背中合わせ

夜も更けたころ、リタは気がつけばハルルの樹の下に佇んでいた。まるで何かに導かれるようにして。

 

以前、まりもにゃん様主催のレイリタWeb企画に参加させていただいたときに書いた話です。

タイトル及びお題はまりもにゃん様にいただいたものです。ありがとうございました。


ざわ、と梢が揺れる音が聴こえた。湿気をふくんだ風が頬にぺたりとはりつく。夜の花の街は静かだった。リタは街の一番高い場所から、ぼんやりと空をながめていた。そびえ立つハルルの樹の根元に腰かけ、その頭上からは花びらと小さな光の粒がいくつもいくつも降りそそいでいた。

街に起きている人はもう少ないようだった。研究所をはじめ、遠くの民家などに小さな明かりはちらちらと見えるが、ここでは花と光しか動くものがないかのように思えた。自分さえ動きを忘れるほどに。膝の上には本が広げられていたが、桃色のかけらがぱらぱらと散らばって、文字を見えなくしている。

リタはこの夜に溶ける欠片の幻想的な眺めと、流れるひんやりとした空気に浸った。ハルルに拠点を置くようになってしばらく経つが、こんな風に樹のそばで花を眺めるのは久しぶりだった。立派に咲き誇る桃色の花を見ていると、いまごろは帝都にいる親友の顔が浮かんでくる。そして彼女が語ってくれたさまざまな樹にまつわる話の断片が頭によみがえる。もっとも、細かいところはあまり思い出すことができなかったのだが。

 

そんなことを取り留めもなく考えていたら、つめたい風がひゅうと吹き抜けていった。樹の下にたたずむ自分の輪郭が浮かびあがるような心地がした。いつからこうしていただろう、そもそもこんなところまで何をしにきたのだろう――そんな考えがよぎったところで、すこし凝った首をほぐすよう頭を後ろに動かし、何とはなしに頭上の枝ぶりを視界に入れる。枝間に切れ切れの夜空が見えた。その間を覆うような花の色。

「……え?」

ハルルの樹が、太い幹をいっぱいに広げて空に伸びていた。それを辿るようにリタの目線は動く。暗い空と花と細かな光が飛び交うそのすき間に、あきらかに異質な色を見つけた。一度見たら忘れるはずもない、鮮やかな目印。リタは、まさか、と拳をぎゅっと握りしめた。

「……ありゃりゃ、気づかれちゃったか」

頭上から声が降ってくる。反射的にリタは体の向きを変え樹の根元から飛びのいた。声のした方を見ようと上を向くと、その影はほとんど音も立てず軽々と地面に降りたった。突然のことに、リタは目を見開いてしばしの間動けなかった。

「あ、あ、あんた……」

「おろ、そんな驚かれるなんて、もしかして幽霊かなんかと思っちゃった?」

にやにやとからかうように聞いてくる。鮮やかな紫の羽織をまとった男は、そんな何年も会っていなかったわけでもないのに、ひどく懐かしい感じがした。

「そ、そんなわけ、ないでしょ……!」

少し心臓がばくばくと鳴っていた。幽霊かなにかだと思うひまもなかった。まさかこんなところに現れる可能性なんて、微塵も想定していなかった。驚きと、期待にも似た胸の高鳴りを落ち着かせようと、リタは二、三度咳払いをしてみた。

「……せっかく一人でいろいろと考えまとめてたのに、急に樹の上から変なものが落っこちてきたら、誰だって驚くわよ」

「変なもの、って、そりゃあんまりだわリタっち……」

レイヴンはげんなりとしたように肩を落としながらこちらに近づき、座りこんだままのリタに手を差し出した。その行動の意味がわからず、リタは左右をきょろきょろと確かめたあと、はっとレイヴンの顔を見た。リタの仕草にん?と首をかたむけ、不思議そうな顔をしている。それがなんとなくしゃくで、しかも腰を抜かしかけたことを認めるみたいで、しかめ面のまま地面に手をつきながら自力で立ち上がった。

 

 

