朝焼け色のあなたへ

2018年5月のテイルズリンク12で発行した、レイリタWeb再録本『tiny eden』に掲載していた書き下ろしです。

本編ED後、レイヴンが数年ぶりにダングレストへ帰ってくる話です。『煙草とあなたと私の家』の後日譚ですが、これ単品でも読めると思います。

 

初めて作った本に載せた、初めて書いたレイリタ小説にまつわる話なので、本当に書けて良かったです。

本をお手に取ってお読みくださった方、ありがとうございました。


 ダングレストへの帰還命令を受け取ったのは、少しばかり寒さの和らいだある日のことだった。

 命令書には、『人員入替につき』とだけ記してあった。

 

 寒空の下、武器をしまい込みながらほう、と息をついた。これで今日の任務は完了だ。あとは町に戻って報告をするのみだった。真っ白い息が風に流れていくのをしばし眺める。

「ダングレストか……」

 手ごろな石に腰掛けしみじみと呟く。昔、仲間に故郷を尋ねられたとき、その街の名前を答えた。それほど自分にとっては長く暮らしてきた街だった。その街を離れて、もうしばらくになる。世界を旅して回っていた期間よりも少し長いくらいの年月だ。

 この数年の間、俺は辺境の地におけるさまざまな仕事を請け負っていた。世界崩壊の危機から数年経ち、様々な人の努力の甲斐あって中央部の混乱は収まりつつあった。しかし、未だ辺境の困難にまで手が回っていない――ハリーからその話を持ちかけられたとき、俺は自分がその役目を引き受けると、即座に答えていた。物資の行き届いていない地域を回り、すでに現地にいるギルド員の補佐をすること。長期間を前提とした任務のため、ダングレストにはしばらく戻って来られないだろうと言われた。

『いいよ、その条件で』

『本当にいいのか? 別にレイヴンじゃないといけない理由はないんだ、他の奴に頼んでも……』

『いや、若い奴らが残った方がいい。そろそろ騎士団との橋渡しもどこかで降りる理由が必要だったしねえ、ちょうどいいでしょ』

『ああ、あっちのほうにも打診しないといけないな、そこは任せてもいいか』

『了解、明朝帝都に向かうってことで』

 ハリーは、急に黙り込んだかと思うと、書類からゆっくりと目を上げて、こちらをじっと見た。

『……何か、理由でもあるのか?』

 さすがドンの血を引いていると言うべきか、こういうことに関しては察しがいい。訝しんでいるというよりも、ただ案じてくれているのだと分かった。その顔に曖昧に笑いかけると、ハリーはため息をついて、椅子の背にもたれかかった。

 

 

 挨拶をしに行った凛々の明星の面々は、皆、引き止めようとしたり、何故このような任務を引き受けたのかなどと問うたりすることはなかった。今思えば、皆、薄々勘付いていたのかもしれない。それとも、自分で決めたことならと尊重してくれたのだろうか。彼らは俺よりもずっと若いのに、俺のほうが彼らに見守られている。それを感じるたび、胸の奥が少しくすぐったくて苦しくなる。

 ユーリとジュディスとは静かに握手を交わし、カロルには、レイヴンならできるよ、と励ましの言葉をもらった。パティは、餞別じゃ、と干しイカの詰め合わせをくれた。フレンは、自分に騎士団のことは任せるようにと、力強く言ってくれた。

『もう決めてしまったんですよね』

 エステルは、胸の前で手を組んでそう言った。

『すまんね、わりと急に決まったもんだから、いろいろと面倒かけたでしょ』

『いえ、それは全然……あの、レイヴン……』

 何か言いたげに口ごもる。言いたいことは分かっていた。口にするのをためらわせる何かが、あのときの俺には漂っていたのだろうと思う。

『リタっちのこと、よろしくね』

 そう言うと、エステルははっと目を見開いた。それから泣き出しそうになるのを堪えるように、ぎゅっと目をつむって、数回縦に首を振った。

 

 

 

 任務の報告を追えると、間借りしている小さな宿の部屋へと戻る。辺境での任務は、珍種の魔物に関する調査や討伐といった多少危険なものもあれば、物資が届かず困っている人々のために調達を行うというようなものもあった。戦う力を持たない人の護衛や、時には落とし物探しみたいなものまでやった。それは、かつての懐かしい日々を思い起こさせるものだった。

――なれるかどうかじゃない。なりたいかどうかよ。

 部屋の机に置いてある小さな箱を手に取る。金色のレリーフと、凹凸のある文字を指でなぞる。キャナリ、とあった。

「煙草の名前なんかにされちまってさ」

 初めてその銘柄を見つけたのは、ダングレストに来て間もない頃だった。元々、煙草はたまに嗜むことはあったが、ダングレストの酒場で目にするまでは、そんな嗜好が存在することも忘れかけていた。金色の艶やかな箱が特徴のその銘柄の名前は、かつて想いを寄せた女性の名前と同じだった。

