Roundabout drive

「海に行きたいの」

まだ夜も明けぬうちに、突然訪ねてきた教え子のリタ。

その頼みを聞き入れたレイヴンは、ふたりで静かな町へとドライブに繰り出す。

 

明け方のドライブに出かける学パロレイリタの話です。

2019.8発行の学パロ短編集『Roundabout drive』からの再録です。

 


 目覚めると胸がひどく痛かった。まだ薄暗さに満たされた部屋のなかは妙に寒々しくて、感覚を取り戻しはじめた体を震わせた。布団はちゃんと肩まで被っているのに、そんなことはお構いなしに歯がカチカチと音を立てる。陽の昇らないうちに起きると、いつもこうなるのだった。

 レイヴンは布団から抜け出すと、両腕を交差させ身をかがめたまま、キッチンに向かった。やかんに適当な量の水を入れ、ガスコンロにかける。職員室にあるような給湯器があれば便利なのだが、毎回こうして湯を沸かしている。もし自宅にあればコーヒーを飲むときにもきっと役に立つ。そう思ってから季節が何回巡っただろう。

 やかんがシューシューと音を立てはじめる。火を止めて、何も入っていないマグカップにそのままお湯を注ぎ込んだ。顔を近づけると、湯気で顔がふやけそうだった。一口飲み下すと、喉が焼けそうに熱かった。ふうと息をつく。じわじわと染みる熱さを感じながら、すぐそばの冷蔵庫にもたれる。冷蔵庫はかすかに稼働音を立てていて、ほんのりと温かかった。部屋の静けさに身をゆだねているうちに、もう一度眠ってみようかという気になってきた。マグカップを手に、ベッドへと戻ることにする。

「熱っ」

 サイドテーブルに置くときに、うっかりマグカップの底に指が触れて、反射で手首が跳ね返った。読みかけの学術雑誌が滑り落ちる。幾何学模様の表紙をながめる。なぜ昨晩これを読み始めたのか、記憶が曖昧だった。拾い上げると『テラヘルツ天文学を切り拓く発振現象』のページの端が折れていた。宇宙の話はいつ読んでも、途方がなさすぎてレイヴンには理解が難しかった。空を見上げてみても数々の理論的現象が実際に起きているとは到底思えない。ただそこにはきっとあるのだろう、という仮定を元に考えを広げるしかない。

 部屋の中をぼんやりと眺める。本棚と机と、このベッドと、他にはほとんど物がなかった。ゆらりと立ち上がり、思い出したように机の引き出しを開ける。赤い塊がころりと手前に転がってきた。それを手のひらに収め、手の中でもてあそぶ。解体された古い人体模型の一部だった。ヒトの心臓を模したものだ。人間の体も似たようなものだ、とレイヴンは思う。今ここにある自分の命を繋いでいる器官を、実際にこの目で見たことはないのだから。

――今日かもしれない。

 暗闇に沈んだ壁を見つめてレイヴンは予感する。こんな夜には、その期限が来るのではないかと思えるときがあった。何もかも動かない夜の中にいると心は不思議なほど静まり返って、一瞬あとに世界がぷつりと途切れてもなんの違和感もないという気がした。それは予感と言い表すのが一番適切だった。

 ふと、背後から何か足音が迫ってくるように思って、レイヴンはとっさに振り向いた。そこには当然誰もいない廊下があるのみだった。施錠された玄関の扉が薄闇に沈んでいる。一人暮らしに慣れすぎて、他人の気配に敏感になりすぎているのかもしれない。それとも、こんな夜だから気が立っているのだろうか。

 ドン、と何かを叩くような音がした。今度は聞き間違いではなかった。衝撃まで感じ取れた。ドン、ドン、と続けて二回、鈍く重い音が響く。音の出所は、どう考えても視線の先の扉だった。こんな夜中に訪ねてくるような非常識な知り合いに心当たりはなかった。となると、空き巣、強盗、それとも取り立て――借金などしていないし、盗みに入るのであってもこんなに大きな音を立てては台無しだろう。レイヴンは息を潜めたまま、なるべく音を立てないよう静かに扉へ近寄り、ドアスコープをそっと覗いた。

「……え」

 思わず声が漏れた。一瞬目に映ったものに理解ができず、もう一度覗いた。玄関の置き時計が示す時刻は午前四時十九分、来客があるだけでもおかしいのに、さらに目を疑う光景があった。だんだんとそれがどういう意味であるか分かってくると、頭がじんじんと痛くなった。いやいや、と首を振りながら、手早く鍵を開けて、おそるおそる扉を開いた。

「出てくるの、遅い」

 レイヴンが顔を出した途端、しかめ面で言い放ってきた。薄茶のコートを羽織った少女が腕組みをして立っていた。リタ=モルディオ――レイヴンが教師を務める学園の、生徒だった。

 

 

 

 朝はそれなりに混み合う大通りは、ほとんど車も人の影もなかった。まだ夜の空気を残した薄暗い道路に、一台の走行音だけが響く。春の訪れには少し遠い明け方、車の中はようやく暖かくなってきたところだった。助手席の主は、車に乗ってから一言も喋らずにじっとフロントガラスをにらんでいた。誰も何も通らない道路が遠くまで伸びている。

「乗ったはいいけどさ、どこに行きたいの?」

 信号待ちで止まった隙に、レイヴンは顔を覗きこんで聞いてみる。あんな時間に人の家を訪ねてきて顔を見るなり、リタは頓狂なことを言い出した。

――車に乗せて。

 どうして、と聞くと、行きたいところがあるの、と真っすぐに見つめられた。こんな時間に何言い出すの、早く帰りなさいな、もちろんそう返した。なるべく小さな声になるよう気をつけて。そもそも公共住宅の玄関先でこんな時間に会話していることが望ましくない。ましてや自分の生徒と。何があったのかは知らないが、いったん部屋に入れて茶でも飲ませて落ち着かせるべきか、などと考えていると、とん、と胸に小さな頭が当たる。

――お願い、どうしても行きたいの。

 ぎゅっとシャツを掴まれる。その手がかすかに震えていた。彼女に何か頼まれるのはこれが初めてではなかったが、今までのどれよりも、それは真に迫っていた。物理準備室の掃除や実験器具の調達などとは違うものなのだと、レイヴンはすぐに悟った。コートに覆われた背をぽんぽんと撫でて、わかった、と言うと、リタは一瞬顔を上げて、しばらくこちらを見つめたあと、ふっと目を伏せた。要求が通ったというのに、少しも嬉しそうには見えなかった。

「……海」

 少しの間をあけて、リタはそう答えた。信号は変わり、レイヴンは前に向き直る。

「海に行きたいの」

「海って……こっからだと、うーん、南にずっと行って、隣の地方まで出ちゃうのが早いか……それでもけっこう遠いよ?」

「いい、それで」

 淡泊な返事に、レイヴンはふうと溜め息をつく。いまだに彼女の考えることは時にわからなくなる。いつもこうやって振り回されてきた気がする。けれど、それを嫌悪してはいなかった。だからこそこうしてまだ夜も明けぬうちから、ハンドルを握っているのだ。

