白い符牒


リタがここを訪れるようになってから、明らかにアレクセイは変わった。

城の隠された廊下の奥にあるこの部屋は一部の者しか知らない。救出後、いまだ状態の安定しないアレクセイに会える者はごく限られている。リタが通されるのはレイヴンの手引きあってのことだ。けれどリタは度々自分一人でもアレクセイのもとへ会いに行っていることにレイヴンは気付いていた。

「……そろそろベッドに戻ったほうがいいかもですね、窓辺は寒いですし」

ぼんやりと弱い陽のさす外を眺めていたアレクセイは、レイヴンに促されてゆっくりと椅子から立ち上がった。小さなテーブルを挟んでもう一つ置かれた椅子にはリタが座っていて、こちらには目もくれず本を広げて読んでいる。

「アレクセイ?」

そんなリタをじっとアレクセイが見つめているのに気づく。そこに動くものがあるから見ているというのではなく、何らかの意味がこめられた視線だった。

「……そのページの公式は間違っている」

リタのそばに立って、ちょうど開かれていたページを指し示す。リタは怪訝そうな顔でアレクセイをちらりと見やり、静かに息を吐いた。

「ほんとね、著者が書き損じたのかもね」

「計算し直さねば一見気付かない」

「じゃあ遅かれ早かれ気付いてたわ」

リタは視線を上げてアレクセイをふっと見る。静かで苛烈で丸い瞳を、またアレクセイも見つめかえしていた。アレクセイの視線には明らかにリタに向けられた確かな感情が含まれていた。けれどそれが何であるのかレイヴンにはわからなかった。それを理解するには二人のやりとりはあまりにも静謐すぎた。

「今日はもう帰るといい」

アレクセイが振り向いて言う。レイヴンははっと我に返り、慌てて首を振る。

「いや、でもまだ陽も高いし」

「少し眠りたい、そのうちに陽が落ちる」

レイヴンが言葉に詰まっていると、リタが本をぱたんと閉じて立ち上がる。

「そうするわ、あんたの寝顔を見る趣味はないし」

「リタっち」

「そうするといい」

リタが本をしまっている間にアレクセイはベッドへと歩いていく。ついこの間まで覚束なかった足取りはずいぶんしっかりしてきたように見えた。もう肩を支えなくてもこの部屋の中ならそれなりに動けるようになったのだろう。

立ち尽くしたままのレイヴンにアレクセイがふっと目を向けた。ずくりと心臓が疼いた。けれどそれは一瞬のことだった。レイヴンを見つめる眼差しには懇願の色も情欲の色もなかった。ただ不思議そうに見ているだけだ。なぜ行かないのか、とでもいうような。

「……分かりました、帰ります」

「ああ」

もうアレクセイはこちらを見ていなかった。どこともつかない空間をいつものように瞳に映している。とっくに支度をすませて扉にもたれかかっていたリタのあとに続くようにレイヴンは部屋を出た。

 

 

長い長い、誰も通らない廊下をしばらく黙って歩いていた。リタの硬いブーツの音だけがはっきりと響いていた。

「ねえ、リタっち」

沈黙に耐えかねてレイヴンは口を開いた。

「なに」

「一人でアレクセイのとこ行ってるの」

リタは一瞬険しい表情を見せたが、すぐにそれは消えた。

「それがどうしたのよ」

「俺と一緒なら来てもいいって約束だったはずだけど」

自分で思ったよりも低い声が出てレイヴンは内心間違えた、と悔やんだ。しかしリタは別段気にした様子もなくそのまま歩き続ける。

「あいつから呼び出されたのよ」

「アレクセイが?」

「そう」

レイヴンは知らずのうちに拳を強く握っていることに気付いた。手のひらが少し汗ばんでいた。

「何の用で」

リタはぴたりと立ち止まり、こちらを振り返った。鎖骨に少し届くかという長さの髪のあいだから白い首筋がのぞいていた。アレクセイの青白い柔い首筋と、そこに感じた微かな拍動の感触が、なぜか蘇る。どくり、どくりと音を立て、ふたりの姿が近く重なる。リタの服の合わせ目の紐は縦結びになっていた。

「あいつは死なないわ」

リタはただ、そう淡々と言った。記された一文を朗々と読み上げるように。ここに一緒に来ると言ったときと同じ頑なさと揺るがなさをもって。

「あんたもね」

目を逸らして、ぐっと唇を噛む。何が分かるんだと吐き捨ててしまいそうになった。乱されている。リタがあの部屋に訪れるようになってからずっと。つとめて冷静に問わなければいけない場面だった。何を話しているのか。何を知っているのか。レイヴンが口を開く前にリタが言葉を重ねる。

「あんたの望みとあたしの望みは同じはずでしょ」

「……どうして、そう思うの」

もうとっくに、声色など繕えなくなっていた。

「あいつとあたしも、目的が同じだからよ」

知らず噛みしめていた奥歯が鈍く痛んだ。濁った暗がりが腹の奥で身じろぎする。――なぜ?

勢いのまま目の前のリタの肩を掴む。けれど手はそのままかたくこわばり、それ以上どうしようもなかった。

二人ここに立っているのに、静寂が耳に深々と突き刺さって動けなかった。遠くから差し込むうす明るい光が、リタの肩越しの白い廊下の上でふるえていた。