HAPPY END -2


 2 赤い鉛

 

 

 城の中はいつも慌ただしい。いろいろなことが変わりつつある中で、城にいる者は誰もが大忙しだ。副帝の仕事のため、帝都に来るたび、こんなに人が多かっただろうかと思う。

 副帝として割り当てられた執務室で、わたしは重要書類の整理をしていた。机の上には各地からの報告書や嘆願書が散らばっている。それぞれに目を通すと、まだ帝国の目が届かない問題が数多くあることが分かる。皇帝であるヨーデルも、世界各地を視察して回っては帝都での政務をこなす日々を送っている。わたしの仕事は、そんなヨーデルを助けることでもある。

 ふと、ハルルからの報告書に目が止まる。長の名前で、収支状況や治安、街の様子などが事細かに記されている。ハルルの街は、未だ混乱にある各地と比べるといくぶん平穏だった。研究者たちの本拠となっていることもあり、最新の技術である精霊術もいち早く適用されている。魔導器に替わる技術として開発されつつある精霊術は、人間と精霊の契約を必要とする。リタを始めとする研究者たちは、精霊と新たなエネルギー、マナについて研究を続け、本格的に精霊術の確立をめざしている。

 わたしがハルルにいないときでも、当然だがリタは研究に打ち込んでいる。また無理をして夜通し起きていないだろうか。食事を忘れたりしていないだろうか。そんなことばかり頭に浮かぶ。リタのことが心配になるのは、親友で、一緒に暮らしているのだから当たり前だ。けれど時折、このざわざわとした、胸がつかえたような気持ちになるのはなぜだろう。目を閉じてみても、浮かぶのはリタの悲しそうな顔ばかりだ。

「エステリーゼ様、今、よろしいですか?」

 ノックの音とともに、ドアの外から、フレンの声が聞こえた。

「いいですよ、どうぞ入ってください」

 わたしが返事をすると、フレンは失礼いたします、と静かに告げ、部屋に入ってきた。その表情はかたく、視線は左右に揺れ動き落ち着きがなかった。

「どうしましたか? 何かわたしに用事です?」

「はい……ご公務の途中に、申し訳ありません」

「そんな、いいんですよ、最近フレンも何かと忙しいみたいですし、いつでも来てください。わたしでよければ話し相手になりますから。あ、お茶でも淹れましょうか」

 フレンにはよく公務のことなどについて相談に乗ってもらっている。帝国騎士団長として、彼も城の内と外を問わず慌ただしくしている人間の一人だった。

「いえ……お気遣いありがとうございます、身に余るお言葉です」

 フレンは、一礼しつつ、考え込み、なにかためらっているようだった。何か大きな事件でも起こったのだろうか、と邪推してしまう。いつもと違うフレンの様子に、一抹の不安がよぎる。

「……何かあったんです?」

「申し訳ありません、少々申し上げづらいことだったもので……お部屋を訪ねておいて失礼いたしました。実は……シュヴァ……レイヴンさんのことでご報告がありまして」

「レイヴンの……⁉ 報告って……」

「……レイヴンさんの、羽織が見つかったんです」

 

 

 レイヴンが突如として姿を消したのは、半年前のことだった。しばらくのうちは、どこか気まぐれにふらついているのだろうと、誰もが思っていたが、数週間、ひと月、ふた月と時が過ぎても、レイヴンの行方は杳として知れなかった。騎士団、ギルドの有志がレイヴンの足取りを追ってみたが、誰一人として、何も掴むことはできなかった。

「レイヴンの羽織って、いったいどこで?」

 わたしたちはソファに移って話を続けた。

「ケーブ・モック大森林の深部で見つかったそうです……魔物調査の折に」

「ということは、レイヴンは最近までそこにいたということです?」

「おそらく……しかし私の隊で森を捜索しましたが、肝心のご本人は……」

「そうですか……でも、やっと、レイヴンの行方の手がかりが、これでひとつ見つかったってことですよね、よかったです……」

 わたしはようやくほっと息をついた。羽織だけとはいえ、長い時間の末、ようやく見つかったのだ。リタにも早く教えてあげなくてはいけない。しかし、フレンはまだ何か言いたそうな様子だった。うつむいたまま眉を寄せ、逡巡している。

「エステリーゼ様、実はそれだけではなく……お気を確かにしてください」

 フレンがこの部屋に来たときから、なにか良くない予感はしていた。けれど、それはわたしの気のせいであると思いたかった。体がざわざわと粟立つ。

 

「……レイヴンさんの羽織は、大量の血痕がついた状態で発見されました」

 