 

 

 

 リタ=モルディオの噂は、入学式の前から教員の間で持ちきりになっていた。入学試験を全教科満点で合格した、前代未聞の天才少女。こんな都市部からほど離れた学園にとっては少し刺激の強すぎるニュースだった。外国の研究機関にも一部には名を知られているらしいとか、真偽のつかない情報や、さまざまな憶測までもが話されていた。レイヴンは、噂自体への関心はあったが、積極的に話にかかわることはなかった。――才能ってヤツは難儀なもんだ。そう、他人事のように思っていた。

「……天才少女の面倒を? 俺が?」

 入学式も間近に迫ったある日、校長室に呼び出されたレイヴンは突然の宣告を受けた。まったくの予想外だった。彼女が入学してきても、いつも職員室にいないような教師とは関わることがないだろうと思っていた。

「リタ=モルディオは、同年代の子らに比べ、全ての分野において卓越した知的能力を備えているが、とりわけ物理の分野において優れた能力を持っていると聞いている。そこで君に彼女のサポートを頼みたいのだ」

「サポートったって……そんな天才に何ができるっていうんですか、俺に教えられることなんかないでしょ」

 アレクセイは、机をコツコツと叩きながらこちらを見据える。学校長である彼には過去に世話になった恩があった。レイヴンの今の職場を融通してくれたのも彼だった。それから度々何かある度に呼び出されては、毎回唐突な頼み事をされるのだった。

「……モルディオは、家族をすでに持たないという」

 思わず、頭を掻いていた手を止めた。

「彼女の父親とは生前縁があってな、彼女がここに来たのは私の勧めでもある」

 引き出しから数枚の書類を取り出す。入学願書の端に貼られた写真がちらりと目に入ったが、思ったより普通の外見をしているらしい、ということしか分からなかった。

「知り合いなんですか、その天才少女と」

「知り合い、といえばそうだろうな、向こうは親しくしているつもりはないだろうが」

 アレクセイは書類に目を落としながら、軽く溜め息をつく。

「要するに……ある程度天才少女と話が通じて、その上で特別な背景を刺激しない奴に、見張り兼、緩衝材の役目をしろってことですかね」

「有り体に言えばそういうことだ、教育者としては『見守り』のほうが正しいがな」

 はあ、と息をついた。自分の専門が物理であることをこんなに後悔したことはなかった。話を聞いただけで厄介すぎる案件だと分かった。けれどこのときはまだ、適当にやり過ごすつもりでいた。あちらがレイヴンのような教師などに取り合うはずがない。〝見守り”といっても、そういうものは次第に形骸化していくだろうから、と。

 

 

 

 彼女の姿を初めて見たのは、いつも通り日当たりの悪い物理準備室だった。入学式が終わり、担任などの受け持ちもないレイヴンは、自分の巣に戻ろうとしていた。いつも仕事は準備室に持ち込んで、陽が落ちるまでそこにいた。物理準備室は校舎三階の奥まったところにひっそりとあって、生徒たちも授業で使うとき以外はめったに訪れない場所だった。授業外で生徒に会うとそれなりに声をかけられるレイヴンだったが、わざわざこの部屋まで訪ねてくる物好きはいなかった。それほど校内では辺(へん)鄙(ぴ)な場所だった。

 静まった廊下を歩いていくと、なぜか室内の明かりがついているのに気がついた。式に出る前にちゃんと消していった記憶があった。清掃員が入っているのか、それとも学校長の急な訪問か。少しの警戒心とともに、思い切って扉をガラリと引く。

 レイヴンの予想はどれも外れていた。部屋の左奥、書棚の前に、一人の少女が立っていた。音に反応して、扉を開けたレイヴンのほうに顔を向ける。肩の上で短く跳ねる栗色の髪に赤いカチューシャを着け、身にまとっているのはこの学園の制服だった。その顔に、どこか見覚えがあった。

「あっ!? もしかして……噂の天才少女?」

 ちらりと見ただけだったが、アレクセイが手にしていた書類に写っていた顔に似ていた。少女はレイヴンの言葉を受けて明らかに眉をひそめ、鋭い眼差しでこちらをにらんできた。

「……あんた、誰よ」

「いや、それは勝手に部屋に入られてたこっちの台詞なんだけど……」

「ここで待ってろって言われたのよ、校長に」

「あー……そういうことね……」

 確かに面倒を見ろとは言われたが、まさか初めからこんな風に丸投げされるとは思わなかった。こちらは完全に初対面なのだから、最初くらい間を取り持つようなことをしてほしかった。

「どうも、初めまして、物理担当教員のレイヴンです。事前にアレクセイ校長から聞いてたけどさ、いきなりで驚いたわ……ま、授業の時以外はだいたいこの部屋にいるから、よろしく」

 とりあえず身分を明かし、恭しくお辞儀でもしてみる。少し顔を上げてみると、少女は訝しげにこちらを見たままだった。

「リタ=モルディオ……よろしく……」

 ちっともよろしくなさそうな表情で、渋々名前を口にした。ひとまず自己紹介を終えられて、レイヴンはほっとした。気難しそうな性格は予想していた通りだが、思っていたより、接するのは難しくないかもしれない。

「あたし、この部屋を使っていいって言われたんだけど、いいのよね?」

「えーっと……それも校長に言われたの?」

「そうよ」

 リタはそばにあった椅子に腰かけて、机の上の道具や模型を物色し始める。さっそく部屋の主となる準備を始めるかのように。

「アレクセイ校長と知り合い……なの?」

 なぜそんな質問をするのかとでも言いたげに、眉をひそめる。アレクセイから父親を介した知り合いと聞いていた。ひとまず本人にも確かめてみようとしたものの、少し踏み込みすぎたかもしれない。

「あー……そうそう、校長からちらっとそんなこと聞いたからさ」

「じゃあ、あたしに聞く必要ないでしょ」

 冷ややかに返されて、ぐっと奥歯を噛みしめる。どうやら〝向こうは親しくしているつもりはない”というのは本当らしい。周辺情報から攻めていく作戦はうまく行かないようだ。

「……えっと、ほかに校長からはどんなことを?」

 いったいどんな情報を与えられてこの部屋に来たのか、それだけでもとりあえず確かめておかねばならない。レイヴンは普段よりも輪をかけて柔らかな口調を心がけて尋ねた。

「なんか、授業さえ出れば、この部屋ならいろいろ揃ってるから、実験もしていいし、道具も好きにしていいって」

「その……俺のことは、何か聞いた?」

「『風変わりな男がやってくるかもしれないが、気にしないでいい』って……もしかして、風変わりな男ってあんたのこと?」

 なるべく穏やかにと保ってきた表情も、思わず苦々しくならざるを得なかった。間を取り持つどころか、存在をほぼ無き者にされていた。物理準備室の主のつもりだったが、さらに上位の主に許可を出されては文句の言いようもない。

