HAPPY END -3


 

  3 あの日あなたが決めたこと

 

 

 あの日、彼は冷たい雨の中に立っていた。

  空は暗くて、すべてを飲み込みそうな大きな雲が、樹の上に横たわっていた。わたしは突然の雨に洗濯物を取り込んでいる最中だった。そのとき、見覚えのある姿を庭先に見つけて、声をかけたのだった。

「……レイヴン? どうしてこんなところに」

「……ああ、嬢ちゃん……」

 振り返ったレイヴンの瞳はどこかうつろで、様子が変だった。ぶらりと力なく垂れ下がった手が、何かで黒く汚れていた。

「とにかく、こんなところにいたら体冷えちゃいます、早く家の中に入ってください」

「いや、いいんよ、おっさんもう行かないと」

「そんなびしょ濡れでどこに行くんです? すぐにあたたかいお茶を淹れますから」

「嬢ちゃん」

 真っすぐに、見つめられた。その瞳は、雲の立ち込めた暗い空の下でも、はっきりと翠色であることが分かった。その色を前にもどこかで、こんな風に見つめたことがあった。命令に従いわたしを連れ去ったときの、何かを押し殺したような色。

「ありがとう、本当に」

「それは、お茶を飲んでから言って……」

「……リタっちのこと、頼むわ」

 そう言うと、レイヴンはあっという間に目の前からいなくなり、雨に煙った坂の下へ去ってしまった。何か言葉を返す暇もなかった。わたしは、水を含んで重たくなった洗濯物を抱えながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。それは検診日の、数日ほど前のことだった。

 そのことを、わたしは誰にも言わなかった。

 

 

 

 城の裏庭は人気が少ない。聞こえるのは木々が風に揺れる音ばかりだ。わたしはベンチに座って、ただぼんやりと空を眺めていた。

 今日は少し調子がよくないとは思っていた。会議の途中で気分が悪くなり、危うく机に伏せってしまいそうになった。それを見たヨーデルに、半ば強制的に休息を取らされることになってしまった。

「貴女が倒れてしまったら、城の者は皆、気が気でなくなってしまうよ」

 そう言われたものの、部屋で横になっているのも気が引けて、人気のない場所を探してここに来た。途中、会議に出席していた評議会議員たちに出会い、言葉少なに立ち去ってしまった。それらのことやまだ残っている仕事が気がかりではあったが、風に当たっているとほんの少し気分がやわらいでいくような気がした。空はどこまでも青く、その青さをすべる雲がゆっくりと風に流されていく。その動きを見ているだけで無心になれた。

――今ごろ、どこほっつき歩いてるんだか。

 リタの声が耳によみがえる。わたしは何も言えなかった。それは胸を刃物で切られるような痛みだった。しかし、こんなものよりもずっと大きな痛みをリタが受けることになると思うと、やっぱりわたしは何も言えなかった。言えない日が続くたびに、ますます痛みは増した。

 ふいに後ろから人の気配を感じた。そして、カツカツと足音が聞こえたかと思うと、いつのまにか、その気配はすぐ隣に立っていた。

「久しぶりね、エステル」

 すらりとした長身の影がさっと伸びる。

「ジュディス! どうしてこんなところに?」

「仕事でザーフィアスに寄ったものだから、空いた時間であなたに会って帰ろうと思って。そしたら、ここにいるって聞いたのよ」

 ジュディスはバウルで世界のあちこち飛び回っているため、顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。相変わらずの綺麗な笑みをたたえて、わたしの隣に流れるような所作で腰かける。

「気分が悪いって聞いたから、本当は遠慮しようかと思ったのだけど……もし何かあったらすぐに言ってちょうだいね」

「あ、いえ……しばらく風に当たっていたら、だいぶ楽になってきました、ので大丈夫です。会えてうれしいです、本当に」

「あんまり無理しちゃだめよ、自分のことを一番にね」

「ジュディス……」

 これは無理をしているうちに入るのだろうか。わたしが一人で抱え込んで、結局こうして自分に課せられたことすらできなくなって、迷惑をかけてしまっている。出口のない森の中を延々とさまよっているような気持ちでいた。

