『恋』の続きみたいなものです。
ちょっとあのままだと歯切れが悪いなーというのと、あまりにもおっさんが情けなくないか?と思って続きっぽいものを書きました。ちょい甘シリアスです。
本当にそのまま続いている話なので、『恋』を読んでからこれを読んでいただけると嬉しいです。
ずっとそこは静かだった。
かすかな音をたてる暖房器具に備え付けてある、水の入った四角い容器を見やった。その水は水蒸気になって、しゅう、と白くたちのぼる。
ふたりきりのこの世界は、まるで水槽のようだと思った。青い水の中にいながら、レイヴンは長い間ふらふらと漂い、リタのまっすぐさから逃げながら、ここから出られないことを知っていたような気がした。
「わかったよ」
レイヴンは、立ったままだったリタに座りなさいな、と手で床をぽんぽんと叩いた。リタは腑に落ちない表情をしてしぶしぶといった感じですとんとレイヴンと向き合って座った。
「おっさんも、わかったような気がしたよ。リタっちの実験のおかげで」
「わかったって……なにがよ」
リタはお腹のあたりで自分の手をぎゅっと握りしめた。
「ずっと見ないふりをしてきたってこと」
水の中は苦しくて、早く出なければどうにかなってしまうと思った。それは得体の知れないものから逃げようとした自分の臆病さでもあった。
でもリタはまっすぐにこちらに来て、迷うことなくレイヴンをとらえた。ここにずっといればいつかはそうなることは分かっていたのだ。
「ずっと苦しくて、怖くて、それがなにかもよく分かってなかったけど、リタっちのほうが最初から分かってたね」
「……苦しかったの?」
心配そうな顔をしてのぞきこむ。
(ああ、そうしてすぐにそんな顔をする)
胸の中にうずまく苦しさが喉までせり上がって、また少し下がった。
「大丈夫大丈夫、リタっちのせいじゃないし、心臓の調子が悪いわけでもないから」
レイヴンは胸のあたりを見つめる視線に気がついて、そう返した。
リタは不安げな表情を変えなかった。胸のあたりがまたぼんやりとした痛みに包まれる。この痛みは、どうしたら消えるのだろうとレイヴンは思った。
ここから出たいのに。でも、ここにいたい。
「……リタっちは、どうしておっさんのことなんか好きになっちゃったの」
ふっと笑って言った。自分の身が浮き上がりどこかへ吹き飛ばされそうな、そんな不安を覚えた。
「…………しらない」
わからない、とは言わなかった。リタは頬を染めてむすっとした顔でそっぽを向いていた。
レイヴンは、気が付けば手を伸ばしリタを抱きしめていた。座ったままでも、リタの体はすっぽりと腕の中に収まった。
温かい、そう思った。同時に、得体の知れない不安はじんわりと溶けていくような気がした。ここにいれば、もう逃げなくて済むんだと。
「……あったかい」
リタが胸に顔を埋めたままそう呟いた。
「リタっちのほうがあったかいよ」
「なによ……子ども体温って言いたいの」
顔を上げたリタを引きよせ、レイヴンはそのままリタの唇にそっと口づけた。
リタは少し身じろいだが、頬を手のひらで包むと、小さな手をそっと背中に回した。
「さっきリタっちのほうからしてきたときは、平然とした顔してたのに」
そう笑って頬を撫でた。リタの頬は熱く真っ赤に染まっていた。
「うるさい」
「ああいうこと、ほいほいやっちゃダメよ?リタっち自覚ないんだから」
「あのときは、あれ含めて実験だったのよ」
「あら、計画的だったのねえ」
レイヴンは笑いながら、もう一度唇をあわせた。どうしても温かさを感じていたかった。
(でないと、また怖くなってしまう)
レイヴンは間近でリタの瞳を見つめた。綺麗な翠のなかに、不安げな顔が揺れている。このまま吸い込まれてしまいそうだった。そこに閉じ込められてもいい、と思えた。