「ああ……えっとね、好きに使うのはいいんだけど、一応ここ学校の一室だから、教員の管理のもと、って建前があるわけよ。だから何かあったときはおっさんの指示に従ってもらうことになるけど、それでもいい?」

 もっと面倒そうな顔をするかと思っていたが、意外にも、リタはこちらをじっと見つめレイヴンの言葉を静かに聞いていた。

「……わかったわ、学校だものね、ここ」

 窓の外を見上げ、ガラス越しのくすんだ青に目を細める。よく晴れた空が黒いカーテンに四角く切り取られていた。

 

 

 

 大通りを抜けて、建物の数がまばらになってきた。普段は見慣れぬ看板が立ち現れては後ろに流れていく。リタはそれを物珍しそうに見ることもせず、時折車内に目をやりながらじっと黙っていた。

「なんかかけようか? ラジオとか……好きな曲とか」

「いい」

「リタっち、好きな曲とかないの?」

「音楽なんて、うるさいから聴かないし」

 本当にそうなの、と言おうとしてやめた。実験をしながらたまに鼻唄を歌っているのは知っていた。けれど日常的に聴かないというのは本当かもしれない。

 そうは言っても、このままの静寂が続くと運転しているのもつらい。レイヴンも取り立てて好きな曲があるわけではなかったが、数少ないCDの中からなるべく静かな曲を集めたものを選ぶ。ディスクを差し込むと、バイオリンを基調としたスローテンポの曲がゆったりと流れ出す。リタの様子をうかがうと、特に気にした様子もないようだった。

「音楽はいいよ、何も考えたくないときとか」

「べつに、あたしはそんなときない」

 当然のように素っ気なく返される。

「そっか、まあ、リタっちは考えることたっくさんあるもんねえ……おっさんなんかと違ってさ」

「……何も考えたくないときは、なにしてるの」

 急に質問を投げかけられたので驚いた。何も興味を示さないかと思えば、こんな風に虚をつくような問いを唐突に口にする。彼女のそういったところには、未だに慣れない。

「そうねえ……単にひたすらぼーっとしたり……」

「いつもじゃない」

「ちょっと、おっさんがいつぼーっとしてるって? めちゃくちゃシャッキリしてるでしょうよ」

「それから?」

 ちょうど曲の切り替わるタイミングで、リタの声が、静かな車内にはっきりと響いた。停止線に合わせてブレーキを踏み、右方向へウィンカーを出す。

「あとは……熱い湯をね、飲むかな」

「湯?」

 怪訝そうな一音を口にして、眉をひそめる。レイヴンはそれを見て、軽く笑いながら頷く。

「口にすると熱くてすっごいビリビリするから、それに持ってかれて、今まで考えてたことがどっか行くのよ、そう上手くいかないときもあるけどね」

 喋りながら、なぜこんなことを話しているのだろうという気持ちになってきた。こんな話を人にするのは初めてだった。リタは膝の上で丸めたコートを手のひらで撫で、そう、と呟いた。

「あんた、いつも、まだ湯気がすごい立ってるコーヒーでも飲んでるわよね」

「淹れたてじゃないと美味しくないでしょうよ、リタっちは熱いのダメだもんねえ」

「うるさい、あたしは適温まで待ってるだけ」

「苦いのもダメだし」

「……なんなの、何が言いたいの?」

 ぎろりと睨まれる。これ以上機嫌を損ねないうちに話題を切り替えることにする。

「家出る前になんか食べてきた?」

「……なにも」

「じゃあ、どっかで食べるもん調達したほうがいいわな、何が食べたい? というか、この時間でも開いてるとなると……」

 記憶を辿って考えてみる。時刻はもうすぐ五時になろうとしていた。まだ薄暗い道にシャッターの降りた建物が並んでいる。

「おっさん、このあたり詳しいの」

「まあ、前にもちらっと来たことがあるくらいよ、リタっちは初めて?」

「一人でそんなに遠くまで出かけること、ないし」

「そうね、電車もあんまり通ってないしね、このへん」

 レイヴンも電車で出かけることはほとんどなかった。これまでリタと車で出かけたことは何度かあったが、どれも近くに買い物に付き合った程度のことだった。リタは一人暮らしで、ほとんどその日に出来合いの惣菜を買うことしかしないと知ってから、レイヴンが車を出して食材などを揃えているのだった。休日はたまにレイヴンが料理をすることもある。ここまで面倒を見るつもりはなかった、と彼女に付き添うたびに思う。そして今も。

「海はずっと昔に行った……気がする、このへんじゃない、遠くの海だけど」

「そんなに覚えてないくらい、小さい頃だったってことかね」

「……わからない、ほんとに、覚えてないから」

 そのとき、彼女のそばには誰がいたのだろうか。今はいないという両親、そのどちらかに手を引かれた小さな姿を思い描く。その瞳は、果てない水平線を見つめて何を思ったのだろう。

「おっさんも行くのは久しぶりかな、海」

 リタが助手席に座るのはもう珍しいことではなかった。けれど今また、彼女がそこにいることがとても不思議なことのような気がしていた。昔海を見ていた小さな彼女は、どうやってここまで来たのだろう。そんな風に思ってしまった。

 

 

 

 入学式からしばらく経ち、リタは『物理部』の所属となった。そんな部活は元々存在しなかったが、校長のはからいで正式な部活と認められた。顧問はもちろんレイヴンである。リタ=モルディオがレイヴンの管理下に置かれているという一応の証明があったほうが何かと役に立つだろう、とはアレクセイの言である。

 それからというものの、レイヴンしか立ち入る者のなかった物理準備室にはリタがほぼ毎日いるようになった。授業時間外、主に昼休みと放課後はリタの支配するところとなった。

 リタとはほとんど物理準備室で顔を合わせることが多かったが、例外が物理の授業だった。初めての授業のとき、新入生の教室に出向くと、リタは教室の後方で頬杖をついて窓の外を眺めていた。漫画などでよく見る光景だな、と思いながら、レイヴンは居並ぶ生徒たちの前で軽い挨拶をして、関心を引きそうな話題を面白おかしく話してみせた。どっと笑いの広がる生徒たちの向こうに、ちらりともこちらを見ないリタの姿があった。

