氷霜の標

本編ED後、ザウデ不落宮に調査に行くリタとレイヴンの話です。

ぼんやりアレシュ前提です。


 水の流れる音がそこかしこから聞こえる。カツンカツンと歩くたびに自分の靴音が反響するので、葉っぱでも巻いておくべきだったかと後悔する。魔物よけにホーリィボトルを用意してきてはいたが、魔物が寄ってこなくても誰もいない回廊に一人いることを思い知らされると、リタの背中が少し寒くなった。

「ここはもう、動かないのね」

 なんの反応も見せない石の塊になった装置にぺたりと手を当てる。撫でればひんやりと硬く、静かに沈黙を守り眠っているように思えた。ザウデ不落宮のほとんどは同じように動きを止めている。ひとつひとつ辿りながらリタは奥へ歩いていった。まだ昼の光が透き通って射して、ぼんやりと明るいので平静を保っていられた。

「あ、いたいた!」

 静けさを聞き慣れた声がぱっと破る。ぱたぱたと足音が近づいてきて、リタの姿を認めた人影はぶんぶんと手を振る。

「おっさん、なんでここに」

「リタっちったらひどい、調査行くなら連れてってって言ったのに一人で行っちゃって……やっと追いついたわー」

 レイヴンは屈みながらぜいぜいと息をつく。ちらりと見る限りそんなに汗はかいていないようだった。最近の調査にはたいていレイヴンが同行していた。レイヴンはリタの調査中べつになにをするわけでもなく、ただなんとなく近くをうろついているだけだった。けれどふいに魔物が現われたときリタが気づく前に対処してくれるのは助かるし、暗い遺跡に潜るときに話し相手がいるのは気が紛れた。

「今回はあたし一人でも十分だと思っただけよ」

「その油断が命取りになるかもしれないでしょ、リタっちは夢中になると視界狭くなるし」

「な、なによ……あたしが周囲に気も配れないってこと?」

「一点集中! って感じでしょーよ」

「バカ言わないで、あたしだって一人で調査くらいできるわ」

 レイヴンに背を向けてすたすたと歩き出す。今までは何の気なしに同行を頼んでいたが、今回はできなかった。調査に行くことを知らせもしなかった。

「まったく強情なんだから」

 ひょこひょこと着いてくる気配に顔をしかめつつ、リタはそのまま歩いていく。今更追い払うこともできない。最奥の長い回廊を抜けて、扉に手をかける。重い音とともに濁流の音が耳に流れ込んでくる。薄碧の水流の中にただずむように床が伸びている。思わず立ち止まる。振り向くことができなかった。この場所にレイヴンを連れて来たくなかった。

「……すんごい音だねえ」

 レイヴンはリタより先にゆっくりと奥の足場へ歩いていく。ぐるりと周囲を眺めるように見渡して、ほうと長く息を吐いた。

「ちゃんと整備すればいい観光名所になりそうじゃない?」

「よく知りもしない奴らに荒らされるのはいやよ」

「まあ仮にも古代の遺跡だしねえ」

 リタたちの立っている足場の近くの水面は穏やかだが、少し遠くに目をやれば激しい水の流れが荒波を立てて踊っている。厳かだけれど恐ろしい場所だと、リタはここに来るたび身が引き締まるような思いがする。本来はこの時代に現われてはいけなかったもので、けれどいずれは出会わなければならなかったもの。

「あ……」

 レイヴンがふっと遠くの一点を見て目を見開く。リタもその視線を追う。どこもかしこも同じようにざあざあと水が流れ落ちていた。コン、と靴底が床を叩く音がして、隣に立っていた影がふっと動く。ゆらりと、嘘みたいな軽さでふわりと体が傾いで水面に吸い込まれていく。リタはとっさに手を伸ばした。どこを掴もうとか考える暇もなく、ただひっかくようにすると羽織の感触が手に触れた。ぎゅっと力を込めれば、リタの視界が紫でいっぱいになる。次の瞬間には派手にどぶんと弾ける音とともに水中に呑み込まれていた。

 

 視界がぼやけていた。突然のことにゴーグルを装着しようという考えも浮かばなかった。ただ手足をばたつかせて、上に浮かぼうと手を伸ばす。掴んでいた羽織はそこになかった。どこからか迫る水流になにも自由にならない。名前を呼ぼうにも声は泡となってかき消される。必死に流れにあらがう。もがいた指の先にぼんやりと、大きな影が現われる。見覚えのある姿が、誰かを抱きかかえていた。

「いや……」

 最後に見たときと同じ赤い鎧を身につけていた。元騎士団長アレクセイの腕の中には、ぐったりと力なく手足を投げ出したレイヴンがいた。深く眠っているようにその場所におさまっている。揺らぐ水中にそびえるように浮かぶアレクセイの影は、リタを色のない眼差しでじっと見つめている。

「やめて! 連れて行かないで!」

 喉が引きちぎれそうなほどに叫ぶ。水が勢いよく口内に流れ込んでくる。頭がくらりと揺らいだ。あともう少しで届くのに、ふうっと意識が遠のいていく。――ついて来させるんじゃなかった。破裂しそうな後悔に泣いているのか、溺れそうに苦しいのか分からなかった。ずきずきとした痛みが体をまっぷたつにしていくようだった。海をぼんやりと眺めるレイヴンの姿が脳裏によぎる。呼ぶとあいまいに笑った。

――守りたかったのに。

 低く、かすかに呟くような声が意識の端で聞こえた。

 

 

 

「……ち、リタっち!!」

 頬を軽くたたく衝撃でゆっくり目を開ける。心配そうな顔のレイヴンが視界いっぱいにのぞき込んでいた。

「あれ……」

「大丈夫? おっさんのことわかる?」

「おっさん……」

「うん、おっさんよ」

「あたしたち、無事だったの……?」

 記憶がおぼろげだった。レイヴンも不思議そうに首をかしげて、とりあえず頷いてみせる。ザウデ不落宮に調査に来て、うっかり足をすべらせて水に落ちたところまでは覚えている。レイヴンと二人で落ちるなんてあまりにも馬鹿げた失態だ。

「リタっち……見て」

 レイヴンに背中を支えられてゆっくりと抱き起こされる。ここに足を踏み入れたときより空気がひんやりとしている気がした。そして何の音もしない。しんと静まりかえった周囲を見回せば、流れ落ちていたはずの水がすべて凍り付いていた。鈍い光を放つ氷から視線が離せないまま、レイヴンの腕をぎゅっとつかむ。リタの背中に添えられた手のひらに少しだけ力がこもる。そのまま、しばらく氷原の中心から動かずにいた。座り込んだ床は冷たかったが、つるりと乾いていて、一滴の水も残されてはいなかった。