 それからは、お守りのように懐に入れて、時に人のいない場所で吸うようになった。皆のように、酒場で騒ぎながら嗜む気にはなれなかった。そういう類のものではないと思っていた。

 しばらくぶりに取り出して火をつける。ここのところ忙しくて落ち着く暇もなかったので、煙草を吸うのもそれなりに久しぶりだった。少し苦みのある煙を吸い込む。頭の中が澄んでいくような気がする。それとも霞んでいるのだろうか。思考が浮かんではぶつかって、散らばって消えていく。

 

 あれから、ずいぶん遠くまで来てしまったと思った。様々な人と出会い、様々なことが起きた。そして、自分は今でも永らえて、ここでかつての日々を思い出している。

 いつしかこの旅を、決別の旅にしようと思った。レイヴンとして生きることを決めた生のために、何かをなしたいと思っていた。償いや罪滅ぼしとはまた違う何かを。騎士団とギルドの橋渡しという役目も、それは自分にしかできないことだと分かっていた。けれど、人の輪は優しすぎて、気がつけばどんどんそれに甘えてしまいそうになる。親しい場所から遠く離れて一人きりになれば、自分が本当になすべきことが分かるような気がした。

 そして、本当はその間に、いつか消える命の灯を、どこかで燃やし尽くしてしまいたいと思っていた。俺が死に瀕しても、誰も手の届かない場所で。

――死なないでよ。

 他の誰も言わなかった言葉は、あの子が口にするととても重たかった。まるで呪いのように、ずっと胸の奥にじくじくと音を立てて棲みつづけた。結果的に、帰還命令が下りるまでこうしておめおめと生き延びてしまった。もしかすると、俺はとことん悪運の強い人間なのかもしれない。思わずふっと笑う。

「……結局、何がしたかったんだろうなあ」

 ダングレストを発ってからさまざまな経験をしたが、はっきり何かをなしたと感じることはなかった。もうやりきった、ここで死んでもいい、と思えるような。それを見つけられなかったのは、自分が本当はそんな高尚な目的を持ってここに来たわけではないからだと、分かってもいた。

 長く息を吐きながらベッドに倒れこむ。疲れがどっと出てきた。俺は結局、ただ逃げてきただけだったのかもしれない。かつてあの街で共に暮らしていた、あの強くて眩しい少女から。

 

 

 ダングレストまでは船でおよそ三日の旅路だった。本気で帰ろうと思えば、いつでも帰れる距離にいたのだ。もっとも、一所に留まっていることは少なかったが。

 駆動魔導器を失った船は、エアルではなく風の力のみを借りて動く帆船に戻り、海精の牙の主導により貴重な流通手段として利用されることになった。最近では、水を温めることによって発生する蒸気を動力にする『汽船』が一部で運用されている。これは元アスピオの魔導士や研究員たちの主導によるものだと聞いている。

 乗船すると、研究員のローブをまとった客が三人、端のほうに集まって、資料を片手に何事か話していた。俺が滞在していた街と港は幾分離れているとはいえ、こんな辺境の地まで来ることがあるのだと少し驚いた。

――今、どこにいるんだろうか?

 ぼんやりと想いを馳せる。本の山に埋もれた少女の背中を思い出しながら。

 

 

 世界を変えた旅が終わり、それからしばらくの間リタとは一緒に暮らしていた。ダングレストには元々自分の借り家があり、自分の家をなくしたリタに、当面の住居として提供することにしたのだ。今となっては、なぜそんなことを言い出したのか分からなかった。ただ、困っている仲間の役に立ちたい。それだけのはずだった。

 一緒に暮らす前から分かってはいたが、リタは熱中すると生活のあらゆることを放棄する癖があり、そんな彼女に俺は食事を作り、部屋を片付け、時には机に突っ伏したまま眠る彼女を寝床に運ぶようなこともあった。

『なんで、そんなにいつもうるさいのよ』

 食事を抜いたことについて咎めると、リタはよく訳がわからないというように言ったものだった。自分でもわからなかった。なぜリタの世話を焼いているのか。自分はリタの何なのか。年長者だから、保護者だから、仲間だから――そうした理由をいくつも並べ立て、心の中で盾にして、俺は日々を過ごし続けた。

 

 

――おっさん。

 ハッと目を覚ます。シーツを敷いただけの硬い木の感触を背中に感じ、しばらく船室で眠っていたのだと理解する。誰かに呼ばれたような気がして、辺りを見回すも、すぐに馬鹿げたことをしていると気がついた。そのまま起き上がって、荷物から煙草の箱を取り出して、俺は甲板へと向かった。

 甲板への扉を開けると、強い海風がぶわっと吹き込んでくる。まだ日が昇ったばかりで、甲板には数人の船員の姿しかなかった。景色の見える端まで行き、欄干に腕を乗せてもたれかかる。ゆらゆらと遠くに見える水平線を覆うように空が朝焼け色に染まっていた。