 わたしは目を見開き言葉を失った。血痕、血、赤い痕。鮮烈なイメージが、頭の中をひたすら駆け巡る。

「そんな……まさか……」

「……それから、森には激しい戦闘の形跡がありました。その少し離れたところに、傷ついた羽織が……あの付着量では、おそらく……」

 フレンは唇を噛み、膝の上で拳を握りしめた。さあっと血の気がひいていく。頭がじんじんと痛む。目の前が次第にぼやけていき、頬に雫が次々とこぼれ落ちる。

「申し訳ありません……我々が不甲斐ないばかりに、レイヴンさんを」

 羽織と、真っ赤な血のイメージがこびりついて離れなかった。フレンは拳を膝の上で握り、肩を震わせている。それは、なにを意味しているのだろうか。絶望、悲愴、それから、耐えがたい喪失の証。

「……うそ……こんな……」

 夢だと思いたかった。こんなに簡単に失われてしまうものだと思わなかった。きっといつかは元に戻ると思っていた。三人で過ごした穏やかな時間も、リタの明るい顔も、雲がやがて晴れるように、いつか、いつかはと思ってきた。

「……リタは、リタは、ずっと待っていて……あれからいつも悲しそうな顔をしていて、でも、いつかはきっと、すべて帰ってくるって、そう思っていたのに、そう思って、わたしは……いったい、どうして……っ」

「エステリーゼ様……」

 どうして、どうして、そればかりがすべり落ちてくる。そんな言葉に意味がないのはわかっていても、そう言わざるを得なかった。悲しみはいつか晴れる、泣き顔はいつか笑顔に変わる、わたしが望んでいたことは、物語の中だけのことなのだと、誰かに言われているような気がした。現実は誰のことも考えてはくれない。

「……レイヴンさんと争った相手は、魔物ではなく、どうやら人間の集団らしいということは分かっています。ですが一切の素性は不明……いったいレイヴンさんに何があったのか……」

 フレンは苦々しい顔で思案するように俯いた。突然このようなことが起きて、フレンもかなり動揺しているのだと分かった。とても取り乱したその様子に、間違っても冗談などではなく、これは本当に現実なのだと思い知った。

 わたしは手をぎゅっとかたく握って、フレンを見据えた。

「フレン……お願いがあります。リタには……リタには、まだ言わないでいてもらえませんか」

「リタに……」

「今、リタにこのことを告げるには……あまりにも辛すぎると思うんです……お願いします、少しだけ、時間をくれませんか」

 わたしは胸の前で両手を握りしめ、フレンに向かって頭を下げた。

「……エステリーゼ様、顔をお上げください。レイヴンさんのことは、今のところ騎士団の私の隊と、ギルドの幹部クラスの人間にしか伝わっていません。この状況下です、武装集団が暗躍しているなどと、もし民の耳に入れば、いらぬ混乱を招くでしょう。それを防ぐために、捜査が何らかの進展をみるまで、情報規制を敷いていますから……しばらくはリタの耳に入ることもないでしょう」

「ありがとうございます……フレン」

 もう一度頭を下げると、フレンは悲しそうに微笑んだ。

 わたしがリタを守らなければいけない。そんな使命感にとりつかれていた。これ以上、リタの悲しい顔など見たくない、そんな顔をさせてはならない。わたしは自らの悲しみを振り払うように、その使命感に身をゆだねた。わたしを突き動かすものが、どこからこんなに押し寄せてくるのかもわからずに。

 

 

 

 ハルルに向かう馬車の中で、わたしは何度もフレンとのやり取りを思い出していた。あれから帰る日まで、まるで公務は手に付かなかった。けれど、そんな様子を悟られてはいけないと思い。浮かない心のまま視察の任も果たした。心ここに在らずのまま、街の人々に姿を見せるのは苦しいことだった。声を出すたび、喉に鉛がこみ上げてくるような感じがした。これから、リタの前でも同じように振る舞わねばならないのだ。

 フレンは、レイヴンと争った相手は人間の集団だと言っていた。レイヴンは何者かに命を狙われていたのだろうか。その何者かとの戦闘の末、致命傷を負ってしまったのだろうか。

「……っ、う……っ」

 嗚咽を漏らすのさえ息苦しくて仕方がない。目を閉じると、赤しか見えない。色が体中を巡り、すべて染められていくような気がした。何度考えても、これが現実だと信じたくなかった。わたしは長い夢をみているのかもしれない。帝都に出発する日を忘れて、今もハルルで眠り続けているのかもしれない。そうして、目覚めたら、リタとレイヴンが心配そうに覗き込んでいて、いつものように言い合っていて。

――嬢ちゃんが寝坊するなんて、珍しいねえ。

――エステル、疲れてたの? そういうときもあるわよね。

――リタっちは寝坊どころか、昼夜逆転してるもんねえ。

――なんであたしを引き合いに出すのよ!

