窓の外で花がはらはらと風に流れていた。それをしばらくぼんやりと眺めて、手が止まっていたことに気付く。満開になったばかりのハルルの花は、その鮮やかさがこの机からもよく見える。
物語を綴ることは、紙の上につぎつぎとこぼれる想像の欠片を一つ一つ並べていくようなものだ、と実際に形にするようになってから思った。本を読んで続きを考えてみたり、花びらを見て想像をふくらませてみたりするのと違って、実際に筆を握って形にしようとしてみると、いったい何から書いたらよいものかと悩んでしまう。
「いけない」
書きかけの物語が記された紙が、ふうわりと机から浮き上がるのを、とっさに押さえる。すこしだけ開いていた窓から風が吹き込んできたようだった。かすかにしめった匂いがする。一雨くるかもしれない。机の上の道具を片付け、出かける用意をすることにした。集中が途切れていたし、ちょうど良かったかもしれない。部屋を出て、すぐ隣の部屋のドアをノックした。
「リタ、今日はもしかしたら夕方雨になるかもしれませんから、今のうちに一緒に買い物に出かけませんか?」
返事がない。もう一度ノックをする。集中しているのか、寝ているのか、もし倒れでもしていたら大変だ。焦ってドアノブを握った。途端、本が崩れる音や紙がバサバサと落ちる音、何か硬いものがドスンと床に叩きつけられた音がした。驚いて固まっていると、音が鳴りやんだ部屋から、のっそりとリタが出てきた。少し目が赤い。
「もうリタ、根つめすぎはいけませんって言ってるじゃないですか。出かける前にちゃんと顔を洗って、髪をとかしましょう」
ぼうっとしたままのリタを居間のソファに連れていき、鏡台の引き出しから櫛(くし)をとりだす。
「うーん……もう昼過ぎ? ごめんエステル、ずっとこもりきりで」
隣に座り髪をとかしていると、こちらに背を向けたリタが気の抜けた声で言う。
「いいんです。でも無理はよくないことですから、時々は休憩をいれないと」
リタの髪はところどころ毛先が焦げていて、また無茶な実験を試したのだろうかと思ったが、口には出さないでおく。絡まった毛を傷めないよう、指と櫛(くし)で丁寧にほどいていく。
リタがいったん集中してしまうと周りが見えないのは以前からだったが、近ごろ、そんな様子を見ると妙に不安に駆られてしまう自分がいた。リタが研究用の自室のドアを閉めて、姿が見えなくなってしまえば、もうそこから帰ってこないかもしれない。わたしは、どこかでそんなことをずっと怖がっていた。
「さあ、髪もきれいにできました。出かけましょう」
髪を整えたリタは、落ち着かないというようにそわそわと首を振って、先の焦げた髪を一房指に巻きつけた。
昼下がりのハルルの街は、買い出しに来た人や道端で話し込む人で賑わっていた。そして以前からの住人に加え、ローブを着た研究員があちこちを行き交っている。二年前、崩壊したアスピオから避難してきた人々がこの町にはたくさん滞在していたため、そのままここが正式に研究員の仮本拠地になったのだった。リタもハルルを仮の本拠地としている研究員の一人だ。
「この時間、さわがしいわね」
リタは眉をひそめて通りを見渡している。
「ちょうど人の多い時間に来てしまいましたね」
魔導器を失い、生活が激変した直後、各地の混乱ぶりはすさまじいものだった。小さな暴動が起きたこともあった。それからさまざまな変化を経て、人々は新たな生活の形を探そうとしている。副帝として人々の声を聞く立場から、そしてわたし個人としても、こうして皆がいきいきと生活を送っているさまを見るのは嬉しいことだった。
「エステル、なんか嬉しそうね」
「ふふ、活気のある様子を見るのはやっぱり嬉しくて」
「まあ、まだまだ課題は山積みだけど、みんな辛気くさい顔してるよりはいいわよね」
