掻き傷

シュヴァーン任命前くらいのアレダミュです。


かすかな光が瞼の外側でひらめき、夜が明けたのだと気づいた。ぼうっと宙を見つめ、窓のほうを向くこともなく、ダミュロンはじっとしていた。夜か朝かなど、いまや、外が明るいか暗いかの違いでしかなかった。

ノックの音が扉から響き、それ以外にも違いがあったことを思い出す。夜が明ければ人は動く。生きている人間の気配が城じゅうに立ちこめる。ダミュロンは目を閉じ息を詰めて、ノックの音を無視した。やがて、扉の前から気配は消え去った。それも一時のことなのだろう。この世界は自分を捨て置いてくれない。地獄のような虚無へ放り出しながら。

 

「具合はどうだ」

低い声が唐突に降り、意識が覚醒した。部屋の明るさが先ほどより一段増しているような気がした。陽が高くなったのだろう。枕元に座っているのは騎士団長アレクセイだった。鎧を身につけず、灰色の平服をまとっていた。

「起き上がるのがつらいなら、そのままでいい」

反射的に身を起こそうとしたのを、手で制される。騎士団長の前でこのような姿を晒すのは、一介の騎士にとって恥ずべきことであると思われた。けれどそんな“一介の騎士”はどこにもいなかった。

——なぜこの人は死体に話しかけているのだろう?

不思議に思った。実際に、背がじくりと痛んでもう自力で起き上がることは難しそうだった。

「君の心臓の様子を確かめようと思ってな、君はそのままでいるだけでいい」

アレクセイの手が伸びて、胸元を長い指が暴く。ボタンがひとつひとつ外され、掻き傷だらけの包帯を解かれ、赤く光る異形の臓器が露出する。ダミュロンは、胸におぞましい形の機構が埋め込まれているだけでなく、それが自分の生命を蘇らせ留めているのだということが、恐ろしく忌々しかった。

「やはり包帯をきつく巻いていて正解だった」

アレクセイは淡々と、しかし少し悲しそうに呟いた。ダミュロンの割れた爪は少しだけ形を取り戻しはじめたところだったが、包帯の白い欠片が皮膚とのすき間にところどころ詰まっていた。

手のひらがぺたりと、赤い中心部に当てられる。触れられているという感覚はなかったが、そうされると居たたまれない心地がした。そこになにも“ない”ことを思い知らされるのだ。

「正しい音だ、心配ない」

そう言うともう一度表面をひと撫でして、手を離そうとする。その手を、両手で強く押さえつけた。

「どうした」

「……痒いんですよ」

「痒い?」

「掻いてくれませんか」

なぜそんなことを口に出して頼んだのか分からなかった。けれどダミュロンの両手はアレクセイの手を握りこんで離さなかった。

「君の胸元は傷だらけだ、これ以上は」

「だから余計に、痒くて気が狂いそうなんです、自分ではどうにもできないし」

ちらりと寝台横のテーブルに置かれた包帯を見やる。アレクセイは少し眉をひそめ、少し遠くに視線を投げかけ、静かに息をついた。

「それが君の望みならば、そうしよう」

長く骨張った指がすっと伸びて、硬い爪が肌に突き立てられた。がり、と音がすると同時に、ぴりぴりと頭が痺れる。アレクセイの動きは丹念だった。曲がりくねった飾りのすき間にも爪が這い、傷痕の周りを磨くように掻いていく。ダミュロンは自分が手入れを施される人形のように思えた。もともと彼がこれを埋め込んだのは人形を作り出すためではないのか。このようなおぞましい姿に仕立て上げてまで彼は自分に何を望むのか。

アレクセイの顔がふいに近づいたかと思うと、埋め込まれた機構のすぐ上、鎖骨の少し下あたりに、強い衝撃を感じた。歯を当てられたのだと気づいた。噛まれたあとはじんじんと痛みを発した。アレクセイの頭はだんだんと上へ移動し、鎖骨のあいだに、首元に、首筋に、噛み跡を残していく。反射的にアレクセイの銀髪をつかみ、動揺に震えた。髪がぱらりと降り落ち、そのくらいごく近い距離に迫られていたことに気づく。

「……あの、アレクセ、閣下、これは」

何を言えばいいのかわからなかった。制したいのか、問いたいのか、それとも。

「君は、痒みも痛みも感じ取れるのだ」

アレクセイは、ダミュロンがさしはさんだ言葉をまったく意に介していないように見えた。両手がゆっくりと音もなく動き、顔の左右にそれぞれ置かれる。白く整った男の顔が眼前にあった。

「君の存在が、私の望みなのだ」

耳に流しこまれた言葉がじわりと滲み、毒薬のように鈍い痛みを与える。全身が重い鉛のようだった。茫然と横たわったままの男の肩に手を添えて、羽がふれるように唇を合わせた。だんだん、深く侵入するようにふれられ、頭がぼやけていく。なおも、低い声は言い聞かせるようにささやく。

「君は、私の————」

意識はかすみ、言葉は届く前にほどけていく。ただ、掻かれ噛まれた箇所は熱く、どこもかしこもだくだくと血を流しているように、いつまでも疼きつづけていた。