 

「エステリーゼ様、到着いたし……エステリーゼ様⁉」

 馬車の扉を開けた騎士が、驚いた顔でわたしを見る。涙がぼろぼろと伝う頬はとても熱く、ひりひりと痛かった。

「ごめんなさい、目に何か入ってしまったみたいで。ハンカチと鏡を貸していただけませんか?」

 慌てる騎士に向かって、にこりと笑ってみせた。涙と一緒に飲み込んだ鉛は、胸の奥深くの赤い靄にゆっくりと沈んでいって、やがて見えなくなった。

 

 

 

 自分の家に帰ることを、これほどまで怖く感じたのは初めてだった。坂をのぼる足は小刻みに震え。夕方の風は身を切るように冷たく感じる。大好きであたたかなこの街で、ハルルの花に見守られながら過ごした日々を思い出すほど、家路をたどる足は重くなった。

 わたしはドアの前に立ちつくして、柵の内側の庭をながめた。小さな花壇に、わたしとリタと二人で植えた赤と桃と橙の花が咲いている。別の一角には、土を耕した跡がある。この庭で、野菜を育てようとしていた。レイヴンが今度苗を持ってくるからと、三人で畑の場所を考えていた。

 ぎゅっと拳を握りしめて、天を仰ぐ。広がる枝を見上げながら、浅い呼吸を繰り返した。ちゃんと息ができるようになってから、わたしは決心して玄関のドアを開けた。

「あ、おかえりエステル」

「リタ……」

 お皿を持ったリタが声をかけてくれた。せわしなくキッチンとテーブルの間を行き来している。

「騎士から、もうすぐ帰ってくるって聞いたから、急いで準備してたの。ちょうどできたところでよかったわ」

 香ばしい香りが部屋じゅうに満ちていた。テーブルの上の皿に乗っているのは、焼き魚だった。

「……ありがとうございます、わたしも手伝いますね」

 頭が痺れるように痛かった。もうわたしは選んでしまったのだ。詰まる喉にひゅうと息を吸い込みながら、そう思った。引き返すことのできない、どこまで続くのかわからない道を。

 

 

 レイヴンが検診の日に来ないことはよくあった。リタはそのたび、せわしなく部屋の中を歩き回り、不機嫌そうに足を踏み鳴らしていた。

「定期的なメンテナンスがどれだけ重要か、あんだけ言ったのに……あのおっさん」

「まあまあ、きっと今急いで向かってるところですよ」

 しばらくすれば、いつものようにまたひょっこり現れるのだと思っていた。お詫びの品として甘いものを携えて。リタはしばらくのお説教のあと、仕方ないわね、とレイヴンの持ってきた箱への興味が隠しきれなくて。わたしはそんな光景を見ながらお茶の準備をする。その日が少しだけ先に延びただけだと。

 そうして次の検診の日が訪れても、レイヴンは姿を見せなかった。

「何よあいつ……ふざけてるの」

 リタの表情は日に日に曇り始めていった。仲間たちに連絡をとってみたが、誰もレイヴンの行方を知らなかった。ギルドや騎士団の伝を辿ってもらっても、ここ最近レイヴンに会ったり、見かけたりしたという者は見つからなかった。

 それから、リタと一緒に帝都へ出向いた。フレンに、レイヴンと最後に会ったときのことをできるだけ事細かに話した。あのときのリタの、あまりにも悲痛な声を、今も鮮明に覚えている。

「最後にメンテナンスしたとき、少し綻びがあったの! でも、様子を見ようと思って何も言わなかった……今頃どうなってるか分からない……早く探し出さないと手遅れになるかもしれないの! 探しに行かないと……!」

「リタ、落ち着いてください……!」

 今にも部屋を飛び出していきそうなリタを、フレンとわたしで必死に止めた。リタは、ただひたすら拳を握りしめて小刻みに震えていた。姿を消す前の時点で、レイヴンの心臓魔導器には、普段と違うところがあったという。けれどすぐに手を打たなかった。もしレイヴンに何かあれば自分のせいだと、リタは繰り返した。

「レイヴンさんは、僕たちが責任を持って探し出す。何か手がかりが見つかれば必ず連絡をするから、とにかく少し休んだほうがいい」

「休んでなんかいられないわよ、あたしも……!」

「リタ! 本当に顔色が悪いです、今は休んでください……もしリタが倒れてしまったら、レイヴンが帰ってきたとき、誰が心臓を診てあげるんです……?」

「エステル……」

「……それぞれ、できることをしよう。レイヴンさんがもし、何らかの危険に巻き込まれているとしたら、それこそ闇雲に動かず、少数で確実に手がかりを探していくべきだ。混乱の中にある皆へ動揺を与えるわけにはいかない。お二人には、できるだけ普段通りに過ごしてもらいたい」

 わたしもリタと同じように、今にも足が勝手に駆け出していきそうだった。けれど、今わたしたちにできるのは、日常を守ることだ。フレンの言葉を聞いているうちに、冷たい汗がにじむリタの手を握っているうちに、そう理解するしかなかった。

