本編、バクティオン神殿後の話です。
熱い衝撃に、体がまっぷたつに裂かれたような気がした。
剣先のひらめきの向こうに、冷たい瞳が光っていた。
その光は昔いつか本で見た、濁った海の底の色に似ていた。
視界が真っ赤に染まり、それもかき消され閉ざされた。
抵抗なのか、反射なのか、それとも胸ぐらでもつかんでやろうと思ったのか、伸ばした手は空を切って落ちた。
――嫌われたものだな。
少し笑みを含んだような寂しげな声が、いつまでも耳に残っていた。
「……ち」
かすかな陽が射しこんでじわりとあたたかい。ふわりとした微睡みに包みこまれていて、このまま目を開けたくない気がした。指先にさらりとしたシーツの感触を感じる。
「……っち、リタっち!」
肩を揺すられてはっと目を開けてしまった。そこには慣れ親しんだ顔があった。
「……え」
「おろ、寝ぼけてるなこれは……」
紫の羽織に身を包んで、レイヴンは首をかしげて枕元に立っていた。
「いやー、リタっちなかなか起きないから苦労したわー……そんなに昨日……」
跳ねるように起き上がって、体当たりするようにレイヴンの胸にぶつかった。体がひとりでに動いていた。
「ちょ、ちょっと待って、勝手に部屋に入ったのは悪かったけど、話聞い――」
気がつけば涙がこぼれていた。羽織をつかんでたぐり寄せる。鮮やかな紫色だった。何度も瞬きをしてこの目に映るものが偽りでないか確認する。
「リ、リタっち……?」
困ったような声が頭上から降る。泣き顔を見せるのなんか本当は嫌で、早く涙を止めたかった。けれど、もっともっと慌てて、うろたえている姿が見たいと思った。
「……おっさん……」
大きな手がゆっくりと背中を撫でた。胸の奥がほどけてほろほろと溶けていくようだった。
「……怖い夢でも見た?」
「……べつに怖くなかったわよ、ちょっと変な夢だっただけよ」
「……はっは、そうかい」
だんだん冷静になってきて、顔をそむけながら離れた。
窓の外はよく晴れていて、白いカーテン越しに陽光のあたたかさが伝わる。
「みんなは?」
「下で待ってるわよ」
「そう、早く支度しないとね」
机の上には広げっぱなしの本と紙束が散らかっている。昨夜はちょっと集中しすぎてしまったようだった。まだ眠気が取れず頭が少しぼんやりとしている。
「……って、いつまでここにいるつもりよ」
「あー、はいはい、外で待ってますよっと」
ささっと退散していく後ろ姿がなんだかおかしくて、ドアが閉まってから、安心したように少し笑った。
「あ!リタ、おはようございます」
宿の外に出ると、やわらかな笑みをたたえたエステルが軽やかに駆け寄ってくる。
「お、おはよう……遅くなって悪かったわ」
「いえ、昨日リタ頑張ってましたし、少しくらい寝てしまっても仕方ないです」
「いやー起こすの大変だったわよ……」
後ろから現れたレイヴンが、げっそりといった様子をしてみせる。
「おーおー、お役目ご苦労さん」
「レイヴン、殴られたり燃やされたりしなかった?」
「……ちょっと、それどういう意味」
カロルをぎろりと睨みつけると、両手を頭の上に置いてうわあ、と後ずさりした。
「幸運だったわね、おじさま」
「そうねえ、リタっちが変な夢見たらしくてぼうっとしてたのが助かったわ」
「変な夢、ですか?」
「まあ、そうね……」
言葉を止めて、思わずレイヴンのほうを見た。不思議そうに呑気な顔でこちらを見ている。素直に話したものか少し迷った。変な夢、と形容したが、軽く話せるような内容ではないと思った。薄暗い、ひんやりとした空気感を思い出す。
「……なんか、変な、かっこつけた、騎士が出てきて……そいつが、おっさんに似てた」
一瞬、場が静まり返った。
「…………っはははは!!レイヴンが騎士ー!?」
「はっはっは、そいつは傑作だな」
「え、わたしはいいと思いますよ、ロマンがあると思います」
「リタが混乱するのも仕方ないわね」
「ちょっとちょっと、そんな笑うこと!?」
皆がいっせいに笑いながら、口々に好き勝手なことを言う。レイヴンも、その輪の中にいた。
「俺様に実は隠されたもう一つの顔があったら……どうよ?イイでしょ?」
「何言ってんだこのおっさんは」
「ダメね」
「……バカっぽい」
続いてぼそりと呟くと、皆がこちらを見て、またいっせいに笑った。
「さ、そんな夢の話は置いといて、出発するか」
ユーリの掛け声で、皆は笑いながら歩き出す。レイヴンはちょっとぉ、と不満そうにしながらも、どこか楽しそうに笑っていた。それを見て、ほう、と胸の奥から息が漏れた。
高くなった陽から降り注ぐ白い光が眩しくて、視界が少しふわふわと霞んでいる。足を踏み出そうとすると、引き留められるように、くいと腕を引かれた。
「リタっち、まだぼーっとしてる?」