「で、なんでおっさんがここにいるわけ?騎士団もギルドも、ハルルに来るような有事があったとは思えないけど」

ひとまず調子を取り戻したリタは、幹にもたれるような姿勢で腕組みをしながら、質問をぶつけた。

「そうね、騎士団もギルドも、今は警備やら調査やらそれぞれの任務で手一杯って感じね、俺様もダングレストからあちこち飛び回って大忙しよー……」

レイヴンとリタが会うのは、約ふた月ぶりのことだった。定期的に心臓魔導器を診せにくるよう言いつけてはいたが、間が空くことはしょっちゅうで、かと思ったら月に何度もやってくることもあった。レイヴンのことだから、きっとそうなるだろうという予想はしていた。そんな生活のなかで、それぞれにやるべきことがある今、レイヴンと会う機会は魔導器絡み以外でそうそうあるものではなかった。急のことに頭がついていかなかった。

「じゃ、なんでそんな大忙しのはずのあんたがこんなとこにいんのよ」

同じ質問をもう一度口にだすことに、リタは少し苛立ちをおぼえた。苛立ちと呼ぶべきものなのか。足をトントンと踏み鳴らした。それが本当はどんな感情からくるものなのか、リタはまだ気づけないでいた。

「んー、なんとなく?」

「はあ?」

予想をはるかに上回るふざけた返答に、リタの目つきはいっそう険しくなった。

「んじゃさあ、リタっちはなんでこんなとこにいるのよ、もうだいぶ遅い時間でしょ」

「なんでって、ここあたしの本拠地よ、当たり前じゃない」

リタはハルルの街を一応の本拠地としていたが、調査のため離れることもしばしばだった。ゆえに定住のための住居を構えておらず、研究所につくられた専用のスペースで寝泊まりしている状況だった。

「いや、なんでわざわざハルルの樹までのぼってきてたのかってことよ、本まで持ってきてさ」

思わず言葉に詰まる。研究所の窓から、夜闇に浮かぶ樹をながめていたところまでは覚えている。気がつけば、本をたずさえてここまで来ていた。そんな馬鹿みたいな話を素直に喋る気になれず、リタは黙ったままで視線をうろうろと動かした。

「……まあ、ちょいと近くまで届け物があってさ、遅くなったからハルルで一泊して帰ろうと思ったのよ、リタっちにも会えるかなーなんて思ってさ」

レイヴンはいつの間にか、リタと同じように樹の根元へ背中をあずけて、ぽつぽつと語りだしていた。会えるかなと思って。最後のひとことが耳に入ったとき、少し浮かび上がろうとする心をぐっといさめた。

「そしたら、宿の窓からぼうっとハルルの樹が浮かんでるのが見えて、まあ、なんでか気がついたらここにいたってわけよ」

リタはぱちぱちと瞬きをくり返し、レイヴンの横顔を見つめた。偶然にしても、こんな馬鹿な話はないと思った。花びらがすうっと音もなく視界を横切る。

「こんなとこまで来るなんて、寝ぼけてたのあんた?」

自分のことを棚にあげて、リタは呆れたように言い放った。

「まあ、ここに来たおかげでリタっちにも会えたしさ、よかったよかったってことでいいんじゃない?」

「全然よくないわよ、じゃあなに?あんた、あたしがここに来たときから樹の上にいたってわけ?」

「まあ、そうなるわな」

「なにそれ……あたしおっさんにずっと覗き見られてたってこと……?うわあ……」

リタは自分を抱きしめるような格好でぶるるっと震えあがった。

「ちょっとちょっと!そんな気味悪がることないでしょうよ!ひどい!」

その様子を見て、慌てたように抗議の声を上げる。リタの向けるじとっとした眼差しに、ふう、と肩を落として、落ち込んだように覇気のない声で語りはじめた。

「……まあさ、すぐ出ていかなかったのは悪かったって……おっさんも、樹の上からきれいだなーって街眺めててさ、ぼーっとしてたんだって。そしたらリタっちがいつの間にか樹の下にいてさ、驚いたもんよこっちも」

