囀りと因果

アレシュ前提レイアレの話です。アレクセイ生存ifです。


城の端にあてがわれたその部屋は、音が届かず奇妙に静まりかえっていた。いつも誰もいない廊下を歩くときは、唾を飲み込むのが苦しいと感じる。扉を叩くと、かすかに中で気配が動くのがわかる。返事がある前に扉を開ける。度々の訪問を経て、そのようにして良いと言われた。

――足音で君だと分かるからな。

そう言った彼は、なぜか息を止めるときのような顔をしていた。

 

窓辺に立つ姿は、羽を閉じた立派な鳥のようでもあり、萎びた樹木のようでもあった。ゆっくりと振り返って、こちらをじっと見つめる。

「来ましたよ」

手土産をぷらぷらと振ってみせる。中身はダングレスト名物の菓子だった。アレクセイはちらりとそれを見やると、何も言わず窓辺から離れる。その体が、ベッドに向かって崩れおれる。

「アレクセイ……!」

駆け寄り、咳を繰り返して揺れる背中を撫でさする。青白い顔で苦しむその姿に、かつての騎士団長としての覇気はなかった。

「……また、君が来たときに限って、こんなことになる」

「俺がいないときに元気なら、まだいいですけどね……さ、横になったほうが」

体を支え、白いシーツに横たえる。広いベッドは大きな体躯を受け止めるには十分だった。罪人の療養室としては、ここは綺麗すぎるほどだった。

「……君は、本当に……」

アレクセイはそう言いかけて、途中で言葉を切った。枕元の椅子に腰かけ、聞き返したが答えはなかった。

弱ったかつての上官を見るのは気分が良いものではなかった。けれど、一度は死んだと思っていた彼が一命を取り留めていたと聞いたとき、心に沸き起こったのは紛れもなく安堵だった。運び込まれて初めて対面したときは、到底話せるような状態ではなかった。身体の外傷もさることながら、精神的にも錯乱した状態だった。

――殺してくれ。

そう、何度も呻くように叫んでいた。

元騎士団長アレクセイは、テルカ=リュミレースにおいて大罪人の立場にあった。しかし、彼の状態を鑑みて、その処遇は保留となっている。現在は、基本的にこの城の一室で一日を過ごし、面会は限られた者にしか許されていなかった。

「俺が会いに来るの、あんまり良くないですかね」

そう呟くと、アレクセイは両手を組んで、長く息をついた。咳の発作は落ち着いたようだった。

「……そういうことではない、ただ……君の、君を見るのが、辛いと感じるだけだ」

かすれた声が宙に漂う。痛みに耐えるように歪む彼の端正な顔を見つめた。紅い瞳がこちらを捉える。その視線に晒されると、さまざまなことが胸の内に蘇る。感じることを止めた心を揺さぶったこと。見つめられるといつも身が固まって逸らせなかったこと。そして、彼に与えられた痛みや苦しみ、息の詰まるような快楽さえも。

「……“俺”を嫌いなのは、よく知ってますよ、けど、どうしても、ここに足が向いてしまうんで」

部屋に向かうときは胸が苦しくなり、部屋を出るときはやっと呼吸できたように大きな息を吐くのが毎度のことだった。けれど、そうして次の日も、なぜか廊下を歩いているのだった。

「俺は、あなたに、死んでほしくはない」

覗き込んだアレクセイの瞳がゆっくりと見開かれる。組まれた両手が解かれ、左手がこちらへわずかに伸ばされた。その手を咄嗟に握った。引っ込められないよう、わずかに力をこめる。

「……君がそれを言うのか」

苦しげな声が耳に届いた瞬間、気がつけば唇に噛みつくようにくちづけていた。喉の奥でくぐもる呻きは、続きを紡ぐことはなかった。何度もぶつかるように唇を合わせると、最初つめたかったそれは温かな湿り気を帯びていった。髪に手を差し入れると、彼を見下ろすのは初めてであることに気付く。いつも降り落ちる毛先が頬にふれて、くすぐったいと思っていた。

視線が絡み合う。戸惑いと諦めの混じったような色だった。無性に腹立たしく、衝動が内側で激しく暴れていた。アレクセイがぱたりと両手をシーツに投げ出す。それを見て、今度は無性に悲しくなった。けれど、もう体じゅうを流れる熱の濁流にのまれて、引き返すことはできなかった。そうしてはじめて、その白い首筋を食んだ。

 

 

 

 

 

 

眠るアレクセイは、まるで彫像のように静かだった。もしも自分が彫刻家なら、この姿を象らずにはいられないだろうと思った。起こさぬよう、音を立てず抜け出て、扉へと向かう。テーブルには持ってきた土産の箱が置いたままになっていた。それを懐に回収して、そっと部屋をあとにした。

 

来たときと同じように、奇妙に静まりかえった廊下を歩く。凪いだ水面の上にいるような心地になる。胸に手を当てると、まだほんのりと熱を帯びていた。立ち止まって、呼吸を繰り返す。つめたい空気が体の中に流れ込む。きっと明日も、こうして歩いているだろうか。ふと唇に寄せた指先には、彼のこぼした涙を拭った感触が、いつまでも残っていた。