「……わかってる……何も考えずに飛び出すのはバカのやることだって……わかってるわよ……」

 リタは悔しさに耐えられないというように、ぎり、と歯を噛みしめた。こんなときが来るなんて思っていなかった、あのときもわたしはそう思ったのだ。

 その日から、わたしたちは、それぞれのやるべきことを果たしながら、日々を暮らした。レイヴンの手がかりはほとんど見つかることがないまま、いつしか失踪から半年の月日が経っていた。わたしはどこか上の空で過ごすリタのそばで、できるだけいつも通りに振る舞った。リタがいつの日か元気になってくれると信じて。

 罰なのかもしれない。

 わたしは、レイヴンのいない日々に、慣れようとしていたのだ。

 

 

 

 眠れない夜に散歩に出かけることを覚えたのは、あの旅の間だった。城にいた頃は、窓を開けることすらままならないときがあった。ずいぶん昔のことのように思えた。ほんの数年前は、自分で何かを決めたことすらなかった。決めることは、自由で、楽しくて、少し怖い。

 ハルルの樹は夜でもぼんやりと明るい。花びらの舞う坂は静かで、風の音と、樹のざわめき、自分の足音しか聞こえない。丘をのぼりきると、暗闇に沈む家々の屋根が見える。今夜の街の人々は、ぐっすり眠れているのだろう。

 リタの作った焼き魚は、少し固かったが、やさしい味がして美味しかった。今回も、リタは納得がいかないというような様子だった。けれど、わたしが食べきれなくて残してしまった分まで、リタは一欠片も残さず食べた。

「……エステル?」

 声におどろいて振り向くと、リタが坂をのぼってきていた。ベンチに腰掛けるわたしのそばまで歩いてきて、そっと腰を下ろす。

「寝室に行ったらいなかったから、ここだと思った」

「……ごめんなさい、何も言わずに出てきて」

「いいわよ、あたしも、なんとなく歩きたくなっただけ」

 風がざあっと樹を揺らす。夜の闇に浮かぶ樹の影は、本当に大きくて、けれど恐ろしいとは感じない。どこか神聖な雰囲気さえ感じる。

「ひと段落、つきました?」

「まあね、今日はここで一区切りね」

 元アスピオの研究者たちと共に、重要なプロジェクトを進めていると聞いた。その中で、精霊術の仕組みをより明確な理論に組み上げる、リタはそう言っていた。

――あたしがやらないといけないの。

 開かない部屋のドアを見て怖くなるのは、研究に打ち込むリタが、魂を削っているかのように見えたからだ。寝食を忘れるのも、夢中になると時に周りが見えなくなるのも、以前からあったことだ。旅の間だって何度もあった。けれど、半年前から、何か違うものを感じていた。己を省みない危うさを持ち、何を考えているのか読めず、その瞳はどこか別の場所を見ている。その姿がだんだんと、誰かの影を帯びていくのを、不安とともに見ていた。

「……今日で、十二回目だったわ」

「十二……?」

「あいつがすっぽかした、検診の回数」

 ハッと顔を上げた。リタは穏やかな表情で樹を見上げている。鉛の沈んだ胸がじんじんと疼いて、何もかも打ち明けたくなる。必死に歯を食いしばって、なんとか涙を押しとどめた。

「数えてたの、でも、今日は何回目か、思い出せなかった」

 今日が月に二回のリタの決めた日だということも、わたしは忘れていた。それだけの時間を失ったのだと気付いた。

「……あたしが、魚料理の練習始めたの、不思議に思ってたでしょ? あんなに嫌だって言ってたし」

「それは……」

「なんかね……だんだん、当たり前みたいになっていくのが怖くて……だから、せめてと思って」

 どんなに悲しくても、つらくても、人には受け入れていく力がある。そうして、同時に大切なことまでもいつの日か忘れてしまう。あんなに楽しくて、嬉しくて、花びらの舞うような日々は失われてしまった。そのことすら、わたしたちはいつか遠い過去にしてしまうのだろうか。

「待ってるうちに、いずれこうなるだろうって分かってた……けど、帰ってきたらあいつに自慢してやろうって、そう思ったら頑張れるかなって」

 リタの差し出した手に、花びらがひらりと一枚落ちてくる。

「ほんと……今ごろ、どこほっつき歩いてるんだか」

 胸の奥から鉛が浮かんできて、喉をふさぐ。明るい声で話そうとするリタの顔を見られなかった。本当は励ましの言葉を言ってあげたいのに。きっと大丈夫だと、そう笑いかけるところなのに。何一つできず、ただ俯いて震えているだけだった。

――リタっちのこと、頼むわ。

 リタのために、わたしには何ができるのだろう。