 煙草の箱を開けて、火をつける手段がないことに気がついた。しばらく宿から火種を借りていたので、失念していた。今でも心臓魔導器の力を使えば簡単な魔術くらいは使うことができるが、俺には火の魔術が使えない。船員に声をかけて火種をもらおうか、と思って、上げた手を下ろした。そこまでしてどうしても吸いたいというわけではなかった。潮の香りでむせかえりそうな風を受けて、気分はいくらか落ち着いていた。

 そのうちいつか、こんなことにも悩まなくていいようになるのだろう。世界は驚くべき速度でどんどん移り変わっていく。自分の外側で。

 

 

 また眠って、目覚めてを繰り返す。こんなに長い時間じっとしているのは久しぶりだった。久々の、連れのいない長い船旅は少しばかり退屈に思えた。運動がてら船内を歩き回る。

 あてもなく廊下を歩いていると、ふと談話室から声が聞こえた。中を覗くと、そこには乗船時に見かけた研究員三人組がいた。まだ若い青年たちに見えた。一冊の本を囲んで座り、何事か話している。

「青年たち、何読んでるの?」

 なんとなく、気まぐれに声をかけてみた。三人は一様にこちらを見上げ、それから顔を見合わせた。やはりこんな中年がいきなり話しかけてきたら面食らうものだろうか。特にアスピオの研究員は人見知りで気難しい者が多いと聞いているし、なおさらまずかったかもしれない。

 そうして思案していると、穏やかそうな顔をした一人が答えてくれた。

「今年発行された『リゾマータの公式から読み解く精霊術』って本です。あの天才魔導士リタ・モルディオの著書が手に入ったので、三人で読んでたんです」

 突然出たその名前に俺は体をこわばらせた。示されたその本を食い入るように見つめる。緑と赤を基調とした、シンプルな装丁の本。著者の欄には『リタ・モルディオ』の文字。視界にその文字がいっぱいになり、拡大と縮小を繰り返し、頭の中で何度も反芻される。リタ・モルディオ、リタ・モルディオ――。

「よかったらどうぞ」

 研究員は俺の動揺に気づいた様子もなく、本を差し出してくれた。戸惑いながら両手で持ってみると、ずしりと様々なものの重さを感じた。きっとエステルなどの支援があったにせよ、こんな本を世に出すまでに至ったのか。ここにあの子が追い求めてきたものが、積み重ねてきたものが詰まっている。

「五年前くらいのあの世界壊滅の危機のときに、打ち立てた理論を元にしてるらしくて」

「リゾマータの公式を解き明かして証明したのは、歴史上彼女一人で」

「まだ俺たちより若いのにすごいよな、って話してたんです」

 三人組は熱を持った口調で次々と話してくれた。リタが研究員たちの間でどんなに偉大な存在であるか。真剣に魔導学を志す者たちにとって、どれほど憧れずにはいられない人物か。その話しぶりから、彼らは心からリタのことを尊敬しているのだと分かった。彼らの語る偉大な研究者と、本の山の中で眠りこけていた少女の姿は、なかなか結びつかなかった。けれど、リタは、俺と出会った頃から、いや、出会う前から、ずっと立派で偉大だった。あの家にいた頃からどんどん離れて、彼女はこれからもっと遠くへ行くのだろう。

「……貴重なお話ありがとさん、お前さんたちも、きっと大成するよ」

 三人は再び顔を見合わせた後、照れくさそうに笑った。

 

 談話室を後にして船室に戻ると、荷物から簡単な食糧を取り出して口にする。ぼんやりと椅子に背を預けて、三人から聞いたリタの話を思い出していた。あんな風に尊敬されているのを知ったら、リタは鬱陶しがるだろうか。それとも満更でもなさそうに照れてみせるのだろうか。瞼の裏でリタがくるくると表情を変える。その顔が、くしゃりと歪んで、あの日見た泣き顔に変わる。

 

『あたしのこと、嫌になったの?』

 旅立ちを告げた夜、震えた声で言われた。まさかリタが、そんなことを言うなんて思いもしなかった。俺にどう思われているかなんて、意に介したこともないと思っていた。その時、自分の判断は間違っていなかったのだと、安堵したのを覚えている。

 仮住まいの期間が長すぎたのだ。もう引き返せなくなる前に、俺は彼女の前から去らなければならないと思った。リタには才能も未来もある。こんな小さな家の中にいてはいけないのだ。リタが自分から出て行くのを待とうかとも思った。けれど、もう耐えられなかった。彼女と過ごすたびに、訪れるはずのない未来について望んでしまうことが。こんな日々がずっと続けばいい、そんな馬鹿げたことを望んだ自分からも、俺は逃げ出したのだ。

――ああ、よかったんだな。

 ほう、と胸の奥から息を吐く。俺がダングレストから、彼女の側からいなくなったことは、良い結果になったのだ。あの家から解放されたことで、リタはさらなる高みへ行くことができたのだと、そう思えた。

 ブォーンと低い音が聞こえて、まもなく到着する頃合いだと知る。ずっと考えごとをして過ごしていたせいで、立ち上がると腰が痛かった。荷物をまとめて、船室の窓から外を見る。水平線の先に懐かしい街並みが見えて、なぜだか、少し泣きそうになった。

