校長室のソファは腰が深く沈みすぎる。それでいて上等な革はなめらかすぎてあまり落ち着かない。レイヴンはシャツのボタンを留めながら、窓辺に立つ背を見やった。赤みがかったスーツは皺ひとつなくカーテンの隙間から射す陽に照らされている。
「あの子の様子はどうだ」
「あの子って、どの子ですか」
アレクセイの問いに、レイヴンはわざと聞き返した。十秒沈黙が続いて、静かに息をつく。
「天才少女はなんも変わりないですよ、相変わらず」
レイヴンがひらひらと手を振ってみせると、眉根を寄せて聞き返された。
「何か話していたか」
「気になることでもあるんですか」
「いや」
それ以上アレクセイは話そうとしなかった。深刻そうな面持ちのまま豪奢な椅子を引き、机に向かって書類を読み始める。レイヴンはのろのろと立ち上がって退散の準備をする。
扉に手をかけようとしたところで、背後にすぐ気配を感じた。顎をつかまれ、唇をすくいとられる。別れ際の挨拶にしては深いくちづけだった。扉のごつごつとした硬さと飾りの冷たさを背に感じていた。
誰かに呼ばれたような気がして目を開ける。物理準備室の古びたソファにもたれて、いつの間にか少しだけ居眠りしていたようだった。体を起こすと、少し離れた椅子でリタが本を読んでいるのに気がついた。
「リタっち、来てたの」
本から少しだけ上げられた瞳がくるりと瞬く。
「来ちゃ悪いの」
「いや、そんなことないって、好きにしてよ」
レイヴンが言い終わるのを待たずにリタの視線は開かれた本に戻されていた。手を伸ばして、ローテーブルに置かれた空のマグカップを持ち上げる。
アレクセイの友人の娘であるというリタ・モルディオは、新緑の季節の頃にやってきた。編入試験を全教科満点で通過し、学園中の噂となった転校生は、その実人を寄せ付けず気難しいところのある少女だった。
「何か飲む?」
この天才少女の世話を突如アレクセイに命じられてから、レイヴンの城だったこの物理準備室は彼女の庭になった。
「なんでも」
「アップルティーでいい?」
こくりと首を縦に振る。レイヴンはふっと口元を緩め、箱からティーバッグを取り出す。お湯を入れると甘い香りがふわりと立ちのぼる。
「はい」
リタは置かれたカップを持ち上げると、ふうふうと息を吹きかける。レイヴンがその様子をじっと見ていると、じろりと睨まれる。
「何見てんのよ」
「お口に合うかなと思って」
「あっち向いて」
素直にくるりと背を向けると、しばらくして微かにカップの中身を口に含んだ音が聞こえた。十分に冷ましていたのだろう。
「ねえ、リタっちって、アレクセイ校長と普段会ったりしてるの」
「突然なに」
「なんとなく気になってて」
またカップを傾けた音のあと、声が返る。
「あいつは時々家に来てなんか置いて帰るだけよ」
「なんかって、食べ物とか?」
「そう、あと本とか」
アレクセイが甲斐甲斐しくリタの家に通うさまは、想像できそうでなかなかできなかった。彼にとってリタは特別な存在なのだと感じてはいたが、改めて思い知る。
「なんか喋ったりしないの」
「なにも」
レイヴンは床に落ちていた紙くずを拾いながら、その短い答えを聞いた。
「あんたは」
リタが自分から口を開いたのに驚いて、体を屈めたまま戻せなかった。
「あいつとどういう関係なの?」
レイヴンは薄汚れた床とじっと見つめあった。何気ない問いかけだ。自然と出てくるはずの疑問だ。けれど少女に渡すための答えをレイヴンは持ち合わせていなかった。自分は教師で彼は校長で、とわかりきった肩書きの説明を口にしそうになって、やめた。
「……なんだろうね」
気がつけば無意識にそうこぼしていて、はっと顔を上げる。リタはじっと静かにレイヴンを見ていた。その視線に何か見透かされてしまいそうで体が微かに震えた。けれど逸らすことはできなかった。
「わからないの?」
リタが短く問う。レイヴンの中をその言葉が駆けめぐる。音をたてて体じゅうをがりがりと削り手当たり次第に穴を穿つ勢いで廻り続ける。
(知りたくなかった)
肩越しに額と擦れた革の感触も、頬をかすめた毛先の鋭さも、つめたく長い指の温度も、すべてが絡まり転がり混ざっていく。問いの中に呑み込まれていく。
「わからない」
レイヴンは口に出して、自分の手のひらを見つめた。こぼれた言葉が深々と突き刺さって、浮かびあがってくるのを待った。けれど手はこわばって震えるばかりで、なにも表れることはなかった。