「それなら、あたしが来たタイミングで出てこればよかったじゃない」

「だって下手な現れかたしたら、絶対幽霊かなんかと思われるでしょ」

「思わないわよ!ずっと樹の上で見られてるほうが怖いわよ!」

「結局さっき、すんごい怯えた顔してたじゃないの」

「そんな顔してない!」

久々に会ったというのに、もう恒例の言い合いになっていた。そのことにリタは少し驚きを感じながらも、どこか安心しているような自分に気づいた。それは、いつも不定期に訪ねてきたレイヴンの姿を、はっきりと目に入れたときに感じたものに似ていた。

心に浮かんだそれらが出てこないように、わざと唇を曲げて顔をしかめる。

「はあ、もうどうでもいいわ……それよりおっさん!ぜんぜん魔導器診せにこないじゃない!あんなに言ったのに」

「いや、最近ほんと忙しくてさあ……すまんねえ」

「いいわ、ついでだから今診る」

「え、ええっ!?今!?ここで!?」

「こんな時間に、こんなとこまで来るバカいないわよ」

それじゃリタっちも……、と言いかけたレイヴンをひと睨みで黙らせる。樹の根元に腰かけさせ、その前にどんと座りこむと、観念したように大人しくなった。上着に手をかけようとすると、大きな手がすっと伸びてきてそれを制し、みずから心臓魔導器が見えるようにボタンを外した。

「また、無茶な使いかたしたわね」

「ちょーっとピンチな局面があってね、仕方なかったのよう」

「言い訳はいいわ、まったく、あたしの忠告なんだと思ってんのよ」

ぶつぶつ言いながら盤に指を走らせる。もう慣れた操作だ。けれど、リタが相対しているのは、ただの魔導器ではなくレイヴンの一部なのだと思うたび、指はかすかにためらいを見せる。いまだに心臓魔導器には未知の部分がたくさん残されている。その未知に対するわずかな不安と、どうしようもない焦りのような感情に駆られるときがあった。こうしてリタがレイヴンの心臓を調整できる日々は、いつまで続くのだろう――そんなことを考えている間、レイヴンはぼんやりとした眼差しを宙にさまよわせて、辺りをながめていた。

「この飛んでる光の粒さあ、精霊なのかね?」

ふと、指さしながら質問してくる。

「ん……正しくは、精霊よりも段階的に低いところに位置する存在ね、個々ではあまり力を持たない……このあたりはまだ研究途中だけど……この樹、今でも性質的には魔導器があった頃とあまり変わりが見られないのよね、精霊のせいである可能性が高いわね」

「そっかあ……」

リタの返答を聞いて、レイヴンは感嘆したようにつぶやいた。興味深げに光の粒を見つめ、指でつかもうとしてみたりする。そんなレイヴンの様子は、リタの目にとてもめずらしく映った。制御盤越しにながめ、不思議な気持ちになる。碧の瞳に光が映りこみ、不思議な色合いを見せる。その色に一瞬目を奪われた。

ふと、魔核の赤い光の前に、ふわりと花びらが舞う。リタはふっと上方へ首を逸らし、視界におさまらないほどの巨大な大樹に目を向けた。ハルモニア、ルルリエ、ルーネンス、三種の花が立派に咲き誇っている。リタには、どれがどの花だか見分けがつかなかったが。ハルルの樹には、精霊が宿っている。かつて結界魔導器だったものが、樹と融合して精霊を生み出した、というのが今の研究所の見解になっている。いつかリタが導き出した説だ。魔導器と、樹と、精霊。樹という有機生命体。有機生命体と魔導器の結びつき。頭のなかでそれぞれの要素がつぎつぎと糸を張りめぐらせ、つながっていく。ふいに、ひとつの可能性が、リタのなかに浮かび上がった。