リタと一緒に暮らし始めてからは、週に何度か『レグルス』まで一緒に買い物に来るのが習慣だった。今日の献立の食材、足りない日用品、それらをあれこれ話し合いながら買うという作業が、一緒に生活をしていると感じられて好きだった。
「リタ、今日何か食べたいものはありますか?」
「食べたいもの……そうね……」
きょろきょろと生鮮食品の並ぶエリアに目を向ける。今日は週に一度の青空市場の日だった。道端のシートの上に並んだたくさんの食材を眺めながらわたしたちは行ったり来たりとする。
「べつになんでもいいわ」
リタが立ち止まって、あきらめたように答える。もともと食事に対しては特に執着のないリタだが、なんでもいいと言うのはたいてい疲れているときだ。
「じゃあ、リタの好きな物にしましょう。からあげとかコロッケもいいですね、デザートもつけて」
指を立てながら献立の名前を挙げる。それならチキンかポーク、それから果物を。と売り場を見回していたら、突然シートの向こうから話しかけられた。
「お嬢さん方、活きのいいサバが入ってるよ! 今晩のおかずにぜひ、買ってってちょうだいな!」
押しの強い女性の売り込みに、あいまいに笑いながら隣を見る。リタは呆けたような顔で、しかしその指し示す先を見つめていた。青くつやつやとした細長い魚が白箱の中に折り重なるように積まれている。その一点から目を離さず、人波の中で縫いとめられたかのように動かないリタは、こことは違うどこかに隔絶されている。とっさにそう感じた。
「リタ」
肩に手を置いて、小さく、はっきりと呼びかけた。すると、びくりと肩が跳ね、こちらをおずおずと見た。
「あ……」
「新鮮なサバ、おいしそうですね、買って帰りましょう」
毎度、と言って店員の人がサバを一匹包んでくれる。リタはわたしの横で、叱られた子どものような顔をして、自分の腕をぎゅっとつかんでいた。
会計を終えると、ぷらりと垂れ下がったままのリタの手をとり、早足で帰り道を急いだ。雲は厚く垂れ込み、今にも落ちてきそうだ。同じように家路を急ぐ人がいたが、だんだんと違う道へ逸れていき、坂をのぼる頃にはわたしたち二人だけになった。後ろを振り向かなかったので、リタがどんな顔をしているのかは分からなかった。わたしが手を引いている間、リタは一言も発さなかった。
門の前に着いたところで、わたしはようやくリタの手を離した。リタはまだ、どこかばつの悪そうな顔をしていた。そのとき、ちょうどつむじにぽつりと、冷たい感触が落ちた。曇り空にくすんだハルルの樹が、すぐ上からわたしたちを覆うように見下ろしていた。みるみるうちにポツポツと雨が降り出す。
「早めに帰ってこられて、よかったですね」
庇から空を見上げながら言うと、
「……うん」
リタは小さな声で返し、手のひらで雨を受け止めるように、腕を伸ばした。
食卓の上には、煮汁の色に染まってつやつやとしたサバ味噌が並んでいた。ほとんどリタが作ってくれた。わたしは野菜を少し切ったくらいだ。魚料理はあまり得意ではなかった。旅の間も作る機会はあったが、なかなか上達はせず、ジュディスやパティの腕には遠く及ばなかった。リタはというと、ずっと生魚に触ることもしなかった。他の誰かが作ったものを時々口にはしていたが、自分で調理するのはとても嫌そうにしていた。食べるためにどうしてこんな非効率なことしなくちゃいけないのよ、とよくこぼしていたのを思い出す。それはこの家で一緒に暮らし始めてからも変わらなかった。魚料理が食卓に並んだときは、きまって渋い顔をしていた。
――この美味しさが分からんとはねえ。
――わからなくていいわよ、そんなの。