「リタっちさあ、授業のとき、ちょっとくらいこっち見てくれてもよくない?」

 金属塊を紙に擦りつけていたリタは、煩わしそうにこちらを見やった。

「なんでそんなことしなくちゃいけないのよ、必要だと思った情報はちゃんと聞いてるしいいでしょ」

「そういう問題じゃなくてさ、話してる側としてはさみしいもんよ? 聞き手がぜんぜん自分のほう向いてくれないっていうのはさ」

「あたし以外にも大勢向いてるでしょ、あいつら好きみたいだし、あんたのつまんない話」

「えぇ……リタっちにつまんないって言われちゃ、こたえるわあ……」

 リタは、初めて会ったときに比べれば、いくらか話してくれるようになっていた。少し大げさに振る舞うほうが、さまざまな反応を返してくれるようだった。

「あと、そのふざけた呼び方、いつまで続けるの」

「いやいや、ふざけてなんかないって、せっかくけっこうな時間一緒にいるんだし、呼び名があったほうがやりやすいでしょ?」

「やりやすいのはおっさんだけでしょ」

「リタっちこそ、おっさんはどうかと思うわ、おっさんは」

「あんたのこと名前で呼ぶの、なんか違和感あるのよね、先生、なんてもっと気持ち悪いし」

「ひどい言いよう……」

 名前で呼ばれたことがないどころか「ちょっと」とか「来て」とかで済まされるのが常だった。けれど想定していたより、リタと過ごすのは苦痛ではなかった。もっと無口なのかと思っていたが、レイヴンが働きかければ何らかの反応は返ってきた。それが好意的な反応であることはほとんどなかったが、それでも良いと思っていた。

 リタに関しては案の定さまざまな噂が飛び交っており、教室では遠巻きにされているようだった。どうにかならないかと考えてはいるが、ほぼ毎日準備室でも面倒を見て、この上教室にまで出しゃばればお節介が過ぎるだろうと、しばらく様子を見ることにしていた。それに、レイヴンが介入したからといって必ず事態が好転するとは限らない。

 今のところアレクセイから聞いてレイヴンが知っている確かな情報としては、彼女の両親が有名な研究者であったらしいということだった。外国の研究機関がどうとかそうした噂があったのは、彼女が幼い頃に両親に連れられて行ったことから出た話だったようだ。何にしても、リタという少女は、同年代に比べて少しばかり頭の出来が良い他は、同じ年頃の生徒たちと何ら変わるところはないはずだった。

「なんか淹れようか、何がいい?」

「いらない」

「……じゃあおっさんだけ熱々のコーヒー飲んじゃおーっと」

「勝手にすれば」

 いつの間にやら新しい本に目を落として、ちらりともこちらを見ない。そっと背後を通って、洗い場の蛇口から給湯器に水を入れる。リタが他人と関わろうとしない気持ちが、少しだけ分かるような気がしていた。人と違うと知っていることはそれだけで枷になる。すぐ隣で喜びを叫ぶ声がただの雑音に聞こえたり、楽しみに沸き立つ光景が張りぼてのように見えたりする。そうした感覚には覚えがあった。リタを見ていると時に、遠い昔、もう忘れてしまったはずの青かった自分のことを思い出す。他人をどこか違う世界の住人と思うほど、自分がひどくつまらない人間のような気がしていた。

――どうして、あなたはそんなに自分を卑下するの?

 

「ほい、置いとくよ」

「なに、いらないって言ったでしょ」

「お湯が余ったからさ、いらなかったらおっさんが後で飲むし」

 リタの前に淹れたてのアップルティーが入ったカップを置く。六種のフレーバーを詰め合わせたティーバッグセットは、この前の週末に仕入れたものだ。レイヴンは甘い茶が苦手だった。まだリタには言っていなかったが。

「いらないって言ったのに……」

 ぼそぼそと呟いて、わずらわしそうにカップの湯気を払う。一口舐めるように飲んで、顔をしかめる。

「リタっち、もしかして猫舌?」

「……うるさい、こんな熱湯の状態で出されたら、誰だってこうなるわよ」

「いやいや、淹れたてが美味しいのに」

 ずっと苦い顔のままのリタを見て思わず笑みがこぼれる。目の前の少女と自分は全く違う。当然ながら分かっていたが、それでもレイヴンはいつしか思っていた。一人きりでいる彼女のために何かできることはないだろうか、と。

 

 

 

 幹線道路を抜け、海岸線が徐々に見え始める道沿いにそのパン屋はあった。元々レイヴンが知っていたわけではなく、見つけたのはリタだった。明け方の町に赤いとんがり帽子のような屋根は目を引くものがあった。あれはなに、と言われ、三台分の駐車スペースの一つに車を停めたとき、時刻はちょうど六時で、ブラインドがするすると上げられるのを二人で見た。窓越しの女性と目が合って、にこりと微笑まれた。そこでようやく看板を見て、パン屋であることに気がついた。

「いらっしゃいませ」

 中に入ると、先ほど目が合った女性が、焼き立てのクロワッサンを並べていた。年の頃はレイヴンと同じ、三十代半ばくらいだろうか、柔和な目元が特徴的だと思った。

「……いいにおい」

 店内をきょろきょろ見回していたリタがぽつりと言う。入り口から左右に多種多様なパンが並べられており、中央の低い棚にはサンドウィッチがある。

「そうでしょう、今並んでるのはどれも焼き立てばかりですから、どうぞゆっくり選んでいってくださいね」

 女性ににこりと微笑まれたリタが、首だけ縦に振って、そそくさと中の方へ行ってしまう。思わず苦笑いを浮かべるも、女性は穏やかな表情のままだった。

「ちょっと食べるもん探してて、けど、こんな朝から開いてる店なんてないと思ってたから、助かりましたよ」

「うちの店は、朝早くから開けてる代わりに、陽が沈む前には閉めちゃうんです。夜になるとこの辺りは真っ暗になるから」

「へえ、こっちの地方にはなかなか来ないんで、そんなに?」

「街灯が少ないし、月明かりと向こうの灯台くらいですね、目印になる明かりは」

「なるほど、海のほうには灯台が」

「残念ながら、普段一般の方は入れないんですけどね、外から眺めることならできますよ。ご家族で、ご旅行にいらしたんですか?」

 ご家族、と言われて一瞬戸惑った後、リタのほうを見やる。真剣そうにサンドウィッチを物色していた。違うと否定するのもこの場ではおかしい気がした。もし正直に、彼女は学校の生徒で自分は教師で、などと言ってしまえばこの場の空気が一変するのは目に見えた。

「まあ、ちょっと海を見に」

「ふふ、いいですね、今からだとちょうど朝焼けが見られるかもしれませんよ」

 女性は、リタとレイヴンを交互に見て、それから奥の部屋をちらりと見やった。そこには白い調理着を着た男性がいて、こちらに向かってぺこりとお辞儀をしてきた。レイヴンも小さく頭を下げる。

「三年前に、ここで夫と二人で店を始めたんです。まだまだですけど、こうしていろんな人にいらしてもらえる度嬉しくなります」

「ご夫婦で、そりゃいいですね」

 幸せそうに笑う女性と、それから一心に生地を焼く男性。二人を見ていると、素直にあたたかな気持ちが湧いてきた。こんな風に生きていく道もあるのだと、とても眩しいものに見えた。マンドリンの曲が小さく流れる穏やかな空気の中で、さまざまな香ばしい匂いの中で、思わず、ふと頭をかすめた想像に、なぜかすぐ向こうにいる少女と同じ顔が、やわらかに微笑んでいた。

――今、何を考えた?