「リタっち、どうかした?」

レイヴンの声で我に返った。ぶんぶんと首を振って、操作にもどり、制御盤を消す。そうして改めて樹を背にするレイヴンの姿を見つめ、なぜかリタは胸を締めつけられるような心地がした。胸に赤い光をたたえ、光と花舞う樹の根元で、静かにたたずむそのさまを見ていると、まるでレイヴンがそのまま光の粒のひとつとなり、夜の樹に吸い込まれていきそうな気がした。いつもなら、それがばかげたものだとすぐに断ずることができるのに、灰色のもやのような不安が胸に覆いかぶさり、リタはレイヴンの前でじっと座りこんだままでいた。

「……なんとなくさ、ここにいると樹の一部になったような気、しない?」

唐突にレイヴンはそんなことを口にした。ゆったりとした手つきで服を直しながら、散りゆく花びらを目で追っている。

「精霊の影響、ってやつなのかもね、なんだか不思議な気分だわ」

しみじみと口にしながら、そっと胸に手を当てる。おそらく、なにも意識していないような仕草だった。リタは心にかかったもやの中で、可能性の糸におそるおそる触れた。もし、本当に精霊がこの樹にいるとしたら。その精霊が並々ならぬ力を有していたとしたら。レイヴンは、この樹と――。

「おっさ……」

思わず呼びかけようとした。が、突然強い風が吹きつけて、声は止まった。花が舞い擦れる音がざあっと響き、リタは自分の身を守るように腕にぎゅうと顔を押しつけた。耳がごうごうと轟音で満たされて、他の音はなにも聞こえなくなった。頭上をぱらぱらと花弁が吹き去っていくのを感じる。腕で顔をかばうようにしながら、そっと薄目を開けてみた。

「……え」

とたん風の音がやみ、また夜の静けさが戻ってくる。ほんの一瞬のことだった。けれど、なぜか目を開けたとき、すぐそばに座っていたはずのレイヴンはいなかった。

「ちょっと……おっさん!」

とっさに立ち上がり、辺りを見回す。ハルルの丘はしんと静まり返っている。人の気配もない。樹が、なんの音も立てず大きくそびえ立っているだけだ。

「なによ……どこいったのよ、冗談やめなさいよ!」

夜闇に紛れ、どこかに隠れて、またリタをからかおうとしているのだと思った。そうにちがいない、あのバカ、殴ってやる、と胸のうちでくり返した。そう思わないととても平静でいられなかった。月が雲に隠れたのか、暗闇の色が濃くなる。さっきまで綺麗だと思っていた花びらも光の粒も広がる枝も、すべてがリタを深淵へ引きこむおそろしいもののように思えた。

「うそ、うそ、でしょ……」

ひきつった声が喉からほとばしる。嫌な汗が背をつう、と流れおちる。ぎゅうっと握りこんだ手のひらに爪が食いこんだ。胸のうちに渦巻いていた不安を、誰かに当てられてしまったみたいでとても気分が悪かった。夜風がいやに冷たく感じた。リタは樹の下でただ呆然と立ち尽くした。なにかに置いていかれてしまったかのように。

 

 

「リタっちー、見っかったよー」

とつぜん間延びしたような声がほど遠くから響いた。反射的に声のしたほうへ足が動いた。幹の陰のあたりだ。

「よっとっと、はい、さっきの風で、なんかメモ飛ばされてたみたいだったから、ちょっと探すの手間取っちまった」

暗がりから出てきたレイヴンは一枚の小さな紙きれを持っていた。ぼさぼさ頭にいくつか花びらがくっついている。

「メモ……?」

「たぶん、研究にかかわる大事なもんでしょ、なくしたら大変だ」

リタは受け取ったメモをしげしげと見つめた。細かい字で図式が描かれている。その形は、昼間に自分が記したものだと思いだした。そして、持ってきた本に偶然挟まれていたものだった。振り返ると、風にあおられ本のページがばさばさと広げられていた。

「……こんな紙きれ一枚、よく取ってこれたわね」

「まあね、目はいいのよ、俺様」

得意げに胸を張るレイヴンに対し、リタは紙きれを手にしたまま、じっと何も言えないでいた。なんで突然いなくなったの、びっくりしたじゃない、声くらいかけていきなさいよ、言いたいことはたくさんあったが、それよりも、一瞬のあいだに起きた出来事に、心がついていけないでいた。あんな馬鹿げた、仮説ともいえない想像に取り乱した自分が情けなかった。一瞬いなくなったくらいで、どうしてあんなにまで動揺してしまったのか。