 

 

 

 長い船旅を終え、久しぶりに目にした故郷とも言うべき街の様子は、さほど変わっていないように見えた。

 街を少し歩くと、相変わらず活気のある市場からの声が飛んでくる。ギルド員と思わしき若い衆が広場を駆け抜けていく。馴染み深い光景だ。唯一、目に見えて変わっていたのは、大通りを抜けた広場の真ん中に、噴水が据えられていることだった。噴水の周りにはベンチが置かれ、閑静とはいかないが、憩いの場として人々が思い思いに集っている。帝都の市民街を彷彿とさせた。

「ダングレストにこんな和やかな場所ができるとはねえ……」

 かつての物々しく騒がしい雰囲気の中に、温かさと優しさをより強く感じられるような気がした。街も人も、変わらないようでいて少しずつ変わっていく。懐にある箱を、布越しに軽く掴んだ。

 

 まだ定刻まで時間があった。大通りの呼び込みを横切って、馴染みの小さな雑貨屋に向かう。店内は以前と変わりなかったが、座っている店主の顔は見慣れないものだった。

「どうも、『キャナリ』一箱もらえない?」

 声をかけると、ぼんやりと座っていた店主は、ゆっくりと顔を上げてレイヴンを見た後、怪訝そうな顔をした。

「……『キャナリ』……っていうのは、何の名前ですかねえ?」

 そんなことを聞かれたのは初めてだった。少し戸惑いながら、懐から箱を取り出して店主に見せる。

「ああ、煙草の銘柄だったんですか、ふむ……」

 店主は顎に手を当ててしばらくの間考え込んだ。

「確か、この銘柄は、去年の暮れに生産終了になったんですよ」

「……生産終了?」

「そう、ちょっと煙草には詳しくないんでねえ……でも箱を見たら思い出しましたよ」

 綺麗な箱ですねえ、と店主は呑気そうに呟く。俺は手の中にある箱をぼうっと見つめた。驚きはしたが、不思議と、なぜか、悲しいという気持ちは湧いてこなかった。そういうこともあるだろうと、心はすんなりとそれを受け入れた。箱のレリーフが店内の灯を反射して、艶やかに光っていた。

 

 

「……技術提供計画?」

 帰還の報告のため、ギルド本部に向かった俺は、聞き慣れない言葉に首をかしげた。

「そう、そのために人員入れ替えが必要になったってわけだ、この辺の戦力が不足する見込みがあってな」

 ハリーは資料を片手に淡々と話す。椅子に腰かけるその様子は、数年前よりも落ち着きを増しており、ますます首領としての格を上げているように思えた。

「何か、ダングレストでヤバいことが起こってるってわけじゃないんだな?」

「特にオレが聞いてるものはないな、最近は」

「あ、そう……じゃあ、俺は、単に用済みになったから戻されたってことね」

「そういう言い方をするなよ……役目は立派に果たしてくれたよ、現におまえが仕事をした場所から、ギルド宛にたくさん手紙が届いてる」

 机の引き出しを開け、ほらよ、と封筒の束を渡された。

 両手に持った束は分厚く、軽い紙でもずっしりと重みを感じた。差出地には俺が今まで仕事をした町や地域の名前が書いてあった。中身を開くと、そこにはどれも感謝の言葉が綴られており、なかには知る名前から送られてきたものもあった。

「まだまだ混乱状態だった地域と、こんな風に繋がりを渡してくれたのは、間違いなくレイヴンの功績だ」

 ありがとう、助かりました、これからもやっていけます――立ち上がった人々の眩しい希望、そんな言葉の洪水に溺れてしまいそうだった。それが自分の為したことに対するものだとにわかには信じがたかった。それでも、逃げるように街を離れて、知らない場所を転々として、転がるように生きていたその間に、いろいろなものが積み上がり、変わっていったのだと改めて理解した。それは、自分を死人だと思いながら生きていた年月のことも、同時に思い起こさせた。

――いいか、俺はてめぇを見込んでんだ。

――とにかく、我々はシュヴァーン隊長を尊敬しております!

――勝手に死んじゃダメだからね。レイヴン!

 それらは知らないうちに、俺の周りに降り積もっている。そうして、それに気づいたときには、もう身動きがとれなくなっているのだ。

「は、はは……俺様、橋渡しばっかりしてんね、土建ギルドに鞍替えしようかしら」

「それが持ち味ってやつだろ、最初はどうなることかと思ったけど、結果的に正解だったな、感謝する」

 真面目な顔で礼を言われた。自分が小さな歯車の一つとして、少しでも何かを良い方向に動かしたらしいと、だんだん分かってきた。ちゃんと実感を持つのはまだ難しかった。もし俺でなくても、他の誰かがやり遂げただろう。けれど、今は素直に受け取るべきだと感じた。