 その光景は一瞬あとにすぐかき消えて、レイヴンは頭に手を当てる。そのまま天井を見上げ、吹き出す暖風を浴びる。熱を帯びてぼうっとした頭で、もう思い出すことはできなかった。

「ちょっと、トレイ取ってよ」

 リタの呼ぶ声に、レイヴンは上を向くのをやめ、はいはい、と入り口近くのトレイを持って近くに寄る。

「どれにするか決めた?」

「……これ」

 リタが手にしていたのはプラスチックのパックに入った、分厚い卵焼きを挟んだサンドウィッチだった。

「おいしそうじゃない」

「あげないわよ」

「いやいや、自分の分は自分で選ぶって」

「それなら早くしなさいよ」

「はいはい、ちょっと待ってよ」

 そんな様子を、女性がにこにこと笑いながら見ていた。自分たちがどんな属性に見られているのかは想像がついたが、それを〝家族”という言葉で口にされたことに、レイヴンは少しだけほっとしていた。

 

 

 車に戻り、エンジンをかけてから、缶コーヒーを開ける。苦く熱い液体が舌を痺れさせ、息をつく。隣では、缶のミルクティーをちびちびと慎重にすすっていた。

「ちょっと食べてから出発していい?」

 袋から片手でホットドッグを取り出す。リタは膝のサンドウィッチのパックを開けながら、こくりと頷いた。

「うお、ホカホカだこりゃ」

 ふかふかの柔らかな生地にしっかりと噛み応えのあるウインナーと、濃いトマトケチャップが口の中で混ざり合う。上品な香りがするのは上に振りかけられたバジルのせいだろうか。想定していた以上の美味しさに喉で唸ってしまう。

「こんなところに隠れ名店見つけちまったなあ」

 しみじみと口にしながら横を見ると、サンドウィッチをもそもそと頬張ったまま、じろりとこちらを睨んでいた。

「どしたの? もしかして、リタっちのやつは美味しくなかった?」

「べつに、美味しくないわけじゃない」

「じゃあなんでそんな顔してんの」

 ミルクティーを一口含み、口の中身を飲み下したあとも、リタの表情は依然として変わらなかった。

「……あんたが、楽しそうにヘラヘラしてたの思い出しただけよ」

 一瞬何のことを言われているのか分からなかった。程なくして、先ほどの女性との会話のことだと気づいた。てっきりパンを選ぶのに忙しくて、こちらには関心を払われていないのだと思っていた。

「ちょっと話してただけでぜんぜんヘラヘラとかしてないって、まあ確かにキレイな人だったけど……人妻だし」

「最低」

「いやいやなんでよ……」

「バカが移るから喋らないで」

 もしゃもしゃと音を立てて、不機嫌な少女は次のサンドウィッチにかぶりついていた。レイヴンは手の中にあるコーヒーをごくりと飲み、もう片方の手で頭をかく。こんな風に時々苛立ちを見せる彼女が分からなかった。単純に軽薄な振る舞いを嫌っているのだろうということは推測できたが、その他の理由については、それ以上考えたくなかった。

「さ、おっさんは食べ終わったし、そろそろ行くかね」

 結局レイヴンには、話題を切り替えることしかできないのだ。

「……ふん」

 アクセルを踏んで車が動き始める。パックが滑り落ちないよう手で押さえながら、リタは小さく鼻を鳴らした。

 

 

 

 体が燃えるように熱かった。

 いや、実際に燃えているのかもしれない。

 眼前に嘘のような勢いの炎が迫っていた。目を凝らそうとしても次々と溢れる煙がそれを許さない。かろうじて動かせたのは左手だけだった。他の部分は、力を入れることさえできなかった。脳がそうした指令を受け付けていないような感覚だった。

 自分がどんな状況にあるのか、分からなかった。覚えているのは、約束の時間が迫っているのに気づいて、急いで実験室の鍵を閉めて、それから――。

 ――死ぬのだ。

 そのことだけが、はっきりと理解できた。いざそうした状況になれば、恐怖や不安などといったものは認識できなくなるのだと思った。頭が痺れたようにじわじわと痛み、喉が詰まって、息が吸えなくなる。

「――――!」

 名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、幻覚としか思えないほど、すでに意識は朦朧としていた。突如、まだ感覚の残っていた左手を、鮮烈な温もりが包んだ。

「……もう大丈夫、さ、逃げましょう」

 凜とした声が、薄れかけていた意識の輪郭をなぞり、浮かび上がらせる。

「な、んで、ここに……」

「あなたに、どうしても、死んでほしくはなかったから」

 ごうごうと吹く風圧に長い髪がたなびく。こんな状況だというのに、ちっとも息を乱さず、彼女はいつも通りだった。――そんな風に言ってもらう資格はない、そう言いかけるも、喉がうまく動かない。それどころか、大きく咳き込んでしまう。

「しっかり掴んでいて、今引っ張り出すから」

 そのとき、何かがバチ、と弾けるような音がして、あと、すぐ、耳をつんざくような轟音が辺り一面に響いた。巨大な塊が、ずん、と重く鈍い音を立てて、ゆっくりと頭上から降ってくる。

 塊が、目の前の彼女の体をまっすぐに貫いた。

 

 

「うあ……っ!」

 自分の呻き声で意識の階層は切り替わる。蝉の鳴き声が一気に耳に流れ込む。額が焼けるように熱い。すぐそばの開け放たれた窓から、目の眩むような陽射しが容赦なく降り注いでいた。外から運動部の明るくリズミカルな掛け声が聞こえる。変な場所に体重をかけてもたれていたせいか、体が少し痛かった。背中を伝う汗はやけに冷たくて、気持ちの悪い感触をともなって服に染みこんでいく。

 何か擦れたような音がして、レイヴンは窓から視線を室内に向ける。三歩ほど離れた、ちょうど実験机のそばに、リタが立ちつくしていた。

「あれ……リタっち、もう、放課後?」

 寝ぼけたような声が出た。夏も盛りだというのに、陽の当たる窓際で眠ってしまったせいで、危うく熱中症になるところだったのかもしれない。まだ意識がはっきりと定まらず、リタのこわばった顔がゆらゆらと揺れる。

「準備室、来たら……あんたが、うなされてたから」

 喉からやっと絞り出したような声だった。出会ってから数か月、そんな不安げな顔を見たのは初めてだった。

「……俺、なんか言ってた?」

 何か、もっと安心させるようなことを言おうとしたのに、口からは心に浮かんだことがそのままこぼれ出ていた。

「なにも、言ってない」

 そうして少し黙りこんだあと、はっと気がついたように、足元の鞄の中をごそごそと漁り始めた。

「これ、飲んで、余ってるから」

 リタの手にあったのは、ミネラルウォーターのペットボトルだった。中身が三分の二くらい入っている。

「でも、それリタっちの……」

「エステルからもらって、もう一本あるから」

 その言葉を聞いて、少し頬を緩める。彼女は最近、エステルという女子生徒とよく本の貸し借りをしているらしい。

「そっか……じゃ、もらおっかな」

 差し出されたペットボトルを受け取る。少しだけ触れた手はじわりと温かかった。二口ほど飲んで、ひとつ深呼吸をする。いまだに外から溢れてくる蝉の声に気がつき、のろのろと窓を閉める。準備室の中はとたんに静けさで満ちた。