「おっさん」
リタがふいに口を開いた。
「なに?リタっち」
「あたしのこと、どう思ってたの?」
虚をつかれた。レイヴンは数回瞬きをしてみせて、しばし考え込んだ。
「具体的にって言われると困っちゃうけどな……」
苦しさはきっと最初から恋だった。まっすぐに愛された戸惑いは、ずっと胸の中に積もっていた。そして、逃げることがお互いのためだと思っていた。
(ほんとうは、なにから逃げていたんだ)
リタが自分のために一心にしてくれることを嬉しいと思いながらも、このままではだめだと、リタはここにいてはいけないと思い続けていた。自分の世界に閉じ込めてはいけないと。
手の届かないところへ行きたかった。行ってほしかった。そうすれば、水槽は空っぽになって、レイヴンはその片隅でなにも見なくて済む。
「おっさん」
リタが再びレイヴンを呼ぶ。リタは手を伸ばし、レイヴンの頬にそっと触れた。
「なんで、そんな顔してるのよ」
リタにそう言われ、レイヴンははっとして自分の顔に手をやった。頬が濡れていた。
「あ……いや、これは……なんでだろ、ちょっとさ、目が乾いてたのよ、はは」
慌てて言い訳をするレイヴンに、リタはぎゅっとすがり付いた。腕をゆっくりと回して、背中をやさしくぽん、ぽんと叩いた。
「こわかったのね」
リタはレイヴンの胸の中でそっと言葉をつむいだ。
「ずっとこわかったのに、あたしがこじ開けてしまったのね」
レイヴンははらはらと涙が落ちるのを感じた。震える手でリタの背中に手をまわす。
レイヴンが恐れていたのは、なによりも自分がリタの手をとって、引き返せなくなることだった。こんな何も持たない自分が。そして何も持たない自分がリタの手をとってしまえば、もうそれを離すことなど考えられそうになかった。
いつか失くすなら、なにも持たないほうがいい。
「大丈夫」
リタはやさしい声色で言った。
「大丈夫よ」
リタの声はレイヴンの胸にじかに響いた。
「あたしはここにいるわ」
それは歪な心臓を通じて、心の奥底に語りかけるようだった。
「あんな実験してまで、あんたをつかまえたかったくらいよ、どうしても、好きだったの」
リタの手に力がこもる。
「全部あたしの勝手でやったのよ。だから、どこにもいかないわ」
レイヴンはリタの声を聴きながらただ涙を流した。背中をゆっくりと撫でる手に、かすかな泣き声が唇のあいだからこぼれた。
「ごめんね」
「なんで謝るのよ」
「いい年したおっさんがぼろぼろ泣いちゃってさ、リタっちの服もちょっと濡れちゃったし」
「別に……気にしてないわよ」
レイヴンはリタの小さな手をとって、自分の両手でぎゅっと握りしめた。
「ありがとう」
そう言うとぱっと赤くなり、すぐにうつむいた。
「たまには泣いたほうがいいのよ、泣くことは科学的にも良いことって言われてるんだから」
「そっかそっか、いいことなのね」
レイヴンは穏やかな顔でうんうんとうなずく。
「リタっちが泣きたいときは言ってね、おっさんがぽんぽんってしたげるから」
「しなくていい。いらない」
「そ、そんな……」
リタはそばに落ちていたレイヴンの羽織を拾い上げた。
「泣きたいときは、これでも使って顔拭くわ」
羽織を頬に当てていたずらっ子のように笑う。それはあんまりだわ、と言いながら、レイヴンも顔を綻ばせた。
青い水は、いつの間にかなくなっていた。涙のように、水滴が流れ落ちた。
あとがき
おっさんを泣かせてみた話。
涙を流すのはストレス解消にとても良いそうですが、男性は泣くことに抵抗が強い方が多そうですよね。
頑張って甘くしてみようとしましたが今の自分にはこれが限界でしたね……。
リタが聖母のようだ。最近おっさん視点の話ばっかり書いてたので、次はリタのお話を書きたいですね。
ありがとうございました。