「……あんた、動きはいやにすばしっこいしね」

ぼそりと、それだけを口にした。レイヴンは、なにを思ったのか、ぼうっと突っ立ったままでいるリタの頭をふいにくしゃりと手のひらで撫でた。いきなりのことに、なにがなんだか分からなくなる。いろんなものを鎮めるような、やさしい手つきだった。

「な、なによ、これ……」

「いんや、なんとなく、ね」

よからぬ不安を悟られたのだろうか、かすかな微笑みを浮かべてリタを見つめている。直視できずに目をそむけた。ぽん、ぽん、と大きな手がぬくもりを伝えてくる。それだけであらゆるものが細かい砂のようにさらりと溶け消えていくような心地がした。からまっていた糸がするりとほどけるような温かさに、ほっと安堵していた。そんな自分に気がついて、なぜだかとてもいたたまれない気持ちだった。

「ね、リタっち、ちょっと奥まで行ってみない?」

レイヴンは突然、いきいきとした口調で明るく提案してきた。

「奥って……どこの?」

「さっき探してるときに、裏手に抜けられそうなとこ見っけたのよ、こっち、こっち」

すい、と差し出された手に戸惑っていると、ぱっと右手をとられてしまった。レイヴンは、薄闇のなかでひょい、ひょいと軽い足取りで大きな根を伝っていく。丘の中心から離れ、どんどん奥地へと進んでいく。

「足、取られないようにねー」

足場の悪い場所を歩くのは慣れていたが、幹のすきまに靴をひっかけて、何度か転んでしまいそうになった。レイヴンがしっかり手を握っていてくれたおかげで、体勢を立て直すことができた。頭上にあらわれるアーチのように曲がりくねった根に、頭をぶつけないよう気をつけて進む。向かう先は黒い闇がつづいている。吸い込まれてしまいそうで、若干の恐怖をおぼえたが、つながれている手と、前を歩くレイヴンの存在がリタをひどく安心させた。あまりに強く手を握るとこわがっているのがばれると思い、少し力をゆるめ、しかし転びそうになってぎゅっとすがるように握り、それを何度も繰り返した。

 

 

 

「ほら、ここ、さっきまでいたとこの反対側まで来た」

声とともにレイヴンの足が止まり、ふっと手が離れる。あたりを見回すと、ごつごつとした根が地面に張りめぐらされているのが薄暗いなかでもわかった。レイヴンの姿がかろうじて見てとれるほどの薄闇だった。遠くに行くほど草がぼうぼうと生えていて、向こうの風景を見えなくしている。

「あっ、あんまりそっちの方行っちゃダメよ、斜面になってるから」

踏み出しかけた足をぴたりと留まらせる。レイヴンが指さしたほうは草が茂っていて暗がりに閉ざされていた。よく目を凝らすと木でつくられた柵が立てられている。上方から伸びる枝のあいだに夜空がのぞく。ここがさっきまでいた丘と同じくらいの高さであることが実感できた。

「ここ、あんまり人の手が入ってないのね……」

「そうねえ、わざと自然のままにまかせてるのかもね、樹を不用意に傷つけないように」

「こんなとこまで来たら、怒られるんじゃないの?」

「だーいじょうぶだって、俺たち、なんもしてないじゃない」

けろりと手を広げて言ってみせる。そもそもどうしてこんなところまで来てしまったのか。ついさっきまで一人樹の下に座っていたのが、ずっと前のことのように感じられる。腑に落ちない気持ちを抱えながらレイヴンのほうを見やる。そのとき、ガサリ、と草が揺れる音が聞こえた。