かつて、そんな風だったリタの包丁さばきは、少しぎこちなかったが見事なものだった。まな板に横たわっていたサバが、みるみるうちに切り身に変わっていくのを、魔術でも見るようにぼうっと見つめてしまっていた。
「リタ、すごいです……」
「……ちょっと練習してたのよ」
「一人で、魚料理作って食べてたんです?」
「そうよ、まあ、ときどきね」
わたしが副帝の公務で帝都に行っている間は、リタが一人でこの家にいる。その間に練習していたのだろうと思った。二人とも家に揃っているときは、わたしが食事を作ることが多かったので、リタの料理の腕の上達を知ることはなかった。まさか、よりによって魚料理の練習をしていたなんて思いもよらなかった。
「リタは何か身につくのが早いんですね」
「そ、そう? べつにそんなことないと思うけど」
わたしの言葉に、少し恥ずかしそうに目を逸らした。
箸先で身をくずし、口に運ぶと、じわりと出汁の香りが広がる。少し味が濃いめだが、どこか懐かしい味をゆっくりと噛みしめる。
「美味しいです! よく味がしみて」
わたしがぱっと顔を上げて言うと、リタは俯いてじっと皿の上を見つめていた。箸先が宙に浮いている。
「……まだまだ、ね」
リタの呟いた声が空に漂い、部屋の空気に溶け消える。きっと、思い出しているものは同じだと思った。雨粒が窓を激しく叩く。その音に圧迫されるように、何も言い出せないまま、黙々とサバを口に運んだ。この料理を最後に食べたのは、確かどれくらい前のことだっただろう。四人掛けのテーブルのもう半分のスペースには花瓶が置かれ、しおれかけた赤い花が生けられていた。
「初めに出汁と一緒に煮とくと、味がしみて美味しくなるんよ」
いつの光景だろう。レイヴンは、キッチンに立ちながらこちらを振り返った。そう言われて覗きこんだフライパンからは、食欲をそそる匂いが立ちのぼっている。
「なるほど……和食は出汁の使い方が大事だと、ジュディスも言ってました」
「さっすがジュディスちゃん! わかってるわー……ところで、リタっちはどこ行っちゃったの?」
「あ、できたら呼んでって部屋に引っ込んじゃいました」
「はあ……せっかくリタっちにも魚料理の良さを教えてあげようと思ったのに」
「ふふ、なかなか根気が必要みたいですね」
ネギをぱらぱらと加えながら、やれやれとため息をつく。
「リタっち、生じゃなかったらそんなに魚も嫌いじゃないみたいだし、料理だって計量はきちんとしてるから下手じゃないでしょ」
「そうですね……ただ、わたしもそうなんですけど、“さじ加減”みたいなものがなかなか難しいみたいです。和食は特にそういうのが大事でしょう?」
「あーそういうことか……ま、嬢ちゃんがいれば、リタっちもご飯抜いて栄養とれなくなったりすることもないでしょ、安心安心」
鼻歌をうたいながら、ひょいひょいとサバを皿に盛り付けていく。一緒に煮たネギがそえられて、落ち着いた見た目ながらとても美味しそうだ。
「リタもレイヴンも、口を開けばいつもお互いのことばかり心配してるんですから」
ふたりは本当に似たもの同士なのだった。最近ふたりとよく過ごすようになって、以前よりもさらにそう思うようになった。
「リタっちは魔導器が心配なだけでしょうよ、おっさんはついでよ、ついで」
「ふふっ……本当にそうなんです?」
「……ちょっと、何? 人のいないところでひそひそ何話してんのよ」
ガチャリと自室の扉を開けて、怪訝な顔をしたリタが出てくる。
「おっ、つられて出てきたみたいね」
「いえいえ、リタはとっても可愛いというお話をしていたんです」
「へ、はあっ……?」
「あー、顔真っ赤」
「う、うっさい! ご飯できたんならさっさと呼びなさいよ……!」
