誰も知らない場所

物理準備室で逢い引きする学パロレイリタの話です。


みがかれた廊下と、靴の先が擦れる音が響く。キュッ、キュッ、その音はだんだん間隔を狭めていく。キィッ、キィッ、今度はなにかの鳴き声のように聞こえる。苛立たしくて地面を蹴る。カッ、と間抜けな音がして、爪先を痛めただけだった。

もうすぐ見える。ただその場所だけをめざして足は進む。バタバタとけたたましい足音を立てかけて、少し歩調をゆるめる。自分の息づかいがうるさく聞こえる。そうしてやっとたどり着いた先の古びたドアを、リタは勢いよくがらりと開け放った。

 

「おおう!?ああ、リタっちか……」

机からぱっと顔を上げて、白衣をまとった男は驚いたようにこちらを見る。物理準備室の真ん中に据え置かれた木の机には、様々な書類が散らばっていた。

「どしたの、今日は早いわね」

書類仕事のためにかけているのだろう、眼鏡の奥の瞳がやわらかく綻んだ。いつもは生徒に人気のあるお調子者の教師だというのに、授業時間外はひとりこの人気のない準備室に仕事を持ち込んでいる。他の生徒の誰もこの男が普段どこにいるのか知らない。昨日片付けずにおいた実験器具が棚の上で乾かされているのに気づく。

リタは後ろ手でドアをのろのろと閉めた。もとから静かだった部屋の中が、さらに静寂で満たされた。

「……っは、あ」

リタは声にならない声とともに息を吐きだす。早足でここまで来たせいで、すっかり息が上がっていた。鼓動がどくどくと胸をうつ。脈打つその速さは早足のせいだけなのか、そもそもなぜ急いでここまで来たのか。頭のなかに熱が渦を巻く。そのただ中に立ちつくす。どうでもいい。内なる自分が訴える。すべて、この部屋以外のことは、どうなったっていい――。

「……おいで」

レイヴンが椅子に座ったままこちらを向く。リタに向かって手をさしだす。わかっているのだ。ぜんぶ見通されている。そう思うと胸の奥がかっと熱くなる。同時になぜか腹立たしくて、苛立たしくて、肩が震えた。それでも足は勝手に前へ進む。抗いたいのに体は勝手に動く。持っていた鞄が床にばさりとすべり落ちる。吸い寄せられるような足取りで、ふらりと胸のなかへ倒れ込んだ。

抱きとめられた腕から煙草の匂いがする。リタはその匂いがあまり好きではなかった。けれど深く呼吸して、ずっと求めていたような気がした。

「そんなに急いで来たの?」

「っ、なわけ、ないでしょ……ばか、じゃないの……」

返す声が喉で震える。なにかがつかえて苦しいとでもいうように。指が汗ばんだ制服の背をなぞる。膝の上に抱き上げられ、眼鏡越しの瞳が間近に迫る。はた、と初めて気づいたように片手でかちゃりと眼鏡をはずした。リタが首に手を回したのと同時に、頭がぐいと引き寄せられ唇がぶつかるように重なった。

「ん……は、ぁ……っ」

ふたつの唇のすき間から吐息がこぼれる。時折目を開けて飛び込んでくるレイヴンの眼差しが、やさしくやわらかく、そして容赦なくリタを貫く。それだけですべて侵食されてしまいそうに思えた。たまらず肩に置いた手に力をこめて、それからさまようように片手が後頭部へと伸びた。髪をしばる紐に指先がふれる。ぴったりあわせた胸から身じろいだのが伝わった。

「……とっちゃってもいいわよ?」

耳元で小さくささやく。リタはつつ、と結び目をなぞったあと、ぱたりと手を下ろした。とてもつめたい髪だった。

「……あとで」

蛇口から落ちた雫がシンクとぶつかる音が、ぱた、ぱた、と規則的に響く。それが時計の針にも似て時間の確実な流れを示すようで、リタはぎゅっと体を縮める。すると大きな手がごそりと動いて、リタの頬から耳をやわらかく包んだ。レイヴンがにこりと微笑む。やっぱりどこか腹立たしい気持ちがわいてきて、さまざまな感情がまじりあい泣きそうに顔をゆがめた。涙をすくいとるように目元に唇が寄せられる。顔をそらすと再びつよく口づけられた。

 

頭のなかにつぎつぎと打ち寄せる熱と音に、さらに、もっと、なにも考えられなくなっていく。錯覚さえ浮かぶ。一番初めから、ずっとこの腕のなかにいたように。

 

――ここがほんとうに誰も知らない場所ならよかったのに。

 

陰りゆく陽が窓からのぞく。リタは目を閉じた。なにも見えなかった。目を開いた。飄々と余裕をたたえながら、しかしかすかに熱っぽい瞳がリタをみつめていた。レイヴンの手がしゅるりとスカーフを引き抜き、胸元が涼しくなった。首すじに唇を押しあてられ、リタはかすかにのけぞった。なにもない白い天井と白く光る電灯に目が合い、あ、と声が漏れた。再び目を閉じて、震えるように息を肺まで吸いこむ。ひえびえとした薬品の匂いを感じて、リタは安堵したようにレイヴンの頭を抱きよせた。


あとがき

 

学パロを書いたのはこの話が初めてで、ずっと書きたかったので思い入れがあります。

学パロには形容しがたいロマンがありますよね。個人的に、学パロレイリタは、科学部とかに一緒に所属していて、放課後は物理準備室で過ごしているイメージです。また学パロで書きたい話もあるので、チャレンジしたいですね。

ありがとうございました。