「リタはどうしてるかしら、今度、ハルルのあなたたちの家にも寄りたいのだけど」

「あ、はい……元気、だと思います、このごろはちゃんと食事もとって、夜も寝ていることが多いみたいですし」

 思わず、ジュディスの顔から目を逸らした。一緒に暮らしているのに、とても違和感のある答え方だと、口に出してから思った。

「フレンから聞いたわ、この前」

 ジュディスはわたしの答えには追及をせず、唐突に切り出した。

「保管してあったものを見せてもらったわ……かなりひどかったようね、致命傷、といえるくらいに」

「……あ……」

「彼を襲った集団の素性は、まだ何も分かっていないらしいわね。いったい、何の目的で争ったのかしらね」

 ジュディスは考え込むように顎に長い指を添える。レイヴンに関することには多くの謎が残されていた。謎の集団の素性、争いの理由、本人の行方。あまりにも分からないことが多すぎた。

「私も捜査には協力しているのだけど……気が重いものね」

 つとめて、淡々と語りながら、ジュディスの口調には確かに悲しみが込められていた。

「……みんなは、どうしてます?」

「ユーリは、各地を回ったり話を聞いたり、いろいろと手伝っているみたい。平気な顔でいるけれど、彼もつらいと思うわ……カロルも、ついこの間にね。やっぱりとても動揺してしばらく仕事どころじゃなかったけれど、ようやく落ち着いてきたわ。今は小さな依頼だけに集中してもらっているの」

 わたしだけでなく、みんながその事実を知っていて、悲しんだり受け止めたり、前に進もうとしている。それに引き換え、わたしはどうだろうか。

 ジュディスは立ち上がって、くるりとわたしのほうへ向き直った。

「そろそろ行くわ。本当は私もリタに会いに行きたいけれど、私が行くと隠しきれないかもしれないから、やめておくわ」

 ざあっと風が吹きつけ、わたしはしばらく何も言葉を発することができなかった。庭に散らばった葉がくるくると巻き上がる。

「……わたしは、嘘つき、なんでしょうか」

 風にあおられながら、流れるジュディスの前髪を見つめた。嘘をつく。そういうことなのだ。これはあくまでリタのためだと、そう言いながら。

「あなたが隠すということを選んだのなら、それでいいと思うわ。でも、リタにもそれを知るという権利があるのは、分かっているのよね」

 そう、きわめて静かに告げた。ジュディスはきっと初めからこのことを言いに来たのだろうと思った。怒っているわけでも、責めているわけでもない。ただ、わたしに言っておかなければならないと、そう思ったから会いに来た。かつての旅でも、ジュディスはずっとそうだった。

「あの子ならきっと、自分で結末を選び取るわ。そう思うのは、私だけなのかしら」

 ジュディスの手が肩にそっと置かれて、ひらりと離れていった。あたたかく、慈愛に満ちた声だと思った。そのあたたかさが、わたしにも向けられていることが、嬉しくて、痛かった。

 

 

 

 ハルルの家に帰ると、リタはいなかった。一瞬静かな部屋に背筋が寒くなったが、テーブルに小さな紙が置いてあるのに気づいた。

『研究員との話し合いで遅くなる』

 要件だけを書いた、リタらしい簡潔なメモだった。リタが出かけることはそう珍しいことではない。近頃は特に忙しくしていた様子はあったので、きっと研究に何か進展があったのだろう。

 開けたままだった窓から風が吹きこみ、カーテンがパタパタとなびく。そのとき、バサバサッと大量の紙が重なり落ちる音が聞こえた。リタの部屋からだ。ドアは閉まっていたが、窓が開けっ放しなのだろう。ひゅうひゅうと風の音が漏れ聞こえる。

 リタの部屋にはあまり入ったことがなかった。部屋の掃除をしようとして、どこに何が置いてあるかわからなくなると困るから、とリタに申し訳なさそうに言われてしまったことがある。それから、自然と立ち入らないようにしていた。いつからか、この部屋はリタの見えない心の象徴となり、今のわたしには中身を知ることはできないと、なぜかそう思っていた。