三人でそれぞれの皿をテーブルに運ぶ。『幸福の市場』に融通してもらった良いライスとレイヴンの作ったサバ味噌が並べられる。わたしの右側にリタ、向かい側にレイヴンが座る。わたしの斜め前には、レイヴンの持ってきた赤い花が花瓶に生けられている。
手を合わせると、リタもレイヴンも同じようにする。いただきます、と唱える声はいつも揃わない。わたしがそれで笑ってしまうと、二人も微笑んでくれた。そんな日々が、とても、楽しくて、嬉しかった――。
水の流れる音が聞こえる。雨がまだ降りつづいているのだ。わたしは暗闇の中で目を開けた。見慣れた天井が見える。隣のベッドには、規則正しい寝息を立てながらリタが眠っていた。
あれはいつの夕食だっただろう。二年前、わたしとリタが一緒に暮らし始めてから、レイヴンは度々この家を訪れた。心臓魔導器の検診でリタに会うためだった。初めのうちは、リタに心臓を診てもらうとすぐに帰ってしまっていたのだが、そのうち食事をともにするようになり、時には泊まっていくようにもなった。
――客人用のベッドなんて、さすが嬢ちゃんの家だねえ。
部屋に備え付けられたものを見て、レイヴンはそう言っていた。ハルルに居を構えると決めたときから、いつか誰かを招いて、もてなせるような家にしたいと思っていた。かつての仲間たちや、誰が来てもくつろいでもらえるような。そのいつかの夢のために用意したものが役に立つことが嬉しかった。
リタが決めたレイヴンの検診のスケジュールは月に二度だったが、そうした所定の日程が守られないこともしばしばあった。そのたびにリタは憤慨していたが、代わりに、レイヴンは帝都方面に用事があるとき、きまってこの家を訪れるようになった。三週間も来なかったと思えば、三日おきに来ることもあったりと、間隔は不規則だったが、レイヴンが訪ねてきた日は、三人分の食材を買い出しに行き、三人で一緒に食卓を囲むのがすっかり習慣になっていた。
「……エステル?」
隣の布団がもぞもぞと動き、名前を呼ばれる。
「ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
「ううん、あたしもなんか目が覚めちゃって」
しばらく沈黙が走る。いつからか、わたしたちは言葉を交わし合うことが少し減った。それはリタの口数が少なくなったのに、わたしも合わせているからなのかもしれない。リタは、ずっとどこか上の空だった。一緒に過ごす時間はあっても、どうしてもわたしとリタの間には一枚薄い透明な板のようなものがあって、その向こう側に手が届かない。そんなもどかしさがあった。もどかしさを感じながらも、あえて深くは踏み込まずにきた。それが果たしてリタのためなのか、自分のためなのかはわからなかったが。
「……昔の夢を見ていました」
「昔?」
「はい……楽しかったな、って思って」
雨の音は、沈黙をやわらげてくれる。
「……あたしも」
「リタのは、どんな夢でした?」
「うーん……もう思い出せないわ」
暗闇の中でリタの表情は見通せなかったが、かすかに微笑んでくれたような気がした。
「……今日のサバ味噌、美味しかったです」
「そう、かな……まあ、だんだん結果に表れてるとしたらいいんだけどね」
今日もリタは盛大に顔をしかめて食べていた。しかし、いつも自分で作った分は残さずきっちりと食べた。
「……リタ?」
返事の代わりに、静かな寝息が聞こえる。わたしもふたたび布団にもぐりこんで、目を閉じた。雨音のなかで頼りもなく泳いでいるような、そんな感覚をおぼえる。今日の雨で多少は花が散ってしまうだろう。明日の朝にはやんでいるだろうか。書きかけの話の続きはどうしようか。次々と取り留めもない考えが浮かび、わたしを眠りの世界へと押し流していく。
レイヴンが最後にこの家を訪れてから、半年が経っていた。
(後略)