散る花を見て涙みたいだと思ったのは初めてだった。きれいだと心が洗われると人が言うのを雑音のように聞き流していた。その意味をこんなときになって知るなんて思ってもみなかった。
「いつ出発なの?」
「あさって」
「そっか」
少しでも悲しそうな顔をしてほしかった。毎日会っていたのに、もう二度と会えないかもしれないという事実に同じように傷ついてほしかった。
「ごはんちゃんと食べて、生水には気をつけて、いろいろのめり込みすぎないで、しっかり睡眠は取るようにね」
そうしてまるで教師のように言い聞かせるのだ。実際に教師だったのだ。ずっと近くにいたこの男のことをいったい何だと思っていたのだろう。
「……外国に行くのは初めてじゃないし」
「でも、それって小さい頃でしょ?」
うっと言葉に詰まる。それみたことかとレイヴンは歯を見せて笑う。
「リタっちがちゃんとうまくやれるように、おっさん祈ってるから」
祈るだけなのか、と鼻の奥がつんと痛む。何を望んでいるのだろう。もう二度と会えないかもしれないというのは事実ではない。けれど嘘のような当たり前の時間は終わったのだ。一緒にいることが日々のすべてだった。この塀を越えれば、もう“理由”を持たない人間になり果ててしまう。
「好き」
風がやんで、自分の声がいやにはっきりと響く。
「あんたのことが好き、だから……」
何を続けようとしたのだろう。うつむいて地面と向かい合って震える。こんなにみじめな気分になるなんて思わなかった。今すぐ駆け出してしまいたかったけれど、足は地に縫い止められたかのように動かない。
「ありがとう、リタっち」
視界に大きなふたつの手が差し出され、ぎゅっと握りしめていた拳を拾う。手をつないだことなんてなかったが、やさしいあたたかさを持っていた。あんなに冬を寒がって手足が冷えると言いながら春を待っていたのに。
「リタっちがしあわせでいるように、俺はいつもずっと祈ってる」
見上げればあわく微笑んでいた。祈る、という言葉が胸の奥に突き刺さって、じんじんと痛くて、けれどその痛みごと包み込むようにほろりと溶けていく。長い時間を過ごしても、ちっとも分からないことばかりだった。何をしてきたのかも知らず何を考えているのかも見通せなかった。それでも、ずっと一緒にいたからこそ分かった。心からそう言っているのだと。
「あたしのこと……忘れないでくれる?」
「リタっちみたいな手のかかる子、忘れるわけないでしょうよ」
思わず殴ろうとしたら両手を掴まれていたので失敗した。得意げに笑う顔にムカつく、と呟く。向こうでもそんな風だと嫌われるわよ、と言うので、こんなことしないわよ、と言い返した。――あんた以外には。
門の前に立って、その向こうの空を見上げる。振り向けばまだ見送ってくれているのだろう。でももう振り返りたくはなかった。制服の赤いスカーフをしゅるりと外し、片手で持ち上げ陽に透かしてみる。そのまま手を離すと、風にさらわれてみるみる遥か彼方へと飛んでいく。それを追いかけるように、境界線を越えた。これから遠くへ行くのだ。祈りが届かないくらい遠く、とても遠くを目指すのだ。