 わたしは、どこか後ろめたい気持ちを振り払ってドアノブをぎゅっと握った。窓を閉めなくてはいけないから。自分に言い聞かせて、ドアをゆっくりと開けた。

 

 部屋の中には所狭しと本や資料、それから模型が置かれており、足を置く場所を選ばないと、床を歩くのは少し大変だった。ドアの正面には机の向こうに開け放しになった窓となびくカーテンがあり、そこから吹き込む風が研究資料と思われる紙を吹き飛ばしていた。わたしはあわてて窓を閉め、床に散らばった紙を集め始めた。文字がびっしりと書かれた紙は、わたしには何が書かれているのかよく分からなかった。しかし、ふと拾い上げた中の一枚にあった図がふと目に留まった。

「これは、もしかして、レイヴンの……」

 いつか見た、彼の心臓魔導器。形をはっきり覚えているわけではなかったが、その図は記憶の中のそれとよく似ていた。

 わたしは残りの紙を急いでかき集めて、ざっと目を通してみた。詳しい専門用語などは分からなかったが、それはすべて心臓魔導器についての資料のようだった。集めてみると、その枚数は百枚近くあった。それら一枚一枚に、リタのものと思われる走り書きや下線などの書きこみがある。

 こんなにたくさんの資料をいつも手元に置いて、ずっと心臓魔導器の研究を続けていたのだ。リタはこの部屋で一人で研究を続けながら、どんな気持ちでいたのだろう。

 分厚い資料を机の上にそろえて置き、近くにあった本を重し代わりにした。すると、机の端に置いてあった本の山がバサリと崩れて、床に落ちてしまった。

「ああ……リタに怒られちゃいます……」

 そうして慌てて本を拾おうとしたそのとき、クローゼットの扉の下の方に何か布のようなものが挟まっているのに気が付いた。わたしたちの服はまとめて寝室のクローゼットに収納している。リタが脱いだ服をここに押し込んでしまったのかもしれない、そう思い、軽い気持ちですっと開けてしまった。

「え……」

 そこにあったものを見て、体がじわじわと冷えていくのを感じた。白い布に包まれた薄い何か。わたしは魅入られるように。気がつけばその包みを解いていた。そこから出てきたのは。鮮やかな紫色の布、いや、服だった。ところどころ破れ、血痕が至るところに付着している。見間違えるはずがない。これは、確かに。

「レイヴンの……羽織」

 フレンから話は聞いていたが、実際に手に取ると、目を背けたくなるような残酷な有様だった。これを着た状態で、レイヴンは確かに深手を負い、おびたたしい量の出血をした。次々と、現実を思い知らせるように証拠が出てくる。逃げる余地をなくすように。

 けれど、なぜリタがこれを持っているのだろう。羽織は騎士団が回収して保管しているとフレンが言っていた。なぜ、それよりも、いつから持っていたのか。ふと、その意味に思い当たり、頭を殴られたような衝撃が走る。

 

「……エステル?」

 声が聞こえてばっと振り向くと、部屋の入り口にリタが立っていた。心臓が跳ねて、ばくばくと音を立てる。リタは、動揺するわたしをきょとんと丸い瞳で見つめていた。胸の奥に沈んだ鉛がせり上がって、膨張し、耐えきれずぼろぼろとこぼれ落ちる。

「ごめ、んなさい……リタ……ごめんなさい……!」

 わたしはそのまま顔を手で覆って泣き崩れた。リタは戸惑った様子で近づいて膝を折った。

「エステル、いったいどうし……あ……」

 こちらに近づいてきたリタの視線が、わたしの膝の近くに広げられた羽織に向けられる。しばらく固まったあと、手を伸ばし、ゆっくりとそれに触れた。

「……こんなひどい状態でも、手元にあるとなんとなく落ち着くなんて、ばかっぽいわね、笑っちゃうわ」

「そんなこと……! わたしは、わたしはリタにずっと……」

「あたし……知ってたの、エステルがあたしのためにずっと黙ってくれてたこと……あたしが勝手に騎士団に乗り込んで、フレンにばれないようにウィチルの奴と取り引きしたの。魔導器のことと照らし合わせて、なにかわからないか調べる代わりに」

