きみがいる海と行く


――いっそ逃げてしまってはどうじゃ?

 そんな彼女の言葉に誘われて、僕はこんな広い海の上にいる。潮風にあおられて放心したのはいつぶりだろう。三つ編みがぱたぱたとはためくのをいくら見ていても飽きなかった。

「ねえ、パティ、やっぱり戻るよ、こんなところまで来てなんだけど、きっと今ごろ大騒ぎになっているかもしれない」

 さっきまで甲板を行き来して忙しくしていた船員たちはどこかに散ってしまって、船首で水平線を見据えるパティの後ろで僕はひたすらぼうっと立っていた。

「大丈夫じゃ、トリム港の船員にはきちんと言い含めておいたからの」

「言い含めたっていったい……何を?」

 パティはにっこりと笑った。

「フレン団長の身柄は、極秘任務のため海精の牙が預かった……とな」

「……それは犯行声明文と言わないか?」

「なぜじゃ?極秘任務と言っとるじゃろ?」

「いや、言い方が完全に誤解を招くというか……」

 急にとても不安になってきた。カプア・トリムへ警備態勢の視察に来たというのに、偶然パティに出会い、なぜかこんなことになってしまった。

「安心するのじゃ、これしきのことでうろたえてるようでは騎士団失格なのじゃ」

 彼女の屈託のない笑顔に苦く笑い返す。何はどうあれ、こうして着いてきた僕が全面的に悪いのだ。戻ったら部下たちにどう詫びようか、腕を組んで考えだす。そもそもどうしてこんな簡単に仕事を放り出して、彼女の言葉に乗せられついてきてしまったのだろう。

「のう、フレン、たとえば目が覚めたらこんな大海原の上に一人きりで、自分が誰かもわからなかったら、どうするかの?」

 僕の目をのぞきこんで、とつぜん問いかけてくる。時々こんな風に大人びた顔をするので、その度に胸をぎゅっと掴まれたような感覚をおぼえる。

パティが、さまざまな事情により見かけの年齢よりも長く生きているということは聞いていた。けれど頭で理解はできてもなかなか実感はわかなかった。僕の目に映るパティはくるくるとよく笑いよく動く女の子なのだった。

「それは……まず状況把握に努めるけど、自分のこともわからなければ冷静でいられる自信がないな」

「フレンは正直者じゃな」

「自分の実力を正しく把握しておくことは重要だからね」

 パティは船縁に近づき、どこまでも続くかのような青空を見上げた。

「フレンは、今、自分のことをわかっておるかの?」

「自分って……」

彼女が本当は何を問いたいのか分からなかったが、青い瞳にじっと見つめられて答えを絞り出す。

「僕は、フレン・シーフォ、帝国騎士団団長を務めている……」

「じゃあ、騎士団や、団長でないフレンは?」

 そんなことを訊かれると思っていなかったので、返答に窮した。思えばずっと帝国や騎士団とともにあった人生だった。人々の笑顔のためにと、努力と研鑚を重ねてきた。しかしパティの言うように、目が覚めたらいきなりすべてがわからなくなっていたとしたら、僕はいったいどうするのだろう。

「……答えを出さなくてもよい、わからないなら、わからないままでもいいのじゃ」

パティは目を閉じて、まぶたで潮風を浴びるかのように上を向く。風に揺れる三つ編みと同じように動き落ちる影とが、脳裏に焼きついていた像と重なる。港町の堤防の先に立つ小さな姿がとてつもなく自由に見えて、綺麗で、振り向いたその表情に僕は見惚れたのだ。

――うちと一緒に行かぬか?

 

「……僕は、自分がわからなくなっても、きっと誰かを守りたいと思う、今は、強くそう思える」

「そうか、心配するな、フレンがそんなことになっても、うちが見つけてやるぞ」

「それは……頼もしいな」

船が風を切って進んでいく。付き合ってほしいところがあるのじゃ、とパティの指さす遠くの岸を見る。それが任務だね、と笑うと、彼女の軽快な笑い声が隣から聞こえて、陽がとても眩しかった。