迷い人

バクティオンに来たレイリタの話です。


無心に歩いていた。ただずっと同じところを回っているような気がした。こんなにひんやりとした空気に満ちているのに、嫌な汗が背を伝う。作った地図によれば確実に進んでいるはずなのに、目に見える光景は変わらないことが焦りを掻き立てた。

——きっとこの先にいるはずだ。

一瞬でも余所見をしたのがいけなかった。バクティオンの調査に行きたい、そう言い出したリタの護衛にとわざわざ付いてきたのに。壁の飾りに近づこうとしたリタは、下階への隙間に足をすべらせするりと落ちたのだ。

「リタっち!?」

すぐに自分も同じところに飛び込もうとしたが、存外小さな隙間で、体を全部通すのは無理そうだった。隙間から名前を何度呼んでも声は返ってこない。直後、体がひとりでに走り出していた。階段がどちらか、覚えているはずもないのに。

運良く階段の部屋に行き当たって夢中で段差を飛び降りて、ようやく冷静になった。広い部屋に切れた息が反響していた。入り口をくぐったのがもうずいぶん前のことのように思える。四角い部屋の真ん中でしばし放心しかけて、ようやく地図を取り出したのだった。

落ちた先と思われる部屋にリタはいなかった。となれば、おそらく最奥近くにいるはずだった。根拠はないが、一番足を向けやすい場所といえばそこだろうと思った。参る者の無くなった神殿の参道にあたる部屋は冷ややかに澄みきっており、厳かで整然としていた。迷い込んだ者を律し正す空気があった。そういう類のものは苦手だった。現に呼吸の間隔が狭まっていた。胸に手を当てる。前に訪れたときはそのようなことはなかったが、深部に向かうほど空気が薄くなるのだろうか。むしろ、満ちている気のようなものはどんどん濃くなっている気がした。

——早く、リタっちを見つけないと。

もし落ちたときに怪我でもしていたら。その場にとどまっていればよかったのに。それでも動くところがあの子らしさといったところか。

長い長い廊下を抜けて、奥の部屋に進む。さらに奥へと続く口は、石の塊が隙間なく詰まっていた。脱出を果たしたとき以来来るのは初めてだったが、最奥の部屋以外がよく無事だったものだと思った。石の欠片がぱらぱらと散らばる薄暗い部屋を見渡す。リタはどこにもいなかった。

一気に思考が凍りつく。必死にそれに抗おうとする。だが下がり始めた温度は止まることがなかった。明らかに平常状態ではなかった。ぐ、と呻きが漏れる。胸のあたりをぎゅっと強く押さえる。硬い床に膝をつく。こんなところで立ち往生している暇はない、一刻も早く引き返してリタを探さねば。汗がぽたりぽたりと落ちる。頭の中に声と不協和音が響く。何かが崩れる音。空気を揺るがす叫び声。胸を引き裂くような泣き声。

——あんたなんて……大っ嫌いよ……!!

 

気がつけば、頭を抱きとめられていた。やわらかな温もりに包まれていた。

「息を吸って」

温かいものがそう語りかける。

「そのまま4つ数えたら、吐いて、そう」

背中に当てられた手に導かれるように、ゆっくりと呼吸をくり返した。だんだん意識が鮮明になってくる。

「……リタ……っち……」

「ごめん、あたしがヘマしたから」

リタは、そのままの姿勢でそう詫びた。

「いや……どう見ても……俺のヘマのほうが、デカいでしょ……怪我は……?」

「大丈夫、なんともないわ、それに、あんたをここまで来させるべきじゃなかった」

どうやら軽い錯乱状態になっていたようだった。魔物に追いかけられていたわけでもないのに、どうかしている。

「リタっちが……絶対にここにいるって、なんとなく思って……早く無事を確かめたくって……それで、ここまで夢中で来たから……」

「人間、あるはずのところにない、とか、強く思い込んでた当てが外れると、一瞬思考が停滞するのはよくあることだから」

「でも、さすがにこんな風になるのはさあ……」

いまだに弱い力しか入らない体を壁に寄りかからせて、リタはふっと笑った。

「なんだって、無事でよかったわ」

本当は、こっちが見つけ出して、そう言うべきだったのに。どうしてこうなってしまうのか。指先に石の欠片がざり、と触れる。その手を持ち上げて、肩に触れた。もう片方の手で、背中を引き寄せた。温かくて、人間のかたちをしていた。満たされるのを感じた。無様に救われた命は、永らえるのさえこうも無様なのだろうか。

「ね、もう、嫌い、とか……言わない?」

そう言った途端、リタは腕の中でじたばたと身じろいだ。

「い、い……言わない、ていうか、言ってない!」

見ていなくても、顔が赤く染まっているのが分かった。それでも、リタは腕の中から抜け出さずにいてくれた。

「よかった」

空気の重苦しさは少しだけ緩まっていた。リタの手にしたランタンが帰り道を照らす。あるはずのなかった道はまだ続くようだった。閉ざされた深みの上を踏みしめて。