雪解けの光

精霊術の手がかりを探すためオルニオンに滞在していたリタは、突然の雪に見舞われる。

旅の終わりから半年ほど、ある気がかりをずっと持ち続けたままで。

レイリタ季節のこよみ祭2020への投稿作品です。


 オルニオンに雪が降った。

 街の人々はこぞって薪を集め、炎を焚き、厚い布を貸しあった。湯を用意し、温かい食事をたくさん作った。吹雪が強くなったときは、屋内に入るようにと呼びかけあった。

 薄い鼠色にぼんやりと曇った空を、リタは宿屋の窓から眺めていた。滞在から一週間が経っていたが、ここに来て天候によって計画を狂わされるとは予想していなかった。ヒピオニア北東にそびえる山から冷たい風が吹き降りると、この街はたびたび雪に見舞われることを忘れていた。

 宿屋の裏手にはギルド凛々の明星の拠点がある。今は皆出払っていて誰もいないが、拠点の一部を宿の部屋には置ききれない資料の置き場所に使わせてもらっている。窓から見る限り、吹雪がおさまるまで取りに行くのは難しそうだった。当然外の調査もできない。外出しようとしたなら間違いなく宿の入り口で引き止められるだろう。

「仕方ないわね……」

 ベッドの下に座り込み、積み上がった資料を整理することにした。ハルルの仮設研究所から持ってこられたものはさほど多くない。精霊術の手がかりを探るため、参考になりそうなものを厳選してきた。オルニオンが建てられたこのヒピオニア東部には、昔人が住んでいた形跡があった。今も街の中心部に希望の象徴としてそびえている、結界魔導器の巨大さから推測すると、かなり大きな街が栄えていた可能性がある、リタはそう考えていた。そんな街が滅びたとすれば、その経緯や原因に何か手がかりがあるかもしれないと思い、オルニオンを拠点に調査を行っていた。

「入ってもいいかしら?」

 ノックの音がして顔を上げる。穏やかな女性の声が聞こえた。

「いいわよ」

 返事をすると、扉からトレイを持った宿の女主人が顔をのぞかせる。トレイの上にはほかほかと湯気をたてたスープが乗っていた。サイドテーブルに本が積み上がっていたのに気づいて慌てて下ろすと、女主人は笑ってスープの皿をそこに置いた。

「これ、お客さんにサービスで配ってるの。ほら、この吹雪で外に出られない人が多いから」

 リタと同じように、宿には足止めされている人がそれなりに滞在しているようだった。リタはここまでジュディスとバウルに送ってもらったが、旅や遠征の計画を立てていた人は移動手段の確保にきっと困っているに違いなかった。

「そんなに多いの? 大変ね」

「そうね、でも騎士団の人が料理とか手伝ってくれてるから、大丈夫よ」

「そんなことまでやってくれるわけ?」

「そうよね、大助かりだわ」

 女主人は空いたトレイをぱたぱたと振った。

「何か困ったことがあったらいつでも言いに来てちょうだいね」

「ありがとう、助かるわ」

 扉が閉まって、慌ただしい足音が遠ざかっていく。スープに口をつけると、ほうと体があたたまる。どこか懐かしくやさしい味に、胸の奥から深い息を吐く。温かいものを食べると、旅のことを思い出す。食べたことがないものも、嫌いなものも、初めて食べた。作ったことがないものも、初めて食べてもらった。さっき乱雑に床へ下ろした本につま先が当たり、そのタイトルをながめる。すべて魔導学にまつわるものの中で、一番上に置いてあったのは新しい医学書だった。

「……置いてくればよかった」

 調査にはいっさい関係がないものなのに、気がつけば鞄に入れていた。部屋でふとしたときに開いては、印をつけていた。リタがこの本を手にとるきっかけになった男とは、もう長い間会っていないのに。

