ふとしたときに、馬鹿げた夢を見ることがある。
ほんとうに馬鹿げている、としか言いようがないのに、手触りは柔らかくて温かく、ふわりと吸い込まれてしまう。抗いがたい眠気のような不確かさと安心感をまとって、それは立ち現れる。
例えば、晴れた日の庭で。
木々が多く、ハルルにどこか似た町のはずれになぜかレイヴンは住んでいる。明るい陽が降りそそぐ庭先に、よく見知った少女がしゃがみこんでいる。
「あ! ねえ、ちょっと来なさいよ」
レイヴンを見つけるなり、リタは駆け寄ってくる。そして服を引っぱられて強引に連れていかれる。
「このトマト、そろそろ収穫できるんじゃない?」
彼女が指し示した先には、赤い実がいくつか成った枝があった。その周りにもさまざまな種類の苗が並んでいる。どれも二人で植えたものだ。いつの間にもうこんなに育ったのかとおどろく。
「んーと、もうすぐかな、もうちょい暖かくなったらすぐよ」
「ふうん、まだなのね」
ちょっと残念そうに実をつつく。その横顔をじっと見ていると、目が合う。
「なに」
不思議そうに首をかしげるも、怒ってはいないようだ。いつもなら、何見てんのよ気持ち悪いわね言いたいことがあるならさっさと言いなさいよ、などのありがたいお言葉と冷たい視線を浴びせられるところだ。
(それでもよかったけど、でも)
ただ見つめることを許される時間と、すぐ手を伸ばせば届く距離がここにはある。こんな風に身を隠す場所もないくらい明るく晴れた日ほど、心もとなくなる。触れたら柔らかな陽射しにとけて消えそうな輪郭が、風にふかれて揺れる。みどりの匂いがした。
「……あったかいね、今日は」
「もう暑いくらいじゃない? この子たちが心配、何か対策を考えなきゃ」
リタにかかれば、なんでも“子どもたち”になってしまう。愛情を込められるものならなんだって慈しんでしまう。彼女のそんなところが眩しくていとおしく、けれど時に怖いとすら思う。
「そりゃリタっちが暑がりだからでしょ、まだまだぽかぽか陽気じゃない」
「ぽかぽかって、いくらおっさんが寒がりでも、すぐそんな呑気なこと言ってられなくなるんだから」
呆れたように言いながら立ち上がり、他の野菜の様子を確認し始める。ほら、とまた呼ばれる。はいはい、と返事をしてそっちに行こうと立ち上がる。
白い光がひらめき、光景がぐるりと巻きとられていく。
ほら、やっぱり。触れたら消えてしまうのだ。
例えば、静かな部屋の窓辺で。
目を開けて、自分が眠っていたことに気づく。まぶたの奥のかすかな残像を追いかけようとすると、リタが部屋に入ってくる。どこか不安そうな顔だ。
「あ、起きてる……具合はどう?」
そう聞かれて思い出す。心臓の調子が良くなくて伏せってしまったのだった。
「だいじょうぶ、ちょっと寝たらだいぶ良くなったわ」
「あんたに聞くより、この子に聞いたほうが早いわね」
リタは寝台脇の椅子に座り、シャツのボタンに手をかける。思わずちょっと身を引いたが、大人しくされるがままになっておいた。情けなさと気恥ずかしさとともに、安堵を感じている自分がいた。不思議な感覚だった。
魔導器の制御盤が開かれているあいだ、リタはあれこれ考え込んでいる。そのうつむいた顔を見るのは好きだった。見ていたって睨まれることもない。けれどリタの表情から、すぐに良くないことが起きているのだとわかった。一時的な不調ではない、もっと深刻な状態に陥っているのだろう。
「……ん、小康状態ってところね。しばらくはこまめに診るから、あんたはおとなしく休んでなさい」
検診を終えたリタは、レイヴンの胸を軽くぽんと押して寝台に横たえようとする。わかったわかった、と手で遮ると、ふっとかすかに笑みを浮かべ、手元の記録を開く。
(だから、いやだったんだ、こうなるのは)