「なに!?」

反応はレイヴンのほうが格段に速かった。草陰から飛び出してきた得体のしれない影を、とっさに取り出した弓で牽制した。唸り声ではっきり魔物だと分かる。

「うそ、なんでこんなとこまで!?」

「奥まで入ってくるなんて、護衛の騎士の目かいくぐったかね」

「……そうだわ、魔導器なしで結界が完全じゃないから余計に波が……」

「リタっち、分析はあとあと!ちゃちゃっと片付けるわよ、なるべく樹に攻撃を当てないようにしなきゃね」

「こんな見通しの悪い場所じゃ、簡単にはいかないわよ……!」

雲の多い夜なのか、月明かりが遮られたままのこの場所ではとても戦いづらい。敵の影は視認することができるが、間合いをはかるのが難しい。そうしている間に、魔物の数は増えていく。

「リタっちは詠唱に専念して、あとは俺がなんとかするから」

背に立つレイヴンが、低い声で言い放つ。らしくない、少し真剣な声色で。ぴったり合わせた背中に、じわりと温もりを感じた。すぐそこにレイヴンがいる、そう実感した。前を向く。居並ぶ魔物たちを、力強い眼差しで見つめた。

「……見くびらないでよね、あたしだってやれるわよ!上等よ」

レイヴンがすばやく動くと同時に、術式を展開させる構えに入る。

「おっさん!」

「はいよ!」

「魔導器使ったら、ぶっとばすからね!」

顔を見てもいないのに、レイヴンが苦く笑ったような気がした。使わないようにさせるのは、自分の役目だ。自分の力ならきっとそれができる、リタは体の奥に不思議な熱がひろがっていくのを感じた。

魔物の影はレイヴンとリタのまわりをぐるぐると囲むように動き、間合いを見極めているようだった。詠唱中のリタに近づけないのは、レイヴンの的確な射撃のおかげだ。リタが操るのはまだ不安定な精霊術だった。制御できるかはわからない。でもやるしかない。リタはイメージを頭に思い描く。探し出すように。たぐり寄せるように。どうか、と願う。たしかな力を。未知のものでもきっと探し出してみせる。ここにないものなら見つければいい。なんだって、この手でつかまえに行ってみせる――。

 

 

『樹となる人へ』

そのとき、やわらかな声が頭に響いた。

『変わらぬ愛を』

どこかで聞いたような、懐かしい響きだと思った。

 

 

「……リタっち!」

短い一声。そのとき、リタとレイヴンの周囲を風の渦が取り巻いた。七色に彩られた花びらと、細かな葉と光がともに小さな竜巻のように立ちのぼる。魔物の影が上空へ浮きあがり吹き飛ばされていく。それは思わず目を見張る光景だった。花が意志を持ったように天高く渦を巻き、次々と影を打ち払っていく。聖なる剣が振るわれるかのように美しい軌道で。ごうごうと耳元で風の音が反響する。リタが気づいたときには、辺りはしんと静まりかえり、魔物の影はひとつもいなくなっていた。

「リタっち、今の……」

「わ、わかんない……なに、何なの……?」

レイヴンはまだ警戒を緩めず周囲に注意を払ったまま、リタに問いかけた。

「今の、風の術……じゃないの?リタっち、いつの間にそんな精霊術もこなせるようになっちゃったの?」

「知らないわよ……あたし、自分でも何したのか、よくわかんない……」

広げた手のひらを見つめる。精霊術を発動させようと意識を集中させたところまでは覚えている。そこからの意識が完全に飛んでいた。

「魔物、もういなくなったの?」

「ん……気配はもうない、と思うわ。すまんね、おっさんとしたことが、不注意だったわ」

「べつに、そんなこと言ったら、あたしもでしょ」

周囲をもう一度見回し、新たに迫りくるもののないことを確かめる。リタがほっと息をつくと、レイヴンも武器を片付けたのがわかった。

「ふー、無事でよかったわ、リタっちの術に助けられたわね」

「自分で何したかよくわかってないのに、感謝されてもね……」

ひとつだけ覚えていることがあった。頭に突如響いたやわらかな声。樹となる人へ――リタの頭にその言葉がさまざまな色をもってめぐる。

「でも、危なかったなあ、俺とリタっちがここまで来てなかったら、今頃この樹、魔物に荒らされてたわよ」

レイヴンがほう、と安心したように息をついた。今日、この場所に二人で来たこと、それは偶然だったのか。気がつけば樹の下にいたこと。レイヴンと出会えたこと。リタは自分の手のひらをじっと見つめた。そこにひらりと小さな欠片が舞い落ちる。その欠片をそっと、やわらかく握りしめた。