「いったい、いつから……」

「十日くらい前、本を借りに帝都に行ったときに、何か城の様子がおかしいと思って、ウィチルに問い質したの。けっこう無理矢理ね」

 リタはとても聡い。本当は、こんな隠し事などすぐに分かってしまっただろう。それなのに、わたしはそんなリタの前でずっと何事もないように振る舞いつづけた。その様子はどんなに痛々しく見えたことだろう。

「エステル、ごめんね……もっと早く言うつもりだったけど、ずっと言えなかった……」

 それはわたしが言うべき言葉だった。わたしの決めたこと、選んだこととはいったいなんだっただろうか。リタに悲しい顔をさせたくない、これ以上悲しませたくない。わたしはずっと自分のために嘘をつき続けた。リタが、わたしのそばで笑っていてくれるように。そうしていつしかわたしはとても身勝手なことを願っていた。

 リタがそのまま、悲しいことを忘れてくれたらどんなにいいだろうか?

「……わたしは、自分のために言えなかったんです。レイヴンのことを聞いたとき、リタに真実を知らせたくない、知ってほしくない、そう勝手に思って、本当のことを知らせないのが自分の役目だって……本当は、言うのが怖くて、現実になってしまうのが怖くて……嫌だったんです……!」

 涙は次々にあふれてリタの服を濡らしてしまう。誰に言わなくても、わたしが何をしても、現実はただそこにあり、わたしたちのそばにレイヴンはいない。ただ泣きじゃくるばかりのわたしの肩を、リタはそっと両腕で包んだ。

「エステルは、全然勝手なんかじゃない。だって、エステル、おっさんのことを聞いたとき、自分より先にあたしのこと考えてたってことでしょう? エステルだって、本当は悲しくないわけないのに、自分で悲しむ前にあたしが悲しむかどうかなんてこと考えちゃうなんて、ほんと、お人よしね……」

 声が少し震えた。それを支えるように、わたしはリタと同じように、その肩に両手を置いた。

「あたし、ずっとエステルに甘えてたんだわ。ずっとふさいで、ぼうっとしてて、うだうだしてて、エステルがそんなあたしでも変わらず接してくれるから、それに甘えてたの、ずっと」

「リタ……」

 “お人よし”だから、リタを心配し続けていたわけではない。リタのことを真っ先に考えたのは、そんなもののせいではない。それは、わたしの心の奥底にあった、深い深い見えない場所から湧き出る想いだ。唇をぎゅっと引き結んで、うつむいたままのリタを抱きしめた。

「わたし、ずっとリタのことが見えなくて……時折、ここにいないような気がして、不安だった……」

 わたしと比べると、とても小さな体だと思った。それなのにやわらかくて頼もしくすら思える背中の温度に、また泣き出してしまいそうになる。

「だから、もう一度、ごめんなさい……わたしはずっと、リタが悲しい顔をしたまま、遠くに行ってしまいそうでこわかった……リタのことを、信じてあげられなかった……」

「もう謝るのはなしよ、エステル。それに、べつに強いってわけじゃないわ、たんに諦めが悪いっていうのよ、これは」

 羽織に目を落として、リタは悲しげに笑った。

「諦めが悪いから、いろいろ考えてたの、可能性を」

 机にある手帳を手に取って、パラパラとめくりながら話し始める。

「考えたら、おかしな点はいくらでもあることに気づいたの。おっさんを襲ったっていう奴ら、そんなのにおっさんが後れをとるなんて考えられない。前に二人で出かけたときも、五、六人の盗賊集団程度なら軽くいなしてたし、なにより、あたしは使うなって言ってたけど、おっさんには心臓魔導器の奥の手がある」

「でも、レイヴンも、背後をつかれたり卑怯な手段を使われたりしたら……」

「その可能性も十分あるわ。それを騎士団やギルドは想定してたと思う。そう、あたしが最後に見た術式の綻び……長い間メンテナンスもしてないし、魔導器の調子がかなり落ちてたんじゃないかと思ってる」

 リタは手帳のページをめくりながら、羽織に目を落とす。

「けど、一番は出血のことなの。おっさんは胸部に硬い魔導器を持ってるから、