「ふー、窓開けっぱなしにしてたのがダメだったな、ありがと」

 レイヴンの手からペットボトルを受け取ったリタは、差し出した手にじっと視線を注いでいた。

「ん、どうかした?」

「なんで、そんな手、冷たいの? こんなとこにいたのに……」

 おそるおそる、でも、聞かずにはいられなかったという顔だった。小さな手の中で、水がちゃぷん、と揺れる音がした。親指の背を頬骨のあたりに当ててみると、確かにひんやりとしていた。

「なんでかね、あんまり血が通ってないのかもねえ」

 はっは、と笑いながら手をぷらぷらと振ってみる。が、ずっと険しい表情のままのリタを見て、軽く浮かべていた笑みを引っ込める。そうして声の調子を変えて再び話し出す。

「……昔はさ、もっと寒いとこに住んでたから、手も冷えて冷えて仕方なかったけど、このへんはあったかくていいわ」

「あったかいっていうか、暑いでしょ」

「リタっちは寒いほうが好き?」

「無駄に汗かくよりはね」

 思い出したようにパタパタと自分を手で扇ぐ。

「それ、昔って、どれくらい?」

「ここに来るずっと前、おっさんがまだまだ若ーい青年だった頃」

「ふうん、おっさんが青年」

 眉唾ものの迷信を聞かされたかのような顔で言う。

「いやあ、そりゃおっさんだって、リタっちと同じくらいの歳の頃だってあったんだぜ? ま、どんだけ男前だったか想像つかないのはしゃーないけど」

「想像したくもないわ」

「そんな吐きそうに言わなくたっていいでしょ……」

 ずっと窓際に立ったままで話していたことに気がつき、視線で促すとリタはそのまま後ろに下がり、そこにちょうどあった椅子にちょこんと座った。レイヴンもその向かい側に座り、机の上に風で散らばっていた紙をそろえる。書類仕事を再開するなら、その前に何か飲み物を用意しようかと考えてリタを見ると、本を読み始めるでもなく、道具を取り出すでもなく、ただうつむいてぼんやりとしたままでいた。レイヴンがじっと見つめているのにも気がつかない。ひとまず視線を紙束に戻してみる。しばらくしてリタはやっとこちらをちらりと見たかと思えば、再び下を向き、またこちらを見ることを繰り返していた。

「ねえ」

 たっぷり数分は沈黙が流れたところで、リタがようやく意を決したかのように呼びかける。

「ん、なになに」

「……さっき、なんか、良くない夢でも見てたの」

 一瞬で顔がこわばったのが分かった。それを解こうとするも、頭の奥でちかちかと火花が弾け、ぐっと書類を持つ手に力を込める。

「いい、やっぱり、いい……変なこと聞いて、ごめん」

 誤魔化すには、もう遅すぎる時間が経っていた。再び目を逸らすのを見てレイヴンは唇を噛む。戸惑いと不安と心配と、少しの好奇心、それらをリタは思い切って示そうとしたのだ。リタが知りたいと思ったことに迷いを感じたことを、レイヴンは胸が痛むほどいじらしいと思った。よりによってそれが自分に関する事柄であったことに詫びたくなった。彼女のその勇気に応える義務がある、そんな気にさせられた。

「リタっちは、なんで物理が好きなの?」

 唐突にまったく関係のない質問をぶつけられて、リタは当然のように怪訝そうな顔を見せた。けれど、怒りはしなかった。

「なんでって……昔から、好きだったから」

「昔は、なんで好きだったの」

 同じ顔のままゆっくり部屋の中を見回して、それから左手で自分の右腕をぎゅっとつかんだ。

「たぶん……父親と、母親が、いろいろ教えてくれたから、星とか、宇宙のこととか」

 それは、初めてリタの口から初めて聞く両親の話だった。

「顔もちゃんと覚えてないけど、たぶん探したら写真とかあると思うけど、ちゃんと見たことないし、わかんないけど……でも、世界には、いろいろなエネルギーとか、そこにちゃんとあるのに、目には見えないものがたくさんあるんだって分かって」

 だんだんとリタの口調には熱がこもっていった。

「いろいろ、全部知りたいと思って、家に置いてあった本、全部読んで、図書館にも行って……でも、一つ知ったらどんどん知らないことが増えて、それをずっと追いかけてって……楽しかったけど、ちょっと怖かった、いつになったらあたしは分かるようになるんだろうって」

「そんなもんよ、学ぶってことはさ」

 数度瞬きをして、何か言いたげにじっと睨まれる。教師みたいなこと言うのね、とか、そんなところだろうか。

「だから、いつか、あたしはあの空の向こうに行って、星に触ってみたい。それだけじゃなくて、本当はあるのに見えないものを、ちゃんとあるってこの目で確かめたい」

 そこで、しまった、というような顔をして、うつむく。

「そっか、ありがと、聞かせてくれて」

「で、結局、なにが聞きたかったの?」

「いや、そういうことがが聞きたかったんだけど」

「なんでよ」

 すうと一つ息を吸い込み、さきほどの彼女と同じように、準備室の中を軽く見回して、窓のほうを向いた。

「おっさんも、リタっちほど大層じゃないけど、ちょっとだけ似たようなこと考えてたなって」

「おっさんが?」

「別に小さい頃からとかじゃなくて、しかも自分からでもなくて、友人のさ、影響を受けてね」

 切り取られた青空を、一羽の鳥がすばやく横切る。

「まあそれが優秀な友人でさ、適当に過ごしてたところに出会って、いろいろ感化されちまったってわけ」

「昔もそんなだったの?」

「そんなって何よ、そんなって? まあ、そうね、あんま真面目とは言えない奴だったかもねえ」

 だだっ広い部屋の喧噪を思い出す。上辺で話を繋ぎ、日々を塗りつぶすことに違和感を抱きながらも、それに慣れきっていた。

「そいつに、いきなり研究室に引っぱり込まれてさ、いろいろ見せられて、話聞かされて、そこからいろんなことが変わって、まあ、けっこう楽しかったかな」

「どんな研究だったの?」

 無意識に、胸元に手が行った。

「ああ、そうね……ざっくり言うと、ヒトの体とか、生命現象を解明して、技術的に役立てられるようにする、みたいな……そんな感じかな、模型とかたくさん作ってさ」

「ふうん、そんなことやってたんだ」

「意外?」

「べつに、とくには」

「あらそう……」

 リタの言い方は淡泊だったが、視線はずっとレイヴンをとらえていた。それを見て、改めてリタのほうに向き直る。

「だからさ、リタっちがそんな風に考えてるんだって分かって嬉しかったよ、ほら、一応そういう夢叶える手伝いするのがさ、おっさんの仕事なわけだし」

「夢なんて……そんな大げさなもんじゃないわよ」

「いいよ、夢なんて、軽い気持ちで夢って言っちまえばいいんよ」

 リタはどこか納得がいかなさそうに、けれど少しだけそわそわと、落ち着かない様子でいた。それが彼女の喜びのあらわれだと、やっと分かったような気がした。

「ゆめ……」

 初めて名前をもらった生き物のように、こわごわと口にする。声に出しても、音になっても、はじけて消えてしまわないか確かめるかのように。そんな様子が、とても愛らしくて、眩しくて、目がくらんだ。

――私たちが知りたいと思ったことは、きっと誰かのためになるわ。

 彼女はいつかレイヴンには想像もつかないほど遠くへと行くのだろう。この準備室でたまたま一時交わった道は、すぐに分かたれる時が来る。けれどそれまでは、ここに立ち寄った彼女がいつか飛び立つまでは、そんな風に思うと、胸がひりつくように鋭く痛んだ。

 

 

 

 空がうっすらと白んでいた。間を埋めるためにかけていたCDはとっくに最後の曲が終わり、車内は静かだった。

 リタはついさっきサンドウィッチを食べ終わり、ミルクティーの缶を指でへこませて音を立てている。海岸線をのぞむ道を少し走ると、ある程度の広さがある駐車スペースが見えてきた。そこからすぐ先はもう白い砂浜だった。他に一台も車のないその場所に車を停める。フロントガラスの向こうには真っすぐな水平線が引かれていた。ぼんやりとした光の帯がそのあわいに沿って伸びている。

「やっと着いたねえ」

 シートベルトを外し、何回か肩を回して凝りをほぐす。リタの視線は前方に釘付けだった。広がる光景を目一杯見つめようとする、真剣な眼差しだった。レイヴンも同じようにガラス越しの海を見た。何年ぶりだろうか、と思うも、答えは見つからなかった。そんなことがどうでもよくなるほど、目に映るものにとらわれていた。今ここでリタと海を眺めていることがとても不思議で、時間も感覚も失われていくような気がした。もうそろそろ浜辺に出てみる、と声をかけようとしたが、この空気がこわれるのが嫌で、ここから動きたくなくて、何も言えないでいた。

「なんで聞かなかったの」

 ふいに言葉が発されて、レイヴンはそれが音だとわからずに、数秒間反応ができなかった。

「ああ……何を?」

「あたしが、なんで夜中に押しかけてきたのかとか」

 かしゃん、とリタがカップホルダーに缶を置く。

「ん……聞いたほうがよかった?」

 答えは返らない。

「そうよね、聞いても答えてくれないかなって思ったし、じゃあいいかなって」

 底に少し残っていた缶コーヒーを飲みほしながら、一応押しかけてきた自覚はあったのか、と思う。形の違うふたつの缶がカップホルダーに並ぶ。

「……夢を見たの」

 色あせた海から波が来る。

「あんたが、ひとりで、氷の海の上に立ってて、あたしはどこにいるのか分からなくて、ただそれを見てた」

 風がいくらか吹いているのだろう。勢いのついた波がざぶりと打ち寄せるも、車内までその音はほとんど聞こえない。

「おっさん、寒いのは苦手よ、そんなとこ行きたくないわ」

「そうだと思って、呼んだけど、あんた振り返りもしないから」

 灰色の空に細かな雪が舞って、硬く凍りついた海が一面に広がる様が脳裏に浮かんだ。凍った海は、写真や映像でしか見たことがないのに、なぜか在り在りと思い描けてしまった。想像しただけで寒気がして体がつめたくなっていく気がした。

「振り返りもしないで、どんどん背中が遠くなっていって、前が白くて見えなくて、すごく、寒かった」

 リタは実験結果を報告するかのようにつとめて淡々と話していたが、最後のほうは、そこにいたことを思い出したかのように、声が少し震えた。

「それは……なんというか」

 悪い夢だったね、そう言おうとして言い留まった。良い夢ではないかもしれないが、悪いと言い切ってしまうのも抵抗があった。

「その夢が、海に来たかったことと関係あるの?」

 そう言うと、リタはこちらを向いた。大きな瞳がレイヴンをとらえる。いったんその視線の強さを意識すると、もう逸らせなくなった。

「あんたが、いなくなるかもしれないって思って」

 どくりと大きく鼓動が響いた。とっさに胸元を押さえようとした。けれど手はかたまって動かなかった。

「目が覚めたとき、なんか、よくわからないけど、今すぐ行かなくちゃって思ったから、だから、来たの」

 胸元を固定したままのシートベルトをぎゅっと握りこむ。暗い部屋に響いた、切羽詰まったようなノックの音を思い出す。

「それで、それだけで、家まで来たの?」

 とたんに泣き出しそうに顔をしかめて、唇をぎゅっと引き結んだ。否定の言葉はなかった。――そんなことで? レイヴンは自分でも驚くほどに動揺していた。鼓動が速まり耳を打ち、喉が狭まるような感覚がした。大丈夫よ、それはただの夢で、いなくなるなんてそんなことないよ――そう言おうとしてうまく笑えなかった。何を言っても見透かされそうな気がした。借り物の心臓が軋む。自分を助けに来たために命を落とした〝彼女”の一部が、責め苛むように音を立てる。

「ごめんね」

「……なんで謝るの」

「こんなところまで、来てもらったからさ」

「なにそれ、運転したのはおっさんでしょ」

 心なしか返す声がやさしい気がして、ちゃんと受け止めたくて少しの間だけ目を閉じた。胸の奥がほろほろと解けて、輪郭のくずれたそれは不思議なあたたかさを持ってそこに留まっていた。そのまま送り出されたものがあふれ出るように、そっと目を開いた。そこは朝だった。海に行こうとしていたことを思い出した。隣に座る少女とふたりで。

「行こっか、あそこまで」

 ガラスの向こうの海を指さす。リタは無防備な表情のままで頷いて、シートベルトをようやく外した。

 

 

 

 繰り返す波音と、海をわたる風の音が海岸には満ちていた。階段を下りて、砂に足をつけると沈みそうになった。リタがそれを見て呆れたように首を傾げる。いつもと違ってカチューシャで留められていない髪がぶわりと巻き上がる。それを手で押さえながら、一歩ずつ波打ち際に向かって進んでいく。

「転ばないようにね」

「そんなドジしないわよ、おっさんじゃないんだから」

「言ってる間によそ見してると、ほら、危ない」

 リタが踏みしめようとしていた場所には空き瓶が埋まっていた。慌てて飛び退くように足を上げて、その拍子にぐらりとバランスを崩す。傾いた肩を急いで支えた。

「……あ、ありがと」

「こうやってゴミが埋まってることがあるからさ、気をつけないとね」

 掘り出した瓶はラベルの剥がれた跡があり、口のところにコルクが針金と一緒にぶら下がっていた。近くにごみ箱も見当たらないので、そのまま片手に持っておくことにする。

「ああ、あれが……」

 ふと振り返ってみると、遠く続く堤防の向こうに石造りの灯台が見えた。明かりは灯されていなかった。

「あれ、灯台?」

「うん、パン屋の人が言ってたのよ、灯台があるって」

「そんな話してたの」

「何の話してたと思ってたの」

「べつに、興味ないし……」

 さっきは不機嫌になっていたのに、とレイヴンは見えないようにそっと笑う。あの上にのぼって海を見渡せば、きっと何もかも見えるのだろうか、そんなことを考えながらしばらく眺めていた。

 それから何歩か進んで、あと一歩踏み出せば足が波にさらわれてしまうところまで来た。白い空を映す薄暗く寒々しい海を、ほんの一筋の光があたためていた。

「それ、どうするの」

 レイヴンの片手に持たれたままの空き瓶を指さす。瓶の口を持ったままそれを空にかざしてみる。

「なんか入れて、流してみる?」

「なんかって、何を」

「そりゃ、こういうのは手紙とかが王道でしょ、レターボトルって知らない?」

「誰に書くのよ」

「誰でなくてもいいんじゃない」

 しかしポケットを探るも、何か書けそうな紙は見当たらなかった。と、ふと思い出して、財布を開く。

「でも、さっきパン屋でもらったレシートくらいしかないわ」

「……これになんか書くの?」

「やりたくなかったら、いいけど」

 リタは、瓶と、水平線と、自分の足元を順に見て、しばしの間思案する。

「貸して」

 レイヴンに向かって手を差し出す。レシートを半分に折って、二つに千切った片方を渡す。

「書くものは?」

「ジャケットにボールペン入ってた」

 内ポケットから黒いペンを出して、それも渡す。受け取ると、手のひらを支えにして紙を固定し、ペンを揺らしながら少し悩んでいるようだった。

「ちょっと、見ないでよ」

「だって、リタっちが書き終わるまで暇だし」

「そのへんで貝殻でも探してなさいよ」

 仕方なく少し離れ、砂浜を靴の先で掘る。割れた貝殻はいくつも散らばっていたが、ちゃんと形が残っているものはなかなか見当たらない。

「……お」

 きらりと何か光った気がして、そこまで歩いていく。橙色の何かが砂の中に埋まっていた。指先で掘り出すと、それは巻き貝の一種のようだった。砂を指で落とすと、ざらりとした模様が浮き上がる。

「ちょっと、書いたわよ」

 リタがこちらに向かって歩いてくる。

「貝殻見つけたよ」

「うわ、ほんとに探してたの」

「そっちが言ったくせにさあ……ほら」

 手の中にある貝殻を見せると、リタはのぞき込むように顔を近づけて、指先でちょんとつついた。

「いる?」

「せっかくだから、一緒に入れたら」

「ん、でも口が小さいから、入らないかも」

 貝殻を瓶の口に近づけてみると、案の定、口よりも少しだけ大きいようで、すんなりとは入りそうになかった。

「ねじ込めば入るかもだけど」

「じゃあ、あたしが持っとく」

 貝殻と、紙とペンを交換する。二つに折りたたまれた紙にちらりと目を走らせると、強く睨まれたので黙っていったんポケットにしまう。

「どうすっかな」

 瓶を足元に置き、砂の上に座り込む。リタは立ったまま海を眺め、貝殻を耳に当てていた。

「なにか聞こえる?」

「……ざぶざぶ言ってる」

「それはどっちの音?」

「わかんないわよ」

 そう答えながらも、リタは貝殻を耳から離さなかった。薄茶のコートの裾がぱたぱたと風にひらめく。予感していたのかもしれない、と気づく。どうしてか借り受けてしまった分不相応なものを早く返さなければと思っていた。だからずっとその日が来るのを待っていた。けれどもう、それができない理由を、レイヴンはとうに見つけていた。

――俺はここにいるよ。

 ただ一言、それだけを書いた。レシートの紙はふにゃりとしていて、案外書きづらかった。

「ほい、書けた書けた」

 レイヴンは立ち上がり、折りたたんだ紙を瓶の口に指で押し込み、はらりと滑り落とした。

「リタっちのも入れるよ?」

「いいわよ」

「何書いたかは、教えてくれないの?」

 リタは当然でしょ、というように顔をしかめる。もう一つの紙もはらりと滑り入れる。瓶の底に小さな紙が折り重なるように入った様は格好がつかず、なんとなく可笑しかった。

「なーんか思ってたのと違うわね」

「紙が貧相だからでしょ」

「しゃーないでしょ……」

 コルクで蓋をして、もう一度リタの方を見た。早くやらないの、と視線で促されて、瓶を足元の水に浮かべる。波がざぶりとやってきて、少しずつゆらゆらと、遠くへ押し流されていく。波間に揺れるその影を見失わないように目を凝らす。無意識のうちに一歩、足が前に出た。くるぶしまで水に浸かり、靴の中まで入ってくる。それに構わずに、遠ざかっていく瓶をそこに立ったままで目で追いかける。やがてそれはとぷりと沈み、見えなくなった。レイヴンは両腕を広げ、海風をいっしんに受けた。磔にされたひとのように。体が傾き、そのまま、目の前の海に倒れ込んだ。

「おっさん⁉」

 全身がばしゃりと水に叩きつけられる。頭から足先まで水浸しになり、潮の流れにさらわれそうになる。呼吸が一瞬できなくなる。

「ちょっと、なにやってんのよ!?」

 リタの手が、腕をつかんでいた。そのまま海中から引きずられて、波打ち際にふたりで座り込む。

「あたしまで濡れちゃったじゃない……」

 髪からぽたぽたと雫が垂れて、こめかみから耳を伝っていく。冷えた風が体の温度を下げていく。リタも少し海に入ってしまったようで、コートの裾が濡れていた。それでも、腕をつかんだ手は離されることがなかった。レイヴンは、水を含んだ重い腕を動かして、そのままリタの体を抱きしめた。寒さに震える肌にじわりと温もりが伝わり、ひどく安心した。

「……ありがとう」

 その体はとても小さく思えた。リタの指が肩にかけられ、ぎゅうと、強く強くつかまれる。波がばしゃりと打ち寄せ、さらに水を被る。水平線の向こうから解き放たれようとしている朝の陽が、冷えたふたつの体を包み込む。

――帰ろう、この子と一緒に。

 潮はだんだんと引いてきていた。海から打ち上げられた魚のように、リタとよろめきながら立ち上がり、二本の足で砂を踏みしめる。二つの影が伸びる先をレイヴンは見た。リタが持っていた橙色の貝殻が、確かにそこに光っていた。