「……こちらこそ、あのときは心配かけたけど、結果的に良い方向に進んだってんならよかったわ」

「……もう、気は済んだのか?」

 あのときと同じように、真っすぐな目で問われる。泥遊びから帰ってきた子どものような気持ちになった。自分の為すべきことを探して、ふらふら彷徨って、くたくたに疲れてここに戻ってきた。自由にさせてもらっていたのだ。きっと、黙って送り出してくれた仲間たちにも。改めてそのことに気づき、胸を押さえる。

「……少なくとも、収穫はあったとは言えるかもね」

 そう答えると、ハリーは椅子に背を預け、安心したように微笑んだ。笑うと幼いときの面影が見える。

「そういえば、さっき言ってた計画?ってやつ、何なの? 俺がいない間に何か始動したってとこ?」

「そうだ、技術提供計画、だな。広場にあった噴水、見ただろ? あれは新しい精霊術の成果の一つで、リタ・モルディオの主導で建設されたんだ」

 ハリーが少し身を乗り出して話す。この街にも彼女の成果は残されているのか。その名前を再び聞いて、動揺するよりも、もはや感服するほかなかった。

「……彼女、今は何してんの?」

「この街の技術監督、みたいなもんだな、確か、今はあんたが引き払った後の家に住んでるはずだ」

 思わず耳を疑った。リタは俺がダングレストを発った後、帝都に移ったはずだ。俺の家――リタと共に暮らした――は、とうに売りに出されて、誰か知らない人間が暮らしているか、取り壊されているかのどちらかだと思っていた。

 ハリーはこちらをしきりに見やりながら、何か言いたげに少し口ごもった。俺は混乱した頭を片手で支えながら、ハリーの次の言葉を待った。

「……それで、辺境への技術提供のために、研究員代表として、リタ・モルディオの派遣が決まったんだ」

 

 

 

 

 一気に情報を与えられて、頭が混乱していた。

 俺が今まで仕事をしていた地域には、そもそも物資が不足しているところが多かったため、数年前の魔導器を失った混乱のまま荒れ果てている場所もあった。そうした地域に、元アスピオの研究員とギルド員を派遣し、最新の技術を提供し広めることで、できるだけの格差を埋め人心の安定を図る――そのような計画らしかった。その計画の代表をリタが務めるという。俺と入れ替わるような形で、今度はリタがこの街を離れることに自分がどう感じているのか、把握することは難しかった。

 そして、リタがまだあの家に住んでいる? いったいどういうことなのか。どんな経緯で、何を考えて、そんなことになったのだろう。

 気がつけば、街外れまで来ていた。もうすっかり日も暮れていた。人波を避けて路地を進み、少し閑静な道に出たところに、その家はあった。見た目は、レイヴンが旅立ったときと少しも変わっていないように見えた。石造りの壁も、木の扉も。懐かしい気持ちに襲われて、打ち消すように首を振る。なるべく静かに、もし家主がいたとしても気づかれないように恐る恐る近づき、表札を見た。ひとつの名前が、不自然に下のほうに記されていた。――リタ・モルディオ。その名前の上、ちょうど表札の中央には、半透明の板で隠されていたが、なぜかもう一つ名前が書いてあった。

『レイヴン』

 

 

 俺はたまらずその場から駆け出した。リタのことだから、きっと表札を替えるのが面倒だっただけだろう。それ以上に何の意味もない、あるはずがない、と言い聞かせながら早足で目についた裏道に飛び込む。心臓が鳴り響く音が体中に響いて、とても耳障りだった。壁にもたれかかり呼吸を整える。荒い息が出入りする喉が焼けるように痛い。

 逃げるようにこの街を離れたのに、そして今また逃げ出したのに、行動とは裏腹な思いが、胸の内に生まれていた。

――会いたい。

 会って、自分がいない間どうしていたのか、どうしてこの街で暮らしているのか、聞きたいと思った。なぜ辺境の地へ向かうことを決めたのか、どんな気持ちで引き受けたのか、話してほしいと思った。じかにあのしかめ面を、まっすぐな目を見て、偉大な研究者や技術監督などではなく、俺のよく知る少女だと確かめたかった。どれだけ怒られても、なじられてもいいから。

 けれど、そんなことをしていったい何になるだろう。自分勝手な感傷を抱いて、一方的に去ったというのに。俺はまた自分勝手な思いのために、彼女の前に姿を現すのか。

「結局、俺だけがずっと、大馬鹿野郎なんだな……」

 何度馬鹿げた望みを抱いては、逃げ出すことを繰り返すのだろう。元々、逃げ出して、のこのこと帰ってきただけなのだから、変わるべくもない。結局、何かを決めるのが怖いだけなのだ。

 今後の身の振り方を考えなくてはならない。明かりの灯り始めた家々を遠くに眺めながら、俺は長く息を吐いた。もうこの街には、“自分の家”はないのだから。

 

 

 ひとまず取った宿の部屋で、俺は浅い眠りを繰り返していた。早く朝が来てほしいという気持ちと、もうこのまま朝が来なければいいという気持ちが、せめぎ合ってぶつかり合って、頭の中でチカチカと点滅を始める。たまらず起き上がって、窓の外を見た。まだ外は薄暗く、朝を待つには早いようだった。もう一度布団にもぐりこむ気にはなれなかった。羽織を着て、懐に煙草の箱を突っ込み、部屋を出る。外を歩くことしか、今すぐに気を紛らわす方法を思いつかなかった。

