Pinky swear


がらんとした部屋は、まだほのかに甘い香りが残っているような気がして、どこかに隠れているんじゃないかと思わせた。エステル、そう呼んだ声はしんと空気に沈んで溶けた。

彼女が使っていたベッドの上に腰を下ろす。この部屋でいくつもの物語を紡ぎ、リタに語ってくれた彼女は、今度こそ遠い場所へと行ってしまった。副帝の婚儀の知らせは、瞬く間に世を華やがせ、喜ばない民はいなかった。

――これからもずっと友達です。

自分は特別なのだと思っていた。彼女がどれほど特別な存在であろうとも、お互いに望めば、ずっとそばにいることが叶うのだと。いつからか、そんな風に思ってしまっていた。そして今リタは、ただの“民”でしかなかった。

「ばかっぽい……そんなこと、忘れてたなんて……」

薄桃色の枕に顔を埋める。エステルの柔らかな髪に包まれているみたいだった。いつかの夜更け、抱きしめられたとき、もっとしっかり抱きついておけばよかったと、リタは悔やんだ。どこにもいかないで、だいすきなの、そう口にしていれば、彼女は今もここでリタに微笑みかけてくれていただろうか。

「……リタっち」

戸口のほうから呼ぶ声がしたが、リタはそのままじっとしていた。しばらくすると足音が近づいてきて、リタの横たわるベッドが軽く軋む。

「そろそろなんか食べんと、体こわすよ?」

「……いい、こわれても……」

レイヴンが頭をかくのが分かった。

「いつもは人の心配ばっかしてるのに、自分のことになるとこうなんだから……」

二人でエステルが発つのを見送ったときのことを思い出す。大好きです、と笑って二人分の体に抱きついた。どうかお元気で、と四つの手を握った。よく晴れた朝のことだった。

「……嬢ちゃんは、リタっちのこと、何よりも大事に思ってたよ」

「……なによ、それ」

「リタっちがそんな風に塞いでちゃ、きっと悲しむよ」

リタは跳ねるように起き上がった。袖をつかみ、なんでもないように落ち着き払ったレイヴンの顔を見据える。

「いくら大事に思われてたって、ここにいないんじゃ、意味、ないわよ……!」

視界の外にあった、整然とした机、構想を綴ったメモが残らず取り外された壁が目に入り、二人以外に誰もいないこの部屋は確かに主を失ったのだと思い知らされる。

「なんで、なんで置いていっちゃったの? ずっと一緒だって言ったのに……だいすきだったのに……なんで……ここにはあたしたちしかいないの? ねえ、なんでよ……!」

勢いのまま縋りついたレイヴンの服からはかすかに芳しい匂いがして、さっきまで料理をしていたのだと分かる。三人で食卓を囲んでいたのが、つい昨日のことのようだ。

「嬢ちゃんはきっと……意味があるって思ったんよ」

レイヴンの手がそっと背中を撫でる。涙があとからあとから出て止まらなかった。だいすきなのに、なんで、ここにいて、どうして、繰り返しそんなことを呟いた。

――忘れません。

こんな日がいつか来るかもしれないと分かっていた。けれどいつの間にか忘れていた。きっと、エステルはずっと知っていた。だから、何度もそう言ったのだ。

「……エステル」

いつか絡めた小指をもう片方の手でそっと包む。涙がぽとりと落ちて、指先を伝ってこぼれていく。差し出されたレイヴンの手がそれを受け止める。いくつも涙がこぼれて、レイヴンの浅黒い手のひらにしみ込んでいくのをじっと眺めていた。指先で湿ったその感触を確かめて、また新しい涙を流した。お互いに、なにも言わなかった。やがて日が暮れて部屋が薄暗くなるまで、そのままでいた。すっかり泣き疲れたリタを抱きとめ、クラムチャウダーあたためようか、とレイヴンが口を開いた。