――絶対ひと月に一回は来なさいよ。

 旅が終わってから言いつけたことだった。そんな約束が初めから守られるとは思っていなかったが、ふた月経っても本当に来なかった。業を煮やして帝都の騎士団本部やダングレストのユニオン本部に出かけていったこともあったが、いつもあの男は都合よくいなかった。そうしている間にまたひと月経って、調査の件が決まった。オルニオンに滞在している間にハルルを訪ねてきたら、と考えはしたが、今まで何の便りも寄越さずに、そんな可能性はないだろうとも思っていた。それに凜々の明星のメンバーはリタの調査の件を知っているのだから、あの男ならどこかから耳に入れるだろう。

 リタは本の束を持ち上げ他の資料の上に置いて、ごろりとベッドに寝転がった。嫌なことを考えたせいか、急に体が重くなったように感じられた。外は雪で煙って何も見えない。寒い寒いと騒いでいた声がよみがえり、天井をにらむ。

「バカ」

 スープがまだ残っていたことを思い出し、体を半分だけ起こして飲みほした。少し冷めていたが、それでも美味しく感じられた。

――一人暮らしに戻っても、ちゃんと食べなきゃダメよ。

 うるさい、と呟く。記憶の中で、へらりとした笑みが揺れた。

 

 

 

 追いかけても追いかけても、それは手の中をするりと過ぎていった。

 そのうちなぜ追いかけているのかわからなくなった。

 白い世界の中で立ちすくみ、リタは自分の手の中を見つめた。

 ずっと身につけていたチョーカーから、光が舞い上がっていく。

 悲しくはなかった。

 体の一部を失ったと、そう思っただけで。

 

 

 

 しばらく眠っていた。気がつけば風の音がやんでいて、外はいくらか明るくなっていた。身を起こして窓に近づくと、まだ雪は降り続いているようだったが、勢いは少し落ち着いているように見えた。これ以上時間を無駄にしないためにもと、身支度を整えはじめた。眠りは浅く、まだ頭がふらふらとしていた。魔導士仲間から贈られた橙の装束に腕を通して、鏡の前に立つ。少しだけ気が引き締まる。

「あれ……」

 ふと、目の端に鮮やかな色が映った気がして、窓の外に目を向ける。光を眩しく感じているせいだろうかと、何度かまばたきを繰り返す。白くかすんだ街の向こうに、紫色がよぎる。腰に巻きつけようとしていたポーチがするりと床に落ちる。

「うそ」

 考えるより先に体が動いていた。部屋を勢いよく飛び出し、宿の扉を体当たりするように開けて外に転がり出る。こんな偶然があるはずがない。見間違いに決まっている。宿から見えたのは街の中心部のあたりだった。雪に靴が埋まって、うまく走れないのがもどかしかった。結界魔導器の広場までなんとか行き着いて、辺りを見回す。

「こっちに運べー」

「気をつけて持てよ!」

 街の奥の方へ、数人の男たちが声をかけあいながら資材や荷物を運んでいく。その中に明るい紫の布がかけられたものがあった。濡れないようにしているのだ。リタはそれを見送ったあと、よろよろとそばにあった結界魔導器にもたれかかった。冷たくて硬くて、少し雪で覆われていた。前髪に、額に、つめたさが染みる。そんな都合のよいことなんてあるわけがないとわかっていた。わかっていても、体は反射的に動いた。それが悔しくて、唇を噛んだ。こんな風に振り回されていることも知らず、いまごろどこかの街で女と酒でも飲んでいるのだろうか。

「……みっともないところ見せたわね、マリア」

 かつて尊敬と慈愛をこめてそう名付けた、その偉容を見上げる。そんな風に過ごしていたとしても、リタが何かを言える立場ではない。むしろそれくらい元気ならリタのところに来ないのも納得できる。ただ一言くらい、なにか知らせてほしかった。ずっと、ちゃんと怒ることもすっぱり諦めることもできない。