 

 夜のダングレストは昔ならそれなりに賑わっていたが、今は灯の使用制限があるため、比較的静かな日が多い。それでも以前と変わらず道端で騒ぐ者はいるし、店を開けている酒場には疲れた人々が集まっていることだろう。酒を一杯引っかけるのもよかったが、俺の足は酒場には向かなかった。喧噪を避けるように、静かな住宅街の路地をぼんやりと歩いた。

 途中、あの家に向かう道に出るたび、これ以上進まないように角を曲がった。そんなことをしていたら、いつの間にか同じ道をぐるぐると回っていた。なにやってんだか、と上を向いて、街灯の柱にもたれる。やっと帰ってきた街で、なぜ路地裏を逃げ回るような真似をしているのか。滑稽にも程がある。

 ふと、どこからか白く細い煙が漂ってきた。馴染み深いにおいが鼻をくすぐる。糸のようにふわふわと宙を漂い、くるりと回って交差する。その白い糸の動きに魅せられたように、俺はふらふらとそれを追いかけた。

 ぱっと視界が開けて、広い場所に出る。ダングレストの街を見下ろせる高台の広場。二つのベンチが置かれている。そのベンチの向こう、高台の柵の側に誰かが立っていた。女性だった。肩より長い髪を無造作に耳の下でまとめている。何か小さいものを手に持ち掲げていた。女性がふらりと踊るように体を回転させ、こちらを振り向く。その顔を見て、俺は撃たれたように動けなくなった。

「え……」

 茶色の髪に、大きな翠の瞳。研究着の上に白いガウンを羽織ったその姿は、俺がよく知る少女にとてもよく似ていた。

「……え…………おっ、さん……?」

 驚いた顔から発される声を、俺は覚えていた。どれだけ打ち消そうとしても、忘れようとしても、幾度となく胸の中で繰り返された声。

「リタっち……なの?」

 おそるおそる近づくと、そこにいるのは確かにリタ・モルディオだった。記憶にある姿よりもずいぶん大人びていた。幾分か背が伸び、落ち着いた雰囲気をまとう目の前の女性は、もう少女とは呼べないくらいだった。戸惑いと混乱と、後悔が一気に湧き上がり、頭がふらついた。

 会ってしまった。あれだけ無様に逃げ回っておいて、結局こうなってしまうのか。こんな気持ちのまま会うべきではなかった。それでも、心の中に一際光を放つ感情があることは無視しようがなかった。リタが目の前にいる、そのことに沸き立つ心の一部があることは。

「……それ、何持ってるの?」

「ああ、これ……煙草よ」

 何でもないことのように、しかし目を逸らしながら答える。

「リタっち、煙草なんて吸ってるの!?」

「今は吸ってないわよ、っていうか、最初に吸ったとき以来、苦すぎて吸ってないわ。これは単に火をつけてるだけ」

「いや、吸ったことあるんじゃない、そんな、リタっちが煙草なんて……」

「うるさいわね、とやかく言われる筋合いないわよ、もう二十歳なんだから煙草くらい吸ったって」

 そんな歳なのか。リタに言われてはっと言葉を止めてしまう。つい、まるで数年前と変わらない言い合いをしてしまった。リタの言うことはもっともだった。俺はもう、何を言える立場でもないのだ。

 しばらく、気まずい沈黙が続いた。お互い目を伏せて、そのまま動かなかった。闇に浮かぶ街明かりのほうから聞こえる荒くれどもの騒ぐ声が、だんだん遠くなっていく。風の音しか聞こえなくなった頃、リタはくるりと背中を向けて、手に持った煙草をふたたび天に向かって掲げた。煙が風に乗って、ゆらゆらと流れていく。それをリタはただじっと見ていた。俺はしばらく迷って、隣のベンチにそっと腰を下ろした。

「……そうして煙、見てるのが好きなの?」

 沈黙に耐えられず、そう尋ねると、リタはこちらをちらりとも見ずに答えた。

「そうよ、悪い?」

 姿が大人びても、刺々しい物言いは変わらないんだな――気づかれないように顔を伏せて苦笑する。リタの白いガウンが風にはためき、空に片手を挙げるその姿は、まるで天に祈りを捧げているかのように見えた。こんな細い煙でも、天まで届くことを一心に信じているかのように。

 掲げられた煙草がくにゃりと斜めに曲がり、燃え尽きようとしているのが分かった。リタは懐から箱を取り出すと、火の消えた煙草をそこにぽとりと入れた。その箱には見覚えがあった。むしろ、見覚えがあるどころではなく、馴染み深いレリーフがちらりと指の隙間から見えた。