レイヴンが心配そうな顔で聞いてくる。
「……だ、大丈夫よ、もう」
起きたときのことを思い出して、とっさに恥ずかしくなって手から離れようとした。
「今日のリタっち、危なっかしいからちゃんと見とかないとコケそうだわ」
「そんなドジしないわよ、バカにしないで」
言い返しても、へらへらと笑っている。けれど、どこか穏やかな、凪のような笑み。背中には支えるように手が添えられている。今日のレイヴンはなんだか変だ。
「……そういえば、どこへ出発するんだっけ」
歩き出した皆の背中はいつの間にかとても小さくなっていた。白い光がひらめいて見えなくなってしまいそうだ。追いかけようとすると、ふと、レイヴンの指先が、頬に、それからゆっくりとすべって、首筋にふれた。刺すように鮮烈で冷ややかな感覚が伝わり、ぞくりと身震いをする。じっと見つめられた瞳から逃げられなかった。その瞳に揺らめく光を、どこかで見たことがあると思った。
「……リタっちは、どこに行きたい?」
背中が氷のように冷たかった。
体からどんどん熱が失われていく気がした。
肩から胸にかけて何度も裂かれるような痛みが襲う。
金属のこすれる音が聞こえる。
ぱらぱらと硬いものが降り注いでくる。
「……もういいんだ」
頬をつめたいものが覆う。
「……皆のところへ帰ったほうがいい」
声を聞くだけで、痛いと感じた。
「……俺のことは、憎むか、忘れるか、どちらかにしてくれ」
地響きが聞こえ、空間をつんざいた。
「リタ」
――やめて。
その声で、名前を呼ばないで。
額にすうと冷えた風が吹いて、ゆっくりと目を開けた。
「……リタ……!」
そこには、濡れタオルを持ったジュディスがいた。
「よかった、目が覚めて……」
「あたし……どうして……」
「ああ、まだ起き上がるといけないわ。あなた、三日三晩ずっと眠っていたんだから」
起き上がろうとするのを手で制し、ジュディスはしぼったタオルをたたんで額にのせる。チリチリとした感覚があってもどかしかった。
「神殿を脱出してから、体制を整えつつあなたの回復を待っていたのよ」
神殿、という言葉に、ほの暗い祭壇の影が蘇る。その祭壇はぼろぼろに崩れていて、その向こうに、鮮やかな色をまとった“何か”がいた。
「う、っ……」
反射的に肩を押さえる。服の下に何かが巻いてあるようで、鈍い痛みがじんじんと広がった。
「まだ顔色がよくないわ、もう一度眠ったほうがいいわね」
ジュディスはやさしく髪を撫でて、それから瞼を手で覆った。
「いったん、目が覚めたことみんなに報告してくるわね」
そうしてすっと立ち上がり、静かに部屋を出ていった。
ベッドに横たわったまま、ぼうっと宙を見つめる。木製の天井が見下ろしてきた。フィエルティア号の船室だった。
頭が重くて、体が縛られたように動かなくて、本当に長い時間眠っていたのだとわかった。
肩を少しでも動かすと、痛みがぴっと走る。服をずらし、その場所を確かめる。肩から胸にかけて、白い布が巻かれていた。なぞると、傷跡の形がわかった。それは、確かな証だった。
「……ばか……ばかに……しないでよ」
悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、胸が焼け焦げそうだった。体も、頭も熱くて、けれど、目を閉じれば、鋭い冷たさを思い出せるような気がした。自分の指で頬に、首筋にふれてみても、指先は熱くてふにゃりとしていて触れた先からどろりと記憶ごと溶けていきそうだった。
――行かなきゃいけない。
シーツをぎゅうと握った。あそこは暗い海の底だった。もう沈んで戻れなくなった最果ての場所だった。そこに“あいつ”はいるのだ。なかったことになんてできなかった。傷も、痛みも、記憶も残っている。
窓から急に光が射した。灰色の空の雲間からわずかな光がのぞいていた。その光は鮮烈で、眩しくて、この上なく冴え冴えと鋭かった。天に向かって手を伸ばした。それは白い光の中でもはっきりとした影になって見えた。
やがて影の輪郭がぼやけ、だんだんと薄れて、霞んでいく。突然頭がずしりと重くなって、枕に吸い込まれるように再び横たわり、目を閉じた。ゆらりと、体が宙に浮き上がって、また沈んで、どこかへ運ばれていく気がした。
――リタっちは、どこに行きたい?
――あんたのところに行って、それからエステルを助けるの、みんなで。
――そう……そりゃあ、いい夢だ。
あとがき
リタはバクティオンでの出来事について、今までの人生で感じたことのない、並々ならぬ衝撃を覚えたんじゃないでしょうか。あんなに感情をあらわにしたのは後にも先にもあのときだけということを思うと、レイリタは公式……と放心せざるを得ません。
ありがとうございました。