 旅のあいだ、無理やりだったが心臓魔導器には何度か触れた。その機構はこれまで見てきた魔導器と比較にならないくらい複雑で、リタが得てきた魔導の知識だけでは不十分だとすぐに分かった。きょうだいのようにいつも一緒にいた魔導器たちと、それはあまりにも違っていて、異質で、特別だった。けれど、どうしようもないほどに同じだった。名前のつけられない、世界にたった一つ残された光。

「……レイヴン」

 その光だけは、空に飛んでいかなかった。今もこの地上にある。それだけで十分だった。“マリア”の表面に触れ、そっと雪を払う。古びた傷を見つけて、指でなぞる。やるべきことをやらなければならない。こんな気持ちを抱えたままでも、空は移り変わり、時は動いていく。くるりと踵を返して歩きだそうとして、リタは目を見開いた。

「え」

 新しい葉のような鮮やかな緑が、雪の中に立っていた。呆然とその姿を見つめる。いつ以来に見る顔か、何度も思い描いた笑みが、へらっと動く。

「呼んだ?」

「誰が」

「リタっちがさ」

「いつ呼んだのよ」

「いま、さっき」

 思い切り顔をしかめる。――ずっと呼んでも来なかったくせに。勢いで叫びたくなって、何も言えなくて、拳を握りしめた。

「なんで、ここにいるのよ」

 よく見れば、レイヴンの服は帝国から贈られたものだった。いつか着ているのを見た覚えがあった。

「騎士団の任務でさ、オルニオンは重要拠点だから、様子見に」

「……ふうん」

「隊服を着るのはやだって言ったら、ルブランがせめてこれ着てくれって頼んできたもんだから」

 袖をひらひらと揺らして、苦笑いする。

「リタっちがいきなり飛び出していったから、びっくりしたわ」

「飛び出してって……あんたどこから見てたの」

「宿の厨房にいたんだけど、なんかすごい音して何かと思ったらリタっちらしい影が雪の中に消えてくし、追っかけてきたのよ」

「厨房……まさか、料理手伝ってたっていう騎士団の奴、あんたなの?」

 レイヴンはいたずらが成功した子どものようににっと笑った。

「スープ、食べてくれた?」

 やさしくてどこか懐かしい味に、ほっとあたたかい気持ちになったことを思い出して奥歯を噛みしめる。旅の途中、夜中によく差し入れられたものと似ていたのだ。

「……あんたと無駄話してる暇なんてないの、こっちは調査で来てるんだから、じゃあね」

 背を向け、足早に街の奥に歩き出す。と、腕を強く掴まれて、ぐらりとバランスを崩す。

「あっ」

 レイヴンの胸に倒れ込む。つめたい外気の中ではっきりと温もりを感じて、その瞬間、とても泣きたくなった。

「ご、ごめん、強く引っぱりすぎたわ」

 レイヴンの支えで姿勢を戻す。それでも、腕は掴まれたままだった。

「なによ……離して」

「ごめん」

「……なにが」

「さっき言ったの嘘、本当はさ、リタっちに会いにきた」

 じっと見つめられて、指先さえ動かせなくなる。

「嘘つかないで」

「まあ、任務もあるんだけど」

「うそつき」

「その服、似合ってんね、雪の中でもすぐ見つかったし」

 唐突にそんなことを言い出す。掴まれたままの橙の腕を見やると、ゆっくり力をゆるめて、そっと離された。

「あんたは似合ってないわよ、それ」

「厳しいお言葉……」

「あたしは見つけられなかった」

 一緒に短くない時間を過ごしたのに、今は目の前にたしかにいるのに、会いたいと思ったときには会えなかった。探しにいっても見つけられなかった。

「今さら、会いに来たってなんなのよ、ばかにしないで」

「そうね……大馬鹿者だわ、思いきり殴ってよ」

「あんたを殴るのに使う力がもったいない」

「そっか」

 だんだんと、怒る気力も、走ってここから去る気力もなくなってきた。こうやっていつも調子を乱されて引き込まれるのが、悔しくてひどく懐かしかった。