いつかふたたび終わる命でも、信じながら生きられたらと思った。彼女のためにも、自分のためにも。けれど、命あるものは確実に終わりが来る。そうしてこんな風に、自分がどんどん弱っていくさまを見せることになる。終わりに向かって朽ちていくのを止められないと唇を噛む顔を見ることになる。ああ、嫌だ。震えるくらい嫌で怖くて仕方がない。
「リタ、っち」
普通に呼ぼうとしたのに、かすれて弱々しい声になってしまった。軽く咳払いをすると、少しだけ開いていた窓からいきなりぶわりと強い風が吹き込んできた。かぐわしい草の匂いをまとっていた。それは一瞬のことで、すぐにそよ風にもどる。レイヴンは揺れるカーテン越しの外をみつめた。
「もし……もしさ、俺が死んだら、庭に植えてるもの、ぜんぶ刈り取っちゃっていいからね」
もっと違うことを言おうとしたはずなのに、なぜかそんなことを口にしていた。リタのほうを向くと案の定、わけがわからないという顔をしている。首を振って、息をつく。
「もし、とかいうバカみたいな話は置いとくとして……そんなことするわけないでしょ、バカじゃないの」
「いや、その、好きにしてもらっていいって意味だったんだけど、さすがに刈り取ってってのは行きすぎだった、かも」
「いつからあんただけの庭だと思ってたのか知らないけど、あたしにも同じだけ決定権があるのよ、分かる?」
「あ、ハイ……その通りですね……」
理解したならいいわ、とまた記録に目を落とす。リタは、最後の最後まで諦めないのだろう。そしてレイヴンの前では強く折れないリタ・モルディオのままでいようとするのだろう。リタが自分のために泣くところは見たくない。けれど人知れず一人で泣かせるのはもっと耐えがたかった。
(ああ、そう思えるようになったんだな……)
レイヴンは手のひらを胸元に当てて、ゆっくりと息を吸った。吸えば自然と吐くことができた。からだの中に空気を取りこんでまた返すことができる。
「俺、トマトスープが食べたいかも」
「なに? 急に」
「ちょうどトマトが食べ頃なんじゃないかって」
「まだもうちょっと暖かくなってからじゃないと、うちのは収穫できないわね、買ってくる?」
もうじゅうぶん暖かい季節だと思っていたのに、まだそのときは遠かったらしい。庭に出てみたら、きっと暑いくらいの眩しい陽にさらされる季節がじきにやってくる。
「いいや、そんときまでのお楽しみにしとく」
今の光景を焼き付けておこうと思った。明るく、あたたかな日のこと。鳥の鳴き声と葉擦れの音が窓辺からも聞こえること。風にのって運ばれてくるみずみずしい匂いのこと。リタがそこにいて、レイヴンがここにいたいと思った夢の話を。
そうすれば、胸のうちに根を張る恐怖や怯えも、やがて枯れて朽ちてどこかへ還っていくだろう。そしていつかまた芽吹くときが来る。繰り返して、季節は先へ進む。そんな命あるものの摂理に、どうか俺も加えてくれないか――胸が熱くなるくらいに、強く願った。
◇◇
リタは、ソファで眠ったままのレイヴンに薄手のブランケットをかけてやる。検診の約束で久しぶりに会ったというのに、いきなりやって来るなり眠りこけた男は、ちっとも起きる気配がない。
「いくらなんでも、そろそろ叩き起こしてやろうかしら」
そばに屈み込むと、それはもうすやすやと気持ち良さそうに寝息をたてている。腹立たしいくらいに。鼻をぐい、と指先で押すと、レイヴンはくすぐったそうに少し笑った、ような気がした。
「まったく……お気楽なおっさんね」
窓に近づき、少しだけ開いていたカーテンを閉める。ふと足元に、小さな花びらが落ちているのに気がつく。外から吹かれてきたのだろう。リタはそれを拾いあげると、レイヴンの顔の上にそうっと乗せた。これが落っこちたなら、いよいよ叩き起こしてやろうと決意しながら。