「おっさんの気まぐれも、たまには役に立つのね」

「たまにはね……ってちょっとちょっと!俺様の類稀なる勘がピーンときて……」

レイヴンの声がふと途切れたかと思うと、視線が上を向いた。そのとき、上空がふいにぽうっと明るくなった。枝のあいだから煌々と光がさしこむ。雲が晴れて月が出てきたのだ。光のさす方を振り向くと、それと同時に、花のすきまから光の粒がつぎつぎとあらわれ、樹の中心へとふわり舞いのぼっていく。夢でも見ているかのような、信じがたいほど美しい光景だった。もう、初めからすべてが夢だったような気さえしてくる。

「なに、これ……」

「はあー……きれいなもんねえ……」

二人は呆然と上方に目を奪われた。月の光に共鳴するように、ふわふわと欠片は舞い踊る。それはなぜか、リタたちに向けられた祝福の舞であるように思えてきて、不思議な気分に包まれる。くだらない妄想だと心のどこかで思いつつも、それを否定しきれない昂揚のなかにいた。

「もしかして、精霊がリタっちをねぎらってくれてるのかもね」

レイヴンがリタの思考を言い当てるような言葉を投げかけてきて、少し悔しい気持ちになる。

「あたしだけじゃなくて、あんたもでしょ」

本当にそうかもしれない、という気になってくる。光さす花々に見とれ、思わず後ろによろめくと、レイヴンが背中と手のひらで受け止めてくれた。リタが体勢を立て直したのを確かめると、なにも言わずに手を引っこめた。リタも、なんとなく黙ったままでいた。ふたりは背中を合わせながら、幻想的な花の舞を見上げた。

 

リタは、自分の胸のうちに、先ほどもおぼえた不思議な熱が満ちているのを感じた。精霊術を成功させた興奮がまださめないのかもしれない。精霊の力を借りるということ。月の陰った樹の下にたたずんでいたときは、何かを連れ去ってしまうようにただ大きくおそろしく見えた樹が、今はとても近く親しいもののように思えた。

背中のほうに手をのばし、レイヴンの羽織の裾をきゅっとつかんでみた。レイヴンは少し身じろぎしたが、なにも言わずそのままでいた。足元から花びらの敷かれた地面に、背中合わせのふたりの影が伸びていた。それがまるで少しおかしな形をした樹のように見えて、リタはそっと口もとに微笑みを浮かべた。たしかに今、ふたりは樹の一部だった。しっかりと地に立ち、空を見上げている。

「変わらぬ、愛を……」

それはどこかで聞いた、この樹の花言葉だった。背中の温もりがかすかに身じろぐ。初めから答えは決まっていたのだと思った。それにたどり着くのに少し時間がかかっただけだ。つかんでいた羽織の裾を、くっとこちらに引き寄せる。

「おっさん」

「ん、なに?」

「あたし、あんたの家に行くわ」

すう、と胸の奥まで息を吸いこむ。さわやかで甘い、花の香りがした。

 


あとがき

 

『背中合わせ』というお題からいろいろ考えて思いついた話です。

ハルルの樹は、おっさんと心臓魔導器が出会う以前に有機体と魔導器が結びついた例なので、両者には通じるものが多いのではないかとよく考えています。そしてリタっちならその可能性に辿り着くのではないかと。もう少しその辺はまた掘り下げてみたいです。

 

おっさんとリタっちは背中合わせの関係が似合いますよね。向いている方向は違うけれど、確かにそこにいることが分かる、というような。一緒に戦う話もこの話で初めて書いたような気がします。戦闘相性がいいところもよきですね。

 

ありがとうございました。