「一度でもリタっちに会いにいったらさ、もう後戻りできない気がして、こわくてさ」

「なによ、あたしが取って食うみたいな言い方」

 レイヴンはくくっと笑って、自分の胸に手袋で包まれた手を当てた。

「コレだけあげられるならそうしたかったけど、そういうわけにもいかないし」

「あたしは……!」

 一歩前に詰め寄ったリタを制するように、レイヴンが静かにうなずく。

「うん、リタっちが本当に俺の身を案じてくれてるのはわかってた、けど、それを真正面から受け止めちゃったら、もう引き返せなくなるって」

 だからさ、とレイヴンは続ける。

「ちゃんと覚悟できるまで、顔合わせにくくて、逃げてたんだわ」

「……あんたが何もされたくないって言うなら、その子はあんたのものなんだから、好きにしたらいいわ、あたしが無理強いできることじゃない」

「うん、だから、リタっちのものにしてよ、コレ」

 耳を疑った。けろりとした顔で笑っている。

「これも、きっとそうしたいって思ってる」

「ふ……ふざけないでよ、それはあんたのもので、あんたの命で、あたしのものなんかにできるわけないでしょ……!」

「あー……うん、言い方が悪かったわな、そう、何が言いたいかっていうと、そうね、まあ……」

「急にうだうだと、なんなのよ」

 レイヴンは視線をうろうろとさまよわせて、迷ったように、リタの両手を自分の両手で包んで、おずおずと握った。

「一緒に住まない?」

「……は?」

 ぽかんと、リタはわけがわからずにレイヴンを見上げる。

「いや、ごめん、何言ってんだろな、あー、ごめん、いきなり何言ってんだって感じよね、ちょっとね、いやー……」

 おろおろ同じような言葉を繰り返すレイヴンを見て、いろいろな気持ちがごちゃ混ぜにこみ上げて、いっぱいになる。ずっと会いに来ないで突然ふいに現われて、わけの分からないことばかり言って、挙げ句の果てに一人であわてている。腹立たしくて、おかしくて、そんな気持ちにさせられることが、どうしようもなく好きということなのだと気づいた。会いたくて話したくて、笑いかけてほしくて生きていてほしかった。雪がとけて水になるように、それはすっと胸の奥にすべりおちて、体の一部になった。

「……無理ね、そんなの」

「あ……ま、まあそうよね、ごめん、忘れ……」

「新アスピオの建造もあるし、精霊術の確立だって程遠いし、そもそもこの調査だってまだ終わってないし」

 リタは、握り合わさった二人の両手に、ごつんと額をぶつけた。

「それからなら、考えてもいいわ」

 レイヴンがどんな表情をしてるのかは見えなかった。冷えた額に温もりがしみていくのを感じながら、自分よりずいぶん大きな靴元におちて消えていく雪片だけを見ていた。それがだんだんまばらになっていき、ほうと体があたたかくなる。

「あ……」

 雲が切れて、“マリア”のはるか向こうからやわらかな光が射す。雪がやんだのだ。どこかで喜びの歓声が上がる。

「ようやく、晴れたわね」

「うん……雪がきらきらしてる」

 一面の白に星が散ったように、眩しくきらめく。そのうつくしさに思わず目を細める。ただの光の反射だとわかっていても。

「えっと……じゃあさ、お詫びの手始めに、リタっちの調査でも手伝わせてもらおっかな」

「その前に、魔導器診るに決まってるでしょ」

「あー、やっぱりそうなる?」

「ほら、行くわよ」

 レイヴンの手をしっかりつかむ。きらめく白にざくざくと靴跡を残していく。どこかで誰かが街の名前を叫ぶ。喜びを天に伝えるように、声が重なる。雪解けを寿ぐその意味を思い出して、ひときわ視界があかるくなった気がした。そのことを、あとでレイヴンに話してみようと思った。これまでの思い出話と、積もり積もった文句と、これからの話と一緒に。