「その箱……」

 俺が箱に反応したことに気づくと、ぱっと懐に隠してしまった。そして顔を向こうに向けたまま、転んだような姿勢でどさりとベンチに座り込んだ。

「……それさ、生産終了になっちまったんだってさ」

「知ってるわ、この前聞いた……残念ね」

「……まあ、そういうこともあるわな」

 リタが本当に残念そうに言うので、それは残念なことなのだと、改めて認識した。この懐にあるものが最後なのだと思うと、胸の中はぼんやりとした寂しさに満たされた。けれど、それとともに、なぜかほっとしたような気持ちが浮かんでくるのだった。

 

 またしばらくの沈黙が走る。見上げると、藍色の空がだんだん白んできているのが分かった。小さな鳥の影が、その白をすいと横切っていく。

「……いつ帰ってきたの?」

 ふいにリタが口を開いた。弱々しい声でそう尋ねる。

「昨日の昼過ぎくらいかね、先週くらいに帰還するようにハリーから言われてさ」

「そう……」

 再び口をつぐんでしまった。その横顔は寂しげにも見えて、旅立つ前のあの日を思い出させて、胸が痛くなる。俺はあの日のことを悔やんでいるのか。それとも、ただそんな顔を見て勝手に苦しいと思っているだけなのか。

「私も、行くことになったの、あんたの仕事してた地域に」

 リタは急に明るい声で話し出した。その話が出たかと、拳をかたく握る。

「……ハリーから聞いたよ、技術提供計画の代表になったって」

「そう、ようやく確立したと言えるようになった精霊術の技術を、世界に広めるための第一歩になるの」

 見果てぬ未来が、リタの目の前には広がっている。この世界はこれからどんどんと良い方向に変わっていくと、まっすぐに信じている。その眩しさに、憧れる者の気持ちが分かる。俺も、そうした輝きに焦がれずにはいられない人間の一人だった。

「俺がいない間に、リタっち、ますます立派になって嬉しいわ」

 ベンチに背を預け、ほうと吐き出した息はわずかに白かった。長い時間、言葉が返らないことに気づき、ふと横を向くと、リタは俯いていた。陰になった顔から、ポトポトと膝に雫が降り落ちている。それを見てぎょっとした。一瞬迷ったあと、立ち上がって、そっと近くに寄った。震える頭に、肩に、手を伸ばしかけて、おそるおそる背中を撫でさすった。どうしたの――そう声をかけようと思ったが、言葉は出なかった。手のひらから伝わる震えは、左腕以外の俺の体をこわばらせた。

 あの日も、リタは泣いていた。俺が突然言い出した話に動転したのかと思っていた。けれど、きっとそれだけではなかった。感情を溢れさせるほどの何かがあったのだ。それに気がつかない振りをしていただけで。

 リタはガウンの袖でごしごしと顔を拭くと、背筋を伸ばして、背中に置いていた俺の手からそっと離れた。

「……ごめん、なんでもないから」

 涙をこらえた声がひどく悲痛に聞こえた。彼女は、精一杯取り繕おうとしているのだと分かった。胸の内にあるものを見せまいとしている。それは、なぜだ? 見せたくないのは、俺が見たくないと思っていることを、分かっているからじゃないのか?

 リタの表情は見えなかった。微動だにせず、自分の内側にあるものを、これ以上微塵も表に出したくないかのように、ぎゅっと身を縮めていた。以前なら、いつだって、そのまま激情をぶつけてくるような子だったのに。

『わかったわ、帝都に行くわ』

 違う、と行き場をなくした左手の拳を握りしめた。リタが感情を隠して取り繕ったときのことを、俺は覚えている。涙を飲み込んだ強くはっきりとした声と、真っすぐな眼差しに何も言えなくなった。それどころか安堵までした。あのときの自分がゆらりとこちらを向いて、呆然とした表情で見つめてくる。

――これでよかったんだ。

 こちらを見つめる自分はがらんどうの目をしていた。いつか逃げ出して消し去ろうとした自分の姿だった。その自分さえも、ずっとここで俺を見つめていたのだ。絶望を抱えたまま、逃げ出した俺がどうするか見ていたのだ。

 決別しようと思っていた。温もりに慣れて、叶うべくもない未来を望んでしまった愚かな自分から。できるだけ離れて遠くへ行って、すべてなかったことにしたかった。けれど、俺は片時も忘れることができなかった。言葉も声も思い出も、鮮やかな色を持って胸の奥で息づいていた。

 ざわざわと胸が鳴る。待ってくれと制しようとする思考を、心が追いかけてくる。体をこわばらせていたものを、ひとつの感情が塗りつぶしていく。

「……待たせてくれないか」

 気がつけば言葉がころりと口からこぼれていた。

「……え?」

「リタっちが、この街に帰ってくるまで、待たせてくれないか」

 俺は膝を折って、リタの隣に跪いた。泣きはらした後の、戸惑った顔を見上げる。

「勝手な頼みだって分かってる」

 両手でリタの手を取り、目を閉じて顔を伏せる。小さな手を握って、自分がつい先ほどまで、もう彼女に会わずにおこうと思っていたことが信じられなかった。この手をずっと取りたかった。本当は、長い間そう思い続けていたことに、初めて気がついた。

「……それ、どういう、こと……」

 震えた声が、なにかを恐れるように問いかける。その表情を見つめて、俺と同じように、彼女もまた恐れていたのだと分かった。

「……リタっちの帰る場所に、ならせてほしい」

 ゆっくりと、言葉を噛みしめるように口にした。それは言葉にしてみると当然のようにしっくりと馴染んだ。心が俺の口を借りて喋っているような心地がした。自分の奥底にあったものがひとりでに空いた穴から流れ出している、そんな感覚さえおぼえた。本当はずっと、どうしたかったかなんて明白だったのに。

「なに、それ……バカ……じゃないの……」

「……ああ」

「……突然、一方的に、遠くに行くって、出て行ったくせに……」

「……そうだな……勝手に怖がって、逃げ出した大馬鹿野郎だ」

 ぽろぽろと涙をこぼすリタの顔を見上げる。なんて無茶苦茶なことを言っているのか、そう思っても、内側から胸を叩く音はいっこうに鳴り止まない。

「もうそんな奴のことは見限ったってんなら、それでいい。ただ、詫びたかっただけなんだ、逃げ出したこと」

 これも身勝手だな、と呟いた。結局は詫びの言葉だって、自分の満足のために伝えたいだけだった。

「すまんね、馬鹿みたいなこと言って、もう――」

「……もう、理由がないって思ってた」

 リタは言葉を遮って、途切れ途切れに話し出した。

「もう、私、おっさんに世話されなくても、大丈夫になったから、あそこに帰ってくることはないって、そう思いながら……毎日、ここで向こうの空を見てた」

 リタの発した言葉が、ゆっくりと沁み込む。高台のベンチに座り、一人佇むリタの姿が浮かんだ。

「もっと、いろんなことを話せばよかった、知りたかったって、でももう、二度とないんだって」

 心の奥から痛いほどの振動が伝わる。あのドアを開けて、本の山からちらりと振り向く顔に笑いかけた。一緒に食事を食べた。寝顔を見守った。何度も言い合いをした。水が湧き出すように、たくさんの時間を過ごしたことが、胸の中に溢れて体中に満ちていく。

「……でも、それでも、ずっと……会いたかった……」

 体は自然に動いていた。抱き寄せたリタの体はとても温かくて、懐かしい匂いがした。今までずっと閉じ込めていたものがばらばらと形を崩し、どこかへと散っていく。そんな感触に身をまかせることを、もう恐ろしいとは思わなかった。腕のなかの体が震えだし、身を縮めてすがりつく。

「……あ、たし……こんなの……夢を見てる……やだ……」

 そう言ってしゃくり上げた。じわりと肩に温かいものが染み出す。鼻の奥が痛くて、目の縁が熱くて、全身が焼け焦げそうだと思った。背中に回した腕に強い力を込める。

「リタ」

 これが夢なら、それでもいいと思った。俺がなすべきことは、すべてここにあった。もう死んでもいい、心からそう思えた。けれど、安息に沈みかけた心をリタの腕が引き寄せる。この場所からもう離れたくないと、引き上げられた心が言う。ここまで生き延びてしまったのだから、自分が焦がれるもののために生きたい。その思いが鮮烈な光のように差し込み、体中を包み込む。夜明けの陽が街並みの遙か彼方、山の向こうに顔をのぞかせていた。

「……レイヴン」

 リタにそう呼ばれたことはほとんどなかった。その声が紡いだのは、確かに俺の名前だった。俺が選んだ、生き方そのものの呼び名。

「おかえりなさい」

 涙をたたえた目を細め、リタは微笑んだ。朝焼け色の雫がぽろりと頬を転がっていく。それを受け止めるように、指先で頬に触れた。

「ただいま、リタっち」

 濡れた瞳がきらきらと光って、これまで見たどんな光景よりも美しいと思った。北の果ての悠久の氷河よりも、東の果ての幻の湖よりも。本当は知っていた。心から求めるものがどんなに美しく見えるのか。いつか一つの理想に焦がれたあの日のように。

「あたし、きっとやり遂げてみせるから、だから……待ってて」

「……うん……ありがとう」

 暖かい光の中で、俺は思い浮かべていた。いくつもの日を超えて、リタがこの街に帰ってくるいつかの日を。朝焼けを背に駆けてくる彼女を、俺は家の前に立って待っている。また少し大人びた姿に目を細め、再会の言葉を交わす。夢のように幸福な光景。その夢があれば、きっと生きていけると思えた。

 

「……ねえ、今までどうしてたのか、話してよ」

「うん、俺もリタっちに聞きたいこと、山ほどあるわ」

 

 まずは、離れていた日々のことを話そう。どんな風に過ごしていたのか、何を思っていたのか、聞きたいことがたくさんある。話したいことがたくさんある。それから謝りたいことも、山のように。ゆっくりと埋めていけたらいい。一緒にいられるわずかなこの時間を、指のあいだから取りこぼしてしまわないように。