知らない痛み

フォロワーさんの、おっさんがキャナリの弓の手入れをしているのをのぞき見るリタっちというネタに妄想が止まらず書きました。本当にありがとうございます。


宿の廊下を歩いていたリタは、はた、とレイヴンの部屋の前で足を止めた。わざわざ呼びに来たのに、ためらってしまったのは、声が聞こえたからだった。

 

「――なあ、キャナリ」

 

思わずびく、と後ずさりした。レイヴンの声が呼ぶその名前には、聞き覚えがあった。うすく開いたドアのすき間から、そっと覗いてみた。レイヴンは白い弓を手にしていた。あれは、確か先日もらい受けたレイヴンの昔の想い人の弓だ。その想い人の名前を、レイヴンは口にしていた。

「俺みたいな奴が、いいのかなあって思ったりもするんだけど……」

何か語りかけながら、慈しむように弓に触れる手と穏やかな瞳に、ざわりとした感触を覚えた。心のどこかで、ごそりと得体のしれないものが動きだす感触。リタは思わずぎゅっと歯を噛みしめた。そうしないと、だめな気がした。

その丹念に手入れをする姿は、どこか儚げにも見え、レイヴンがリタに対して見せることはないものだった。すぐこことそこにいるのに、ふたつの間に空いた距離は途方もないように思われた。ここから先に足を踏み出すことはできない。二つの色違いの靴に包まれた足が震えた。

(嫌だ……そういうことじゃ……ない)

遠いとか届かないとか、そういうことよりも、リタは、騒いで止まらない自分の心に戸惑っていた。この場所から見つめるレイヴンの見たこともない仕草も瞳も、リタが一歩踏み出せば、きょとんとおどけたものに変わってしまうだろう。それがなぜか嫌だと思った。

 

どうして、そのやさしい瞳を、こちらに向けてくれないの。

 

(今、あたし、なに考えてたの……)

唇をぎゅっと引きしめて、頭を振る。すると、その動作のついでに、手がこつんとドアに当たってしまい、その軽い衝撃に開きかけのドアはゆっくりと動いた。

「あっ……」

「あれ、リタっち?いつからいたの」

案の定、目を丸くしてこちらを見る。リタは整理のつかないまま、部屋の入り口で突然のことに慌てた。

「い、いつからって、魔導器見るから来いって言ったでしょ」

「ああ、ごめんごめん、時計見てなかったわ、すまんね」

そうして弓を部屋の隅に持っていく。やっぱり、それは自分には触れられないものなのだ。のぞき見た挙句、大切な時間の邪魔をしてしまったような気がして、リタはとても後ろめたい気持ちになった。

「ん……やっぱり、あとでいい」

「へ、なんでよ、いいよ今からで」

「いいって言ってるでしょ、あたしやること思い出したの」

まだずっと入り口に立ったままだったリタは、そのままくるりと踵を返し立ち去ろうとした。その途端、レイヴンが部屋からどたどたと出てきた。

「ちょい待ってって、リタっち、ねえ」

「なによ、何かあるの」

「ちょっと、痛い」

レイヴンはとんとん、と自分の胸を指し示して言う。少し苦しげにも見える顔に、リタの血相が変わった。

「なにそれ、それならそうと早く言いなさいよ!バカ!」

部屋に押し入るようにして、レイヴンを部屋の真ん中に座らせた。素早く制御盤を展開し、指を滑らせ数値を確かめる。視界いっぱいに、レイヴンの命を構成する術式が並ぶ。術式を確かめる手順も慣れたものだった。もう何度もこの盤に触れた。けれど、リタが触れられるのは、それだけだった。

 

 「……べつに、数値におかしなところはないけど」

「ん、そっか、それはよかった」

ひとしきり調べたあと、リタがそう告げると、レイヴンは軽く微笑んでみせた。その様子はあまりにもさらりとしたものだった。

「あんた、心臓痛いんでしょ、今は平気そうじゃない」

「数値に変なところはないんでしょ、だったら大丈夫よ」

「大丈夫って、え……」

リタは盤の上に置いていた手を止めた。頭の上に、レイヴンの大きな手がふわりと乗っていた。

「……ありがとね、ほんと」

そっと撫でられる。静かな声で言うその表情に、リタの胸がとくんと跳ねる。盤を間にはさんで、レイヴンはあのやさしい瞳でリタを見ていた。やわらかい、かすかな笑みをたたえて。そんな顔を、自分に向けられたものを、リタは今まで一度も見たことがなかった。

「……な、なんなの、平気なのか平気じゃないのか、どっちかはっきりしなさいよ」

「うん、もうだいじょうぶよ、平気平気」

ひらりと手を振って笑う。そしてふっと撫でていた手が離れた。温もりが去ってリタははっと我に返り、浮かんだままの制御盤を落とした。レイヴンの様子は、もうすっかりいつも通りに戻っていた。少し、安心したような、物足りないような、変な気分だった。だから、つい口からこぼれていた。

「……そういえば、あんた、武器の手入れしながら独り言しゃべったりするのね」

「えっ、リタっち、ずっと聞いてたの」

「知らない、あたしもう帰るから」

レイヴンの戸惑う顔を背に、リタは立ち上がり、だっと走り去って部屋をあとにした。レイヴンの引きとめる声が聞こえたが、今度はもう知らないふりだ。ドアを閉め、廊下を走り、角を曲がったところで、床にずるずると座りこむ。こんな気持ちで、部屋になんて帰れない。

 

本当に、見つめられたら、触れられたら、逃げ出したくなるなんて、知らなかった。レイヴンがあの弓になにを語っていたのかも本当はわからない。なにも知らないことだらけだ。

「知らない……おっさんの、バカ」

膝に顔をぎゅうと押し付ける。真っ暗な視界に、レイヴンの顔がよみがえり、いっそう強く自分を抱きしめた。弓の向こうにいる誰かに語りかける声も、初めてリタを見つめたやさしげな瞳も、どちらもぜんぜん消えそうになくて、困った。


あとがき

 

すれ違いのような、勘違いのような。そんなややこしい二人が好きです。

わからないことにモヤモヤし、そのモヤモヤの正体もわからないリタっちがいとおしすぎます。

ありがとうございました。