いつか月と帰るまで


 三つ、約束をした。

 一つ目はちゃんと食べること。これはできる範囲でなんとかしている。二つ目はちゃんと寝ること。これも可能な限り努力している。リタはふわあと大きなあくびをひとつして、のそりと起き上がった。

 窓の外を見ると、丘の上に立つ立派なハルルの樹の向こうに丸い月が浮かんでいた。月光に照らされた樹は、街はずれのこの小屋からだととても大きく見える。ランプの灯しかない部屋からは夜がとても明るく見えた。手帳を開かなくても分かった。明日は約束の日だ。

 

 

 

「ちょっと、あいつどこにいんのよ」

 リタがいきなり切り出すと、椅子に座ったハリーは目を丸くしたあと、はあと重いため息をついた。

「俺は知らねえよ」

「あんた一応あいつの上司でしょ? 部下の行き先くらい把握しときなさいよ」

「一応ってなんだよ……今は別に俺から直接何か頼んでるわけじゃねえからな、それにギルドは騎士団と違って縦に監視するような組織じゃねえんだよ」

「騎士団とケンカするのやめたんじゃないの?」

「違いを言っただけだろ」

 もうここに用はないとリタはさっさと踵を返す。と、ハリーに呼び止められる。

「おい、あんたに渡せって預かってるものがあるんだ」

「は? 誰から」

「お前の探してる奴からだよ」

 ハリーは心底面倒そうな顔で小さな包みを取り出した。可愛らしい赤の包み紙をじっとながめたあと、思いきり破いて開けた。猫の形の手帳と、飴玉の入った瓶が出てきた。手帳は手のひらにおさまる大きさで、表紙の猫の顔がとっても愛らしい。瓶の中には色とりどりの飴がつまっていて、きらきらと光を反射している。

「……あいつ……ふざけんじゃないわよ……!」

 可愛い、と一瞬跳ねた心がそのまま怒りへと変わって走り出す。リタは扉を体当たりするように開けてギルド本部の部屋をあとにした。

「……おい、逆効果みたいだぞ」

「あちゃあ」

 レイヴンはソファの陰から顔を出して苦笑いした。

 

 

 旅が終わり、さまざまなことが変わった。ともに過ごした仲間たちは世界のためにそれぞれの場所で動き出した。リタはハルルの街に小屋を建てて暮らし始めた。

「あいつ……どこで何してんのよ!」

 リタはダングレストの広場でようやく走るのをやめて息をつく。レイヴンが帝都とダングレストを行き来して忙しくしていることは知っていた。だから、月に一回リタに会いに来るのは難しいだろうと予想していた。レイヴンに無理やり言いつけたときから分かっていた。そして瞬く間にひと月、ふた月、それ以上が過ぎ、そんなに忙しいならとわざわざこっちから出向いてきたのに所在不明だという。それだけならよかったが、レイヴンはリタがやってくるのを見越して、贈り物まで用意していた。まるでリタの前に姿を現せないことを詫びるかのように。

「こんな手帳、人前で使えるわけないでしょ! なに考えてんのよ」

 でも可愛らしいのでついポケットから取り出して見つめてしまう。猫の愛らしい顔を見ているとだんだんと怒りが鎮まっていく。そのうち何に怒っていたのかわからなくなってきた。

 リタはゆっくりと当てもなく歩き始めた。疲れていたが、せっかくダングレストまで来たのにすぐに帰るわけにもいかなかった。この街には不慣れなのでレイヴンのいる場所など見当もつかない。もしかしたらこの街を離れてどこかへ出かけている可能性だってある。それでも、できる限りのことはしようと思った。

 

 まず、酒場に行ってみた。お嬢ちゃんどっから来たの、とかあれこれ声が飛んできたが全部無視した。マスターに尋ねてみたところ、三日前はここで飲んでいたらしいが、それから見ていないという。

 それから市場で聞き込みをした。レイヴンを知っている店主の話によると、昨日姿を見かけたような気がするとのことだった。その辺りに歩いているギルド員らしき人間にも聞いてみた。危うく精霊術の実験を繰り広げるところだったが、人が集まってきた隙に逃げた。街中でぶっ放してしまったらハルルに帰れないところだった。

 

 路地を走り抜けて家々の裏手を伝っていくと、いつの間にか開けた場所に出ていた。上には暗くなっていく空が広がり、下には街の入り口から伸びる大通りが見えた。高台に吹く風は少しつめたくて気持ちがよかった。ちょうど小さなベンチがあったので腰掛ける。夕暮れの街はもうすっかり夜に覆われている。半円の形をした月が所在なげに浮かんでいて、傾いた船みたいだと思った。リタはポケットから飴玉の瓶を出して、ひとつ口に放り込む。甘さがじんわりと広がる。リタの好きな味だった。

 レイヴンは昨日までこの街にいた可能性は高いが、今日になってまったく足取りがつかめない。たまたま用事で出かけていて、もしかしたらリタが来るのをどこかから知って、本当に詫びの印として贈り物を残していったのかもしれない。けれど、そんな風に都合良く考える気にはなれなかった。リタはどこかで気付いていた。レイヴンがリタに会いに来ないのは、忙しさ以外の理由があると。

 後ろで気配がかすかに動いた気がして、リタはすっくと立ち上がる。そして懐の装置に指先をしのばせた。

「無慈悲なる業火……」

「ちょっと待って! いきなり無慈悲は! というかもうそんなすごい精霊術実用化したの!?」

「実験段階よ」

「気軽に実験台にしないで……」

「何しにきたの、隠れんぼは終わり?」

 レイヴンは街灯の陰からひょこひょこと出てくると、困ったように頭をかいた。

「えらいお怒りね」

「べつに怒ってないわよ」

「いやそんな怖い声で言われても」

「じゃあ」

 リタは少し離れて立っていたレイヴンにずんずんと近づき一気に距離を詰めた。

「今すぐ診せて」

 シャツをひったくるように掴むと、すぐに止められた。リタの手をつかんだレイヴンの手はかたく震えていた。それだけで十分だった。

「……やっぱりね」

 リタはだらりと両腕を下ろした。レイヴンにつかまれたところは少しも痛くなかった。それがとても悔しかった。

「あたしに診られるのが、そんなに嫌?」

 レイヴンは何も答えなかった。

「それとももうどうでもいいって思ってるの? その子のこと」

「……そうじゃなくて」

「じゃあどうして来なかったのよ……!」

 口の中に残っていた飴玉の欠片を噛みつぶす。じゃりじゃりと粉々になった飴玉を飲み込んで、黙ったままのレイヴンを睨む。一方的に言いつけただけで、リタのもとに来ないことは予想していた。けれど当然のようにずっと姿を現さず、便りも寄越さず、けれど贈り物だけは残していって、こんな風に突然目の前に現れる。リタはレイヴンを見つけることができないのに、レイヴンはリタを見つけても隠れたままでいる。見つけたいのは、会いたいのはリタだけなのだと思い知らされるのが嫌だった。

「めちゃくちゃ忙しかった……って言っても信じてくれないよね」

 レイヴンが口を開いても、リタは顔をあげなかった。

「じゃあ手紙とか人伝に何か伝えるなりしろって話になるわな……うん」

 リタはそのまま脇を通り抜けて歩き去ろうとする。とっさにレイヴンの腕がそれを止める。

「会いたかった」

 リタは目を見開いてレイヴンの見たこともないような顔を見つめる。

「リタっちに会いたかったけど、まだ、覚悟決められなくて」

「……覚悟って、なによ」

 レイヴンは迷うように目を逸らした。こんな風に言いよどむのを見るのは初めてのような気がした。誤魔化したり逃げたりするのがいつものことだったからだ。リタはそのままじっと答えを待っていた。夜風がぴゅうと吹き抜けていく。

「リタっちに……命預ける覚悟」

 低く、ゆっくりとそう言った。あまりにも真剣な顔で言うので、リタはなんだか可笑しくなってきて、ふっと笑みをこぼした。

「ちょ、なに笑ってんの」

「ううん……おっさんが面白いから」

「なにそれ、リタっちひどい……おっさんの一世一代の告白を……」

 リタは深く息を吸って吐いて、そばにあったベンチの背に手を置いた。深い夜空に光る月を見つける。

「ここ、いい眺めね」

「ん、そうね、この街にはめずらしく静かな場所だし」

 さっき見たときよりも、月は少しだけ高い位置にあった。傾いた船に見えたそれは、沈まずだんだんと空の天辺に向かっている。これから上っていくから天を目指す傾いた形なのかもしれない。そんな取り留めもない空想が浮かんだ。

「ハルルだとあの月が樹の上に浮かんで、綺麗よ」

「そっか、リタっちは毎日それ見放題なわけだ」

「そうよ、だから……あんたも見に来なさいよ」

 しばらくの沈黙のあと、レイヴンが参ったね、とぽつりつぶやく。こうして二人並んで空をながめるのはいつ以来だろうか。一人でいると、積み重ねた時間がどんどん押し流されていくのが怖かった。時間が経てば経つほど、レイヴンはリタの言葉を忘れていくかもしれない。なかったことになるのかもしれない。そうしてリタの知らない場所に行ってしまう。そんな馬鹿げた想像を何度も繰り広げては打ち消すのにじゅうぶんな時間が経っていた。

「わかった、約束する。会いに行くから」

 とても真剣な顔でリタを見つめた。今度は笑わなかった。静かに頷いて、また同じように空を見ていた。時折月明かりに照らされた横顔をちらりと見ると、なに? と微笑むので、首を振る。月に向かって手を伸ばしてみた。いつかあそこに行きたいと話せば、レイヴンは笑うだろうか。今なら言ってもいい気がしたが、言わなかった。いつかとっておきのときに話そうと決めた。

 

 

 

 窓を開けると、つめたい夜風がふわりと流れ込む。ひらりと花びらが一緒に舞い込んでくる。窓際の棚に置いた瓶には、あとひとつだけ飴玉が残っている。リタは窓から手を出して、ふたつの指でそっと丸い月をつまんでみた。月が飴玉ならどんな味がするのだろう。いつか解明してみたい気もした。

「あしたね」

 薄着でいると寒くなってきたので、窓を閉めてベッドにもぐり込む。シーツについた花びらをそっと枕元に置く。今まで一度も来なかったのに、どうして明日は来ると思っているのか、自分でも不思議だった。けれど、ちゃんと交わした約束を信じてみたかった。だから、きっと来る。それに勘には自信がある。

 起きたら、まず調理道具を借りにいこうと思った。とりあえず食事をとっているところを見せなくてはいけない。それから少しくらい部屋も片付けておいたほうがいいかもしれない。絶対にうるさく言われそうな気がする。そんな想像をしていたらうっかり寝過ごしてしまって、そのうち足音が聞こえてくるかもしれない。目を閉じて耳を澄ましてみる。静けさのなかに遠くから声が聞こえた気がした。体がふわりと宙に浮かぶ。

 

――いま行くから、そこで待ってて。