度にレイヴンは違和感をおぼえる。驚いた様子がほとんどなかった。まるでアレクセイの伝言を予期でもしていたかのように落ち着き払っている。

「あんまり……驚かないのね」

「なにが?」

「アレクセイに、いきなり会いたいなんて言われて、もうちょっと、なんで? とか言うかと思ってたから」

 リタはテーブルの上のカップを取って、こくりこくりと喉を鳴らす。もうずいぶん冷めているだろう。

「この前会ったときに、次はあんたと来るように言われたから」

「……へ?」

 こともなげに言われて、ぽかんと口が開く。

「会ったって……いつ?」

「先週くらい」

「どうやって」

「空から侵入した」

「そ、空からぁ⁉」

 リタはぴっと玄関脇に置いてある装置を指さす。縦長の直方体のような形をしており、あちこちにレバーやスイッチのようなものがある。

「もしかして、あのヘンテコなやつで飛んだ……とか?」

「ヘンテコってなによ、あたしが実験に実験を重ねてやっと実用に使えそうなくらいになったんだから」

「そんなヘンな発明品、いつの間に作ったの……」

「だから、ヘンって言うな!」

 リタにポカリとやられたが、レイヴンの驚きはおさまらない。空から、飛んで、侵入した。リタが秘密裏にアレクセイと会っていた。事態がちっとものみこめない。

「なんで、そこまでして……?」

 リタは苦々しく顔をしかめる。

「話がしたかったから」

「なんで」

「知りたいことがあったから」

「それって、何」

「あーもう」

 首を振って、リタは盛大にため息をつく。

「尋問みたいにいきなりあれこれ聞かないでくれる? あたしのこと騎士団にでも突き出すの?」

「や、そんなことしないけどさ、いやでも」

「あたしからいちいち説明するの面倒だから、とりあえず本人に会ってからにしてくれない? そのほうが話が早いでしょ」

 何が早いのかも分からなかったが、レイヴンはひとまず頷くほかなかった。自分の知らないところで、何かが動いている。それが何なのかさっぱりつかめず、心がざわつく。

 リタはさっそく帝都に発つ心づもりのようだった。すばやく旅支度をはじめるリタを目で追いながら、レイヴンは複雑な思いに駆られていた。

 

 

 塔に来るのはあの夜以来だった。こんな風にリタを伴って長い階段をのぼるのは、不思議な気分だった。

 何度も通ったぼんやりと明るい廊下を、ゆっくりと進んでいく。思えば、資料室のような隠し部屋でアレクセイを見つけたとき、少し前にアレクセイ以外の誰かの気配があったように思えた。それがリタだったのではと思い当たったが、直接本人に尋ねるのは抵抗があった。逆にあの日レイヴンがアレクセイに会いに行ったことを、知られるのが怖かった。

「入りますよ」

 声をかけて、重い扉を押し開ける。アレクセイは体を少し起こした状態で寝台にいた。レイヴンたちの来訪に驚いた様子もなく、じっとこちらに視線を向ける。

「来たか」

「約束どおり、連れてきましたよ」

 室内を見回しながら入ってきたリタは、レイヴンの横にやってきて寝台のそばに立つ。

「あたしを呼んだってことは、承諾してもらえたってことでいいのよね?」

 リタに問われて、アレクセイはゆっくりと瞬きをする。

「君の言い分にも一理ある、そう判断しただけだ。しかし、現状私にできることは少ない。ここで講義を開くわけにもいくまい」

「わざわざこんなところであんたに何かしてもらおうとは思ってないわ。あたしはもっと先の話をしたいの」

「だが、いったいどうするというのか」

「ちょっとちょっと、何の話?」

 まったく話についていけず、割って入ってしまう。困惑するレイヴンを見て、二人が何か意味ありげな視線を交わす。

 ――なんだ? この空気……。

 いつの間にか、リタとアレクセイのあいだに二人にしか通じないものが渡されていることにレイヴンは動揺した。先日リタがここに侵入したというが、まだ方法も目的も結果も何も聞かされていない。そのときに、いったい何の話をしたというのか。

「あんたにも協力してほしいの」

「協力?」

「アレクセイを、ここから出すために何をすればいいか」

 リタの言葉に、レイヴンはしばらく呆然と動けなかった。それは、レイヴンがずっと考えてきたことだった。この部屋でアレクセイを見つめながら、何度も何度も息が詰まりそうなほどに考えた。

 頭を殴られたような衝撃とともにレイヴンは気付いた。この人のため自分にできることをしなければと思いながら、その実何も考えていなかった。日々会いにきて世話をするだけで、アレクセイのこれからを拓く具体的な方策になど、一切思い至っていなかった。

「な、んで……リタっちが?」

「あたしも、アレクセイがこのまま死罪なんかにはなってほしくないって思うからよ」

「あなたは……どうなんですか? どう思ってるんですか」

 うろたえたままアレクセイのほうを見ると、思案するように自分の手の甲に視線を落としている。

「私は……どうすべきなのか、まだ分からない。だが、真に、今度こそ、君があの時どういう心境だったのか……思い知った」

 そうしてレイヴンを見つめた。虚ろに揺れていない、意思ある者の瞳だった。

「なれば、こうして生き延びた私に、何ができるのか……それを、考えねばならぬ局面に来たと、思ったのだ」

 アレクセイは言葉を迷いながら、歯切れ悪く、それでも重い息を吐ききるように最後まで話した。こんな風にたどたどしく話す彼を見るのは初めてだった。

 戸惑いと感慨が混ざりあい、レイヴンは唇を震わせる。こんな風に、もう一度新しい世界を見つめてほしいと、今度こそただ生きるために立ってほしいと願っていた。けれど、レイヴンはアレクセイのそばでまた同じことを繰り返そうとしていただけだった。どうしたらいい、その問いで止まり、何もしようとしなかった。

「あなたが……そう思うようになってくれたっていうなら、俺は、それで……それだけで十分です」

 自分の手では、到底この人に届かない。まともに償うことすらできない。こみあげる痛みを飲み込んで、レイヴンは微笑んだ。

「そんで、なんだっけ……処遇がどうなるかって話よね。俺がしばらく離れてた間に、あなたが起こしたらしきなんやかんやの事件は、どうなったんですか?」

「私が掴みかかった側仕えの者には、先日、直接詫びた……様子の変化した私を、逆に不信に思われている頃だろう」

「何、あんたそんなことしてたの? いくら死にたいからって、めちゃくちゃやってくれたわね」

 リタは驚き呆れた様子で首を横に振る。

「俺が調べた限り、そいつには幸い怪我とかはなかったみたいだけど……ほんと、リタっちに同意するわ」

 アレクセイはばつの悪そうな顔で、心なしかうなだれている。

「まあ、あんたも死にたいからってめちゃくちゃやったことある側だけどね」

「いや、あの……それは、うん……ごめん」

 リタに矛先を向けられて、レイヴンも同じようにうなだれることになった。

「信用が下がってるっていうなら、ますます何か手を打つ必要があるわね。そもそも、アレクセイの処遇ってどういう風に決まるわけ? 帝国法にのっとって、皇帝が判ずるの?」

「罪人への裁きは、皇帝と評議会が中心となって決められるはずだ。俺にもはっきりしたことは分からんけど、現帝国法の解釈と皇帝陛下の様子からして、死罪以外の道がない……ってわけじゃないと思う。例えば、罪人を帝国で雇って労働させる形で刑を執行したこととかは、これまでいくつかあったらしいし」

 ヨーデルがアレクセイの処遇に悩んでいること、罪人を帝国が貴重な労働力として活用する例があったこと、この二つはレイヴンも把握していた。問題はその糸口からどうやって結果を導くかどうかだ。

「けど、あなたがこの前やらかしたことで陛下の不信も買ってるかもしれない。そんで最大の問題が評議会だな。あちらさんがあなたの情報をどこからか掴んで動き始めてる可能性は十分ある。評議会内で死罪にすべしとの意見が揃った場合、皇帝陛下もそれを覆すことは難しい」

 ヨーデルと騎士団の調査により、資金を横流ししていたり、一部の貴族に便宜をはかったりしていた者などは評議会員の任をすでに解かれている。現在は目立った動きもなく一応は穏便な組織として成り立っているといえるだろうが、騎士団の扱いに不服を抱いている者や、調査の手を逃げおおせた者も、いまだ一部在籍している。

「上手くやんないと、まず、元騎士団長を秘密裏に治療してたってことだけで、一部の評議会員にとっちゃ格好の材料になるだろうね……騎士団を失脚させる一手になるかもって」

「事は……私一人の問題ではないということか」

 腕組みをしながらじっと聞いていたリタが、はっと顔を上げる。

「そう、そういえば……ヨーデルが、あんたの持ってる評議会の情報が欲しいって言ってたわ。評議会の体制を変えるためにって」

「得た情報を元に、調査をやり直すってことかね……」

 アレクセイはふっと自嘲するように笑った。

「罪人の証言がどこまで役に立つものか。第一、あの者たちを追い落とせるような有用な情報が手元にあれば、こちらも苦労はしなかった……」

 苦しげに顔を覆うアレクセイに、レイヴンは唇を噛む。かつて評議会員たちの策で騎士団本部が燃え落ち、大怪我を負ったアレクセイの絶望した眼差しを思い出す。そうしてアレクセイの指示で、何人もの標的をこの手にかけた。命じられるまま、何の感情を抱くこともなく、任務は淡々と遂行された。

「……こうして論ずることに、やはり意味などない。私は多くの民を殺めた。数々の人間を己のために利用した。愚かにも災厄を蘇らせた。その事実は、私が死のうが生き返ろうが覆ることはない」

 レイヴンと同じに、さまざまなことを思い出したのだろう。拳をぶるぶると振るわせながら、アレクセイは呻いた。

「私は、取り返しのつかない罪を重ねた、大罪人なのだ」

 言葉が重く、重く、レイヴンの心にのし掛かる。アレクセイが大罪人というのなら、自分はいったい何だというのだろう。アレクセイの手足となり重ねた罪は、その持ち主だけに問われるものなのだろうか。

 静まりかえった部屋で、ようやくリタが口を開く。

「だからって、何もせずに待つっていうの? そんなの、結局自分のやったことから逃げてるだけじゃない」

「今さら罰を逃れるために画策などするほうが、よほど浅ましい」

「どんな罰にせよ、あんたが今どうしたいかが肝心なんじゃないの? それを命奪ってハイおしまいなんて、どう考えてもおかしいから話してるのよ」

 アレクセイとリタの言い合いをよそに、レイヴンは一人ずっと考え続けていた。何が正しいのか。何が罪だというのか。

 世に混沌を招き、多くの犠牲を生んだ者は、大罪人と呼ばれる。それでは、その者のそばにいながら何もしなかった者は、どのように呼ばれるのだろう。大罪人の手足はそれ自体意思を持たないために、すべて大きな罪の一部としてみなされるのだろうか。

 誰かの手足に甘んじた日々はとうに終わった。レイヴンはもはやアレクセイの所有物などではなく、一人の命ある人間として生きることを選んだ。それならば、この身に宿る罪はレイヴンのものであり、また、レイヴンだけのものではない。

「俺は……あなたの名のもとで多くの罪を重ねました」

 言い争っていた二人が、ぴたりとレイヴンのほうを向く。

「命じられる通りに、何も感じずに、それが罪かどうかさえも考えようとしなかった……それなのに、今はこうして、のうのうと生きている」

「ちょっと、何言って……」

 怒りを見せかけたリタをそっと制する。ゆっくりと首を横に振るレイヴンを見て、リタはぐっと唇を引き結ぶ。

「あなたが死によって裁かれるというなら、俺も一緒に裁かれます。あなたの罪は、俺の罪でもあるのだから」

「何を、シュヴァーン……」

「違いますか? あれだけいろいろ命じといて、いざとなったら自分だけトンズラなんて、ずるいにも程がありますよ。不公平です」

 アレクセイは顔を歪ませ、唇を噛みながら体を震わせる。違う、そうではない、と口の中で呻くように呟いている。

「でも……俺は、こんな身なのに、生きたいと願ってしまった。大切なもののためにまだこの命を持ってここにいたいと思ってしまったんです。あなたの言う通り、浅ましい人間です」

 顔を上げたアレクセイに一歩近づく。手足でも道具でも従者でもなく、彼の正面に立てる対等な人間として話をするために、今度こそ本当に伝えたかったことを少しでも届けるために。

「あなたがこの罪を抱えて生きることを選ぶというのなら、俺も同じ道を行きます。俺は……あなたと一緒に、この罪を償いたい」

 真っすぐに、震えながらアレクセイを見つめる。ずっと見ようとしてこなかった、見つめることなどできなかったその瞳は、ひとりぶんの人間の迷いと恐れと、ひとかけらの意思をたたえて揺れていた。

「私は……おまえの、罪を……」

 アレクセイは額に手の甲を押し当て、逡巡するように視線をさまよわせる。それをじっと黙って見ていたリタが、そうよ、とふいに呟く。

「あんたが死ぬことを望んでない、生きて償ってほしいって思ってる人間は、必ずいるわ。それを証明すればいいのよ」

「リタっち、証明って……」

「そういう声をはっきり形にして突きつけたら、帝国の態度も変わるかも」

 リタの提案にはっと気が付く。これまでに罪を逃れた者、減刑された者は何らかの後ろ盾や圧力によってそうなっていた。処分を回避してきた評議会員も数々の根回しがあってこそのものだった。

 それらを逆に利用して、正当な形式で裁定に関与することで、流れを変えられる可能性があるのでは、とレイヴンは思い至る。

「罪人の処遇について、人々の声を……嘆願書の形で提出すれば」

「それよ! いろんな組織とかも合わせてみんなの声を集めれば、無視できない力になるかも」

 アレクセイはレイヴンとリタを交互に見つめながら、力なく首を振る。

「私の処遇について、極刑以外を望むものなど、いるとは思えない」

「あんたが諦めてちゃ話になんないでしょ! 現にあたしたちはあんたに生きてほしいって思ってる。他の、あんたと戦ったみんなも、今のあんたを見ていろんなこと考えてるのよ」

 だが、と苦しげに首を振りつづけるアレクセイの肩に手を置く。ずいぶん痩せて温度の低い感触が、レイヴンを奮い立たせた。

「俺たちと一緒に、あなたがこれからどうしたいのか、考えませんか」

 遅すぎることなどない、そう自分に言い聞かせる。心のうちに熱が灯る。まだ取り返しがつく。死んで、生き返って、まだ生きることを許された。罪を重ね、何もできないままに死なせてしまっても、それでもまだやり直せるというのなら、その機会を逃すわけにはいかない。

「……君たちの言い分は分かった」

 アレクセイは長く息を吐き出し、寝台に背を預ける。

「もう、四の五の言うのはやめにしよう。すでに君たちをこの部屋に招いた時点で、私が取るべき行いは決まっていた。今さら御託を並べるものでは、なかった」

 光さす格子窓のほうを眺めながら目を細める。白い昼間の陽光が、この部屋をいちばん明るく照らす時間だった。

「私の罪が何であるのか、そうして私は何であるのか……君たちに述べられる答えを、考えるとしよう」

 アレクセイの言葉を聞き、リタはレイヴンのほうを見てふっと笑った。安心したような、こちらを安心させるような、そんな笑顔だった。

「あんたが生きなくちゃいけないって、ちゃんと分からせてあげるわ」

 びしと指を突きつけるリタに、アレクセイはいまだ戸惑ったように眉根を寄せている。しかし、その表情は先ほどより心なしかやわらかく見えて、張りつめた悲壮感のようなものは少し薄れているように思えた。

 ――これで、よかった。

 それを見て、心からの微笑みが浮かぶ。過ぎた幸福だと思うほどに、体が崩れおちそうに覚束なかった。同時に何かが抜け落ちたかのようにうつろな感覚が白く満ちていた。暖かな日に見る夢のように、霞んでいた。

 

 

「さっそく、ヨーデルたちにも相談しないとね」

 アレクセイの部屋をあとにし、レイヴンとリタは長い廊下を歩いていた。勢いよく早足で歩いていくリタの背を、ぼうっと見つめる。

「おっさん? どうしたの」

 のろのろと歩調の遅いレイヴンに、リタは首を傾げて戻ってくる。不可解そうに見上げてくる表情を目にして、胸のなかに言い知れない感覚がこみ上げる。

「リタっちは……すごいよね」

 レイヴンは、廊下の中央にある小窓のそばで足を止めた。白い床に、細かな光がわだかまって反射している。

「すごいって、アレクセイのこと? あたしは何もしてないけど」

「あんな風になるなんて、思いもしなかった。あの人にどんな魔術をかけたんだか」

「だから、何もしてないってば」

「じゃあ、なんで一人で、会いに行ったの」

 自分で思ったより低い声が出て、驚いた。結局まだ聞かされていないからといって、べつに問い詰めるつもりはなかった。けれどまるでずっとその理由を気にしていたみたいに、余裕のない聞き方をしてしまった。

 リタは、悩むように視線を逸らし、答えをためらっていた。

「いや、言えないってんなら……いいよ。無理に聞きたいわけじゃないし」

 心に反する言葉を口にしながら、レイヴンは自分の波立つ感情をなだめようとした。なぜこんな風になっているのか自分でも分からなかった。

「……嘘、聞きたくないわけ、ないでしょ」

 立ち尽くすレイヴンに距離をつめる。リタは、レイヴンの苦手なあの目をしていた。

「ごめん、でも今はやっぱり……まだ言えない。あたしが勝手にしたことだから、ちゃんとできるって確証を得てから、話したいの」

「なんか、やろうとしてることがあるってこと?」

 リタはこくりと頷く。

「ひとつだけ、言えることがある。あたしと、あんたの望みは同じってこと。だから、あたしはあんたと一緒に全力を尽くすわ」

「なんで、そこまでリタっちががんばるの? アレクセイと、そんな仲良かったわけでもないのに」

 あの二人のあいだの空気は、ただの互助関係というものではなかった。それがずっと心に引っかかっていたことに、今さら気がつく。

「もうひとつ、言えること……あたしの望みと、あいつの望みも……同じなの」

 リタは顔を伏せて、そっとレイヴンの胸元に頭を寄せる。心臓が少し、跳ねるように駆動したような気がした。

 しばらく廊下に反射した光をながめていたレイヴンは、ややあってリタの小さな頭に触れた。やわらかくさらりとした熱が手から伝わり、体が震えた。そうして、多くのことを思い知った。

 ――こんな風に、知らされてきたんだ。

 命が慈しまれるということ、生きてほしいと願われること。それを何度も繰り返し伝えられつづけたことを思い出した。

 それらはすべて痛みをもたらす罰であり、自分の命や世界をいとおしく思ってしまった引き返せない罪だった。レイヴンはもはや知ってしまった。繋ぎ止められてしまったこの命が、未来の話を語りたくなった日のことを。

 今度は自分が知らせる番だ。そばにあるこの温もりと一緒に、大切なものを見失わないように、成し遂げなければならなかった。

「リタっち、あの人のこれからのために……力、貸してくれる?」

 レイヴンの胸元でぎゅっと拳をつくって、リタは力強く頷いた。

「いまさら、当たり前でしょ」

 もっと早く、こんな風に言えばよかった。レイヴンは悔やみ、そして胸元のぬくもりを噛みしめた。それがなぜできなかったのか、いつから何をやり直せばいいのか、今はもうそんな問いに意味はない。

 過去は変わらず、罪も消えない。けれどまだ、終わりではなかった。

 

 

 

 それから一週の後、皇帝の名において、元騎士団長アレクセイ・ディノイアの生存と、その裁定を近日中に執り行うことが正式に発表された。テルカ・リュミレースの主要都市にはいち早くその報が届けられ、近隣の街にもすばやく話は広まった。

 人々は惑い、アレクセイという者がどのような人物であるのか、口々に噂しあった。なかには怒りを表明し、断じて許せないと声高に述べたものもいた。なかには、実際に彼が何を行ったのか疑問を持ち、知ろうと動くものもいた。

 

 記者たちによって、アレクセイの来歴や事件を引き起こした経緯が伝えられた。許しがたい数々の暴挙だと報ずるものもあれば、私利私欲のために動いていたのではなかった証拠が添えられたものもあった。これをもって、また人々の議論は紛糾した。

 新たな世界での生活が軌道に乗り始めた人々に、アレクセイの裁定がどうあるべきかという議題はさまざまな意見を呼び起こした。これまで、帝国の政や罪人の処遇というものをどこか遠い世界の出来事として考えていた人々も、日々アレクセイの一件について隣人と意見を交わしあい始めたのだった。

 

 レイヴンたちはそんな各地を奔走し、嘆願書のための署名集めを始めた。レイヴンはユニオン幹部としてそれぞれのギルドに呼びかけをおこない、自分の知るアレクセイの内情と自らの行いについて語った。リタは元魔導士や精霊研究家たちに、これまでのアレクセイの研究成果を提示した。

 エステルは城内で縁のある評議会員と話し合い、フレンは騎士団内でアレクセイの目指していた騎士像について語り、現騎士団長としての見解を表明した。

 ユーリとカロル、ジュディスは凜々の明星としてギルドの依頼でかかわった人々を訪ね歩き、アレクセイの処遇について意見を募った。

 パティはアイフリードの孫として、海精(セイレーン)の牙の海賊たちや顔の利くギルドに、ブラックホープ号事件とアレクセイの関係について語った。真実に驚くものたちへ、自分の復讐はすでに終わった、とパティは話したという。同じ大海原に生きるものとして、これからの航路を見届けたい、と。

 

 

 かくして、署名活動が各地でおこなわれるなか、アレクセイの裁定の日が少しずつ近づいてきた。

「どうですか? 活動のようすは」

 皇帝の執務室で、レイヴンはヨーデルと面会していた。騎士団の様子を見にきたところ、呼び出されたのだった。

「どうですかね……やはり反発もあって、十分な数には今少しってところかもです。それでもいろんなとこで皆まだまだ頑張ってくれてますし、俺も諦めずに粘ります」

 驚いたのは、元アレクセイ親衛隊の動きだった。生き残った者は騎士団を追放され、奉仕活動のため各地に散っていたのだが、署名集めの報を聞いてか、それぞれ独自に活動を始めたのだ。奉仕活動の傍ら、在りし日のアレクセイに受けた恩義について、近隣の街を語り歩いているという。

「本来、多くの民の声を拾うべき私が力不足なこともあって、苦労をかけます」

「そのようなことは……陛下はこの激動の時代で、素晴らしい手腕を振るっていらっしゃると思ってますよ」

 首を横に振りながら、ヨーデルは椅子から立ち上がる。

「私は、帝国一の権力という身に余る力を持ちながら、全能ではない……皇帝となってから、そのことを常に思い知らされています。そして、力を手にすることの自惚れと、己を見失いそうな危うさがずっと喉元に突きつけられている」

 昼下がりの晴れた空を見上げながら、若き皇帝は語った。

「彼もまた、私のような思いをしたのだろうかと、近頃は思うのです」

 ヨーデルは、悲しげな眼差しをレイヴンに向ける。

「そうして、また私も、あなたを追い詰めてしまった。あなたがまたもや、彼の元で一人思い悩むことを許してしまいました。彼の処遇やこれからの大局について考えるのであれば、もっと早くあなたとしっかり話をするべきだった」

「陛下、そのような、頭を上げてください」

 頭を垂れるヨーデルを、レイヴンは慌てて制する。

「一人でアレクセイの側にいると申し出て、いろいろなものを遠ざけて、それだけで何もしなかったのは、俺自身の選択です。自分の犯した過ちとあの人への償いを、すべて一人で抱え込もうとしてました。そんなこと、出来もしないのに」

 あの日、横たわったアレクセイを初めて目にしたとき、レイヴンは一人で檻に入り、自分の手で鍵をかけて囚われた。自らを罰して、満ち足りるためだけに閉じこもろうとした。

「俺は、あの人と同じ罪を抱えて生きます。だから今度こそ同じことを繰り返さないように……あなたが一人悩むことも、俺は止めなければならないし、止めたいと思ってます」

 レイヴンの表情を見上げ、ヨーデルは目元をやわく綻ばせた。

「ありがとうございます、私も……あなたたちと、民と、彼にも恥じない君主であるために、あなたたちの力を借りさせてください」

 レイヴンはゆっくりと頷き、窓越しの空を見上げた。鳥たちの群れが、抜けるような青空をわたっていくのを、目で追いかけていた。

 

 

 

 アレクセイの裁定の日、帝都には多くの者たちが詰めかけた。

 城に立ち入ることができたのはほんの一部だったが、そのほか裁定の結果を待つ人々は市民街の広場に集まった。裁定に関心を持ち、はるばる遠くの街から来た者もいた。

 

 城の議場にはヨーデルと副帝のエステル、評議会員たち、騎士団を代表してフレンとレイヴンや隊長格の一部が集められた。凜々の明星を初めとした仲間たちは、見届け人として議場の脇に並んでいる。場の中心に、二人の騎士のあいだ、アレクセイは静かに座っていた。

 民の代表としてエステルから、嘆願書が提出された。騎士団、元魔導士や精霊研究家たち、ギルドなどの団体のほか、さまざまな街から寄せられた声が集められていた。一つの賛同にとどまらず、多種多様な意見を集約したものとなったが、いずれも一点においては共通していた。

『アレクセイ・ディノイアに厳正な裁きを求めるとともに、死罪を除く賢明な判断を望む』

 

 評議会員の一部は声を上げた。帝都を脅かした重罪人を、生かしておくなど許されない。新世界の民たちの憂いを断つためにも、断じて死罪以外の処分はあり得ない。そう主張した。

 エステルは、その声に対するように嘆願書を読み上げる。帝都市民の一人が記したものだ。

『アレクセイがもたらした被害は甚大だと知った。帝都に魔物が入り込んだとき、自分の大切な家も失われた。到底許せるものではない』

 議場はざわめきに満ちる。そのままエステルは続ける。

『しかし、例え死罪が下っても、失われたものは元に戻らない。少し胸のすいたような思いがするだけだ。それならば、なぜ私の家は失われなければならなかったのか、彼がどのようにしてその行いに至ったのかを知りたい。彼にも、ともに考えてもらいたい』

 わずかに静まった場に、元アレクセイ親衛隊の者たちが証人として召喚される。彼らはアレクセイの計画に加担した経緯を語り、同時にアレクセイの語る理想に心から共感し、志を同じくしていたことを話した。主がこのような形で戻ったうえで再び命を絶たれれば、己が罪を償う機会も絶たれてしまう、と口々に訴えた。

 

 さまざまな議論や訴えの後、ヨーデルがいよいよ口を開く。嘆願書はすべて目を通し、民たちの声を確かめたことを述べる。

 そうして、一つの紙束を取り出して言う。これは、評議会員より提出された、アレクセイの死罪を望む嘆願書であると。

 皇帝の判を待ち静まり返っていた場が、一気に騒がしくなる。見届け人の仲間たちも、顔を見合わせている。騎士たちの制止を待って、ヨーデルは再び話し始める。

 

『帝都ならびに世界全体を混沌に陥れた、許しがたい暴挙の数々は、世界が大きく変化した今でも記憶に新しい。それらを私たちはどのように考えるのか、ここに機会が訪れた。

 彼がこの先どうあるかは、この世界で私たちがどうあるべきかに大きく関わるものだと考える。新たな世界で彼の償う機会を与えるのか、彼の命をもって、今ひとたび新たな世界へ舵を切るのか。

 提出された証拠や証言から、彼の行いは必ずしも身勝手な私利私欲によるものと判断できない点も存在する。しかし、何かを企むときにいったいどこからが私利私欲と呼べるのか、独りよがりな行いはいずれも私利私欲とみなすべきではないのか、といった論点もある。彼らを陥れた者たちにより、凶行に走ることを余儀なくされたという声もある。

 しかし、民の訴えやこれらの点をもっても、彼が重罪であるという事実は覆すことができない。彼の所業により、帝国が、世界が受けた痛みは到底計り知れないものであるといえる。

 

 だが、これらは今生きるすべての者たちにも関わる罪であるとも考える。彼の行いを見過ごした者、世界の惨状から目を逸らしていた者、そうして積み上げてきた罪が彼の身に集約される形となったのではないか、と私は考えている。

 私たちが知らず積み上げてきた罪から生まれた、この新しい時代へ、今一度どう向き合うべきか。一人一人がその問いを胸に抱くときではないか。

 

 人の命はひとつきりであり、死罪も罪人ひとりにつき一度しか下すことはできない。その一度きりの判断を下すのは、少なくとも今ではない。

 彼の罪を過去にせず、未来への礎とするために、彼を帝国の名のもとで無期刑に処し、厳重な監視のもと、新たな世界のために従事させるものとする』

 

 水を打ったように静まった議場で、裁決が取られる。

 アレクセイは、顔を覆っていた両手を下ろし、視線を上げた。

 その瞳が、涙に濡れているのをレイヴンは見た。

 

 

 

 そんな裁定の前夜、レイヴンはアレクセイに会いに、一人塔にのぼっていた。

 アレクセイは杖を手に、窓辺で夜空を見ていた。部屋にレイヴンが入ってきたのに気がつくと、渋い表情でこちらを見やる。

「また来たのか。昼間もモルディオと来ただろう」

「慌ただしい時間にリタっちに引っぱられて、結局さっさと帰っちまったんで」

 昼に来たときは、ほとんどリタがアレクセイと話していた。レイヴンはそれを後ろからながめていたが、以前より心に引っかかるものはいくらか減っていた。研究者気質で馬が合うのか、率直に意見を交わし合う二人の姿は、時に仲睦まじい親子のように見えた。

「明日……ですね」

 窓を見上げるアレクセイの横顔が、月明かりに白く照らされる。

「最近は、あなたが城内でどこにいたとか何をしてたとか、そんな噂で持ちきりですよ」

「単に城内を見て回っていただけだ。様変わりしたところも多いと聞いたのでな」

 アレクセイは監視の騎士たち付きで、侍従たちに混じって城内の細々とした仕事を手伝っていたという。侍従たちはたいそう恐れおののいたというが、繕い物の仕分けや備品の分類などの速度は目を見張るものがあったらしい。

「アレクセイ・ディノイアの印象も、ずいぶん変わったでしょうね」

「死罪を逃れるために小賢しい真似をしていると、そのような声も聞こえた」

 アレクセイは右足を引きずりながら寝台に戻っていく。体の状態や意識はすでにかなり安定したが、手足には麻痺と痛みが残り、この先回復の見込みがあるか分からないと医者から聞いた。

「言わせておけばいいんですよ。あなたのことは、知るべき奴が知ってる」

 扉近くの壁にもたれて立っていたレイヴンに、視線が向けられる。

「何か、あるのか」

 レイヴンはふっと笑って、首を左右に振りながら寝台に近づく。

「用がないならさっさと帰れってことですか」

「言いたいことがあるならすみやかに言え」

「単に、あなたと話がしたかった、それだけです。いけませんか?」

 アレクセイは顔をしかめ、何も言わず溜め息をついた。ふとしたときに感情をあらわにするのが、レイヴンにとってはこの上なく面白かった。

「この機会だ。君に、言っておきたいことがあったのだ」

 レイヴンが寝台脇の椅子に腰を下ろすと、アレクセイはぽつり口を開く。

「なんです?」

「私の、罪についてだ」

 アレクセイは静かに目を伏せる。

「私は、大きな罪を犯した。取り返しのつかない過ちを引き起こした。だが、時を戻せば再び同じようなことを為すのではないかとも思う。私は私の理想のために、すべきことをしたのだと、今でもどこかで感じている」

 燭台の火が揺れるたび、その顔に落ちる影もかすかに揺らめいた。

「先日の狂乱を、君たちは私が下手な芝居を打った故だと思っているかもしれないが……実のところ、芝居なのか本心なのか、どちらなのか分からなくなっていた。野望を遂げる、と口にするたびに、私は真に自らの行いを悔いてはいない、そう思い知ったのだ」

 レイヴンは、実際に錯乱状態のアレクセイを目にしていない。けれど、数々の者がアレクセイの乱心を信じていたのだ。あのデュークも危機感に駆られていたほどだ。それは真に迫るものだったのだろう。

「どちらなのか、分からない……ね」

 アレクセイの言葉を繰り返す。二つの仮面を付け替えるかのように過ごし、ある時自分が誰なのかおぼろげになることが、レイヴンにもあった。

「君が帝都を離れると知り、事を起こしたが……やはり君に止めてもらったほうがよかったのかもしれないな」

「俺がいたらバレるって? 買いかぶりすぎですよ。十中八九コロッとあなたの芝居に騙されて、今頃もしかしたらあなたを殺してしまってたかもしれない」

 顔の前で手を振るレイヴンを、アレクセイはじっと見つめてくる。

「君は、まだ私を殺すつもりがあるか」

「あなたは、それを望むんですか?」

 問い返すと、アレクセイはなぜか目を丸くしたあと、わずかに表情を緩めた。

「君の手によって終わるのなら、最もふさわしい末路だと思っていた」

「そりゃ光栄ですね」

「だが、それは君に最後まで全てを背負わせるということだった。私の手で全てを強いられた君に私の末路まで委ねようとするのは、傲慢なことだった……すまなかった」

 シーツに頭ごと倒れ込むように、アレクセイは背中を丸める。何度かこの部屋で請われた言葉が、今は違う意味をともなってよみがえる。アレクセイはずっと助けを求めていたのだ。どうやって生きていけばいいのかと、問い続けていたのだ。

 ――俺も、このひとにずっと答えてほしかった。

 死人の身でどうやって生きろというのか。命を与えられ、痛みを受けて、それでも足りずに、この身に触れる手が、いつまでも続く泥のような時を終わらせてくれることを幾度も望んだ。互いに同じことを繰り返していたのだと、今更気がついた。

「あなたがまた道を踏み外すようなことがあれば、俺が必ず止めます」

「そのときは、迷わず殺してくれ」

「そうならないように、せいぜい頑張ります」

「いや……やはり、君にそこまで委ねるわけにはいかない。私自身で始末をつける」

「そこがいけないんですよ。一人であれこれ考えずに、周りを見てください。まあ、俺が言えたことじゃないんですけど」

「……変わったものだな、君は」

「何も変わっちゃいないですよ。まあ……うっかり俺も一緒に踏み外しちまったときは、リタっちあたりが火の玉ぶつけまくってくれることに期待しましょう」

「そうだな……」

 うつむいたままのアレクセイの口元が、ほんの少し綻んだのが分かった。長い時間ともにいたはずなのに、こんなに長く言葉を交わすのはおそらく初めてで、不思議な気分に満たされていた。

 明日、アレクセイの処遇が決まれば、どうなるのだろうか。こんな風に話したり、時間を過ごしたりすることはできるのか。レイヴンは不安に駆られ、丸められたアレクセイの背中にそっと手を伸ばした。

「俺は……あと、これからのあなたのために、何をしたらいいですか」

 これからやり直し、償うことは許されるのか。この背に負ったものを今からでも分かち合うことはできないか。あまりにも遅すぎる後悔と切実な願いがレイヴンの胸を満たす。

「何も、しなくていい」

 アレクセイはレイヴンの肩に触れて、そっと抱き寄せるように頭をもたせ掛けた。

「生きているだけで、いい」

 レイヴンはアレクセイの背に腕を回して、たまらずにほんの少し力をこめた。顔を埋めた肩口の生地にこぼれた雫が染みこむ。

「俺も……同じです」

 ずっと受け止めきれないくらいに与えられた、生きてほしいという願いを、もらった分だけ今度は自分が与えたい。胸が熱く焼け焦げそうなほどに、強く思った。

「君が、今も生きる意味はなんだ?」

 少し体を離したアレクセイが、指でそっとレイヴンの目元に触れる。涙を見られたのが気恥ずかしくて、手を掴んで制した。

「そうですね……一度死んで、あなたに命を与えられて……でもこの命は、もう俺だけのものじゃない。いつの間にか、俺一人がどうこうできるものじゃなくなっちまいました」

 そっと胸元に手のひらを当てる。穏やかな駆動音と、熱い温度が伝わる。

「だから、きっとあなたもそうなんです」

 にこりと笑んでみせる。服越しの魔導器に触れながら、思い出す。

 埋め込まれたものを、ずっとこの身を縛る鎖のようだと思っていた。けれど、それ以外にも、どうあってもこの世界に繋ぎ止めてくれるいくつもの鎖があるようだった。それはやさしく、痛く、いとおしむべきものだ。

 いつか鎖が解ける日まで、その罰は続くのだろう。

 それからしばらく、アレクセイと他愛もない話を少し続けた。主と従者でもなく、世話をするものとされるものでもなく、同じ願いを抱くふたりの人間として、語り合った。

 

 

 

 

 

 

   until the day

 

 

 

 水流が身体の上を行き過ぎ、水底へと沈んでいくのを感じた。視界は暗く霞んで、なにも見通すことができない。

 ぼこりと浮かんだ泡に、誰かの顔が映る。終ぞ届かなかった光の向こうに手を伸ばす。灰色の影をまとった指先は、砂塵を掴むばかりだった。

 また、失った。

 いや、ずっと、失っていた。

 絶望は重りになり、身体を深みへと導いていく。反転した深海の果てに、青い火が灯る。葬列を彩るかのように並んだかと思うと、寄り集まり視界に飛び込んでくる。

 それはとんでもない熱さだった。思わずむせ返り、肺から喉から大量の水を吐き出す。砂にぼたぼたとこぼれる染みを見て、自分が波打ち際で横たわっていることに気がついた。

 空は澄み渡って遠くの山まで見えるほどに晴れて、風が容赦なく濡れた身体に吹きつける。けれど、あたたかな陽光が温度をとどめてくれている。

 自分の手のひらを見つめた。ぼろぼろに剥がれ傷だらけで、何も持ってはいなかった。その手で、すぐそばの砂をつかんで宙に浮かべた。指を開けば、細かな砂粒が風にさらわれていく。

 その砂煙の行く先を、ただどこまでも見つめていた。

 

 

 目覚めは、波の音とともにやってきた。

 アレクセイは慎重に体を起こし、簡素な寝台から降りる。もうこの小屋の中でなら、杖を使わずとも歩けるようになっていた。それでも、小屋というには少し広い家屋だ。一応の割り当てられた牢獄としては、あまりにも整いすぎているといえる。

 部屋を数歩歩けば、窓を開けて縁側に出ることができる。朝靄のなかに広がる一面の海がアレクセイを出迎える。ぼうっと、しばし放心してつめたい風に吹かれる。

 帝都にてしばらくの拘留の後、アレクセイはこのユルゾレア大陸南方に送られることとなった。目的は、帝国・ギルド双方が関わるこの地での精霊術計画に従事することだ。手足の後遺症から資材を運ぶなどの身体労働が難しいために、もっぱら研究者たちとの計画策定や、精霊術実験への参加が主な労働となっていた。

「ふわーあ……あれ、あんたもう起きたの」

 縁側からつながる隣の部屋に、口を大きく開けたリタ・モルディオが立っている。ずいぶんと眠そうだ。

「モルディオ……君は結局、そこで夜を明かしたのか」

「あんたが隠してた資料と、他の文献を照らし合わせてたらいろんなことが分かって、忘れないうちに理論を整理してまとめてたのよ」

「それで、成果は」

「基本的な部分は自分なりにまとめられはしたけど、これを実践に応用できるかっていったらすぐには難しいかも」

 リタはばたばたと縁側に出てきて、手すりに上半身を預けるようにもたれる。

 この小屋から丘をくだって森を進んだところに、計画参加者や研究者たちなどの拠点としてキャンプ地が築かれている。本来、リタはそこに寝泊まりするはずなのだが、なぜかこの小屋に入り浸ることが多い。

「あとで、時間あるときにあんたにも見てほしいんだけど」

「今日の予定が終わったあとでなら、構わない」

「それにしても、心臓魔導器ってメチャクチャよね。調べれば調べるほどそう思うわ。あんたもずっとアレ見てきたんでしょ?」

「そうだな……」

 初めて見たときは、大いなる人類の可能性だと感じた。これで医療技術はまた進歩すると確信した。だから、試作型を引き取り、手元で管理とさらなる研究を行うことにした。けれど、倫理的にどの段階で用いるべきなのか、人体に魔導器を埋め込むことの是非などもあり、実用化の目処は立たなかった。

 あの日、砂漠に散った夢の跡を目にするまでは。

「こんな形で今も残されるとは、予想がつかなかったがな」

「精霊化でほとんどの魔導器が使えなくなったけど、あれだけは残さなきゃいけなかったから……」

 真剣な横顔に視線をやる。心臓魔導器のことを話すとき、リタの口調にはいっそうの熱と切実さがこもる。自分が入れ上げ、用いて、その選択の是非を悩み続けたものに対して、そんな様子を見るのは不思議な心地だった。

「魔導器ネットワークを用いて、各地の魔核を結びつけて、災厄に対抗したのだろう。よくも短期間でそこまでの策を練り上げたものだ」

「ずっと寝てたあいだのことなのに、よく知ってるわね。めちゃくちゃ変わりすぎて、混乱するくらいじゃないかって思うけど」

「毎日部屋にやってくるお喋りな奴がいたからな」

「あー、あいつってなんかよくわかんないときに無駄にぺらぺら喋るわよね。うるさいってくらい」

 呆れたように息をつくリタに、アレクセイはふっと笑みをこぼす。

「昔の奴は……ずっと私の前ではろくに何も話さなかったよ」

「え、ああ、シュヴァーンの話? まあそれも想像できるけど……ちょっと、詳しく聞かせなさいよ」

 いきなり詰め寄ってくるリタに困惑していると、部屋のほうから声が飛んできた。

「なになに? おっさんの噂話?」

 にやりと笑うレイヴンが窓際に立っていた。

「ちょっと、こんな朝っぱらから何しにきたのよ」

「おっさんはキャンプ地に届けもんがあったから、ついでに様子見に来ただけよ。リタっちこそなんでまたここにいんのよ」

「あたしは文献調査に部屋借りてただけよ。騎士たちにも許可取ったし」

「キャンプでやればいいじゃないの」

「キャンプに持ってきた文献置いてたら、荷物が多すぎるからどかせって言われたのよ! あたしの研究には今もっとも重要なものなのに……むかついたからここでやってるのよ」

「そりゃあそう言われるわ……」

 部屋にどっさりと置かれたリタの荷物を見やりながら、レイヴンは乾いた笑いで首を振る。

 アレクセイの片足には装置が付けられている。拠点から一定の距離が離れると、高熱が発生するというものだ。これにより、アレクセイは拠点周辺での行動に、一定の自由が許可されている。

 リタはこの装置の開発にかかわった一人でもある。そのために、彼女が自由にここを訪れようとも、おそらく監視の騎士たちも強くは出られないのだろう。

「あなたも大変ですよね……うちのリタっちがすみません」

「なによその言い方、あんたのになった覚えはないわよ」

 騒がしいふたりに、アレクセイは思わず口元を緩めてしまう。胸のうちがやわらかな水に似たものに満たされて、背を照らす朝の白い光の温度をはっきりと感じた。

「そうだ、まだ迎えがくるまで時間あるわよね。あんたに聞きたいこと、今まとめるわ」

 そうして慌ただしく部屋の中に駆けていくリタを見送る。

「あー……なんか、しょっちゅうこんな感じですね」

「流刑の身とは思えない状況だな」

「まあ、あなたが楽しそうなんで、よかったです」

 微笑んだレイヴンに言われて、はたと気がつく。この感覚は、楽しいと呼ばれるものだったのかと胸に手を当てる。

 規則正しい鼓動のなかに、熱が灯るのを感じる。それが炎のように猛り狂ってすべてを焼き尽くすのではないかと震えをおぼえた。胸を満たしたものが濁流のようにすべてを呑み込んでしまわないかと怯えが襲った。

 すぐそこにいる、いとおしむべき夢と未来の欠片が、指先の向こうで砂塵のようにどこかへ散ってしまうのを、心から恐ろしいと思った。

 そうか、とアレクセイは理解する。きょとんとこちらを見るレイヴンに、心配ないと首を振ってみせる。

「じゃ、朝ごはんでも作りますかね」

 そう言ってレイヴンはアレクセイの肩にやさしく手を置く。部屋の中に戻っていくと、また何事かリタと言い合っている。

 ――これが、幸福というものか。

 アレクセイは欄干に掴まり、ふらりと折れそうな膝を支えた。

 部屋から自分を呼ぶ声が聞こえる。打ち寄せる波音が、背から追いかけるように響いてくる。

 胸が軋むように痛み、体がばらばらにほどけてしまいそうになりながら、アレクセイはゆっくりと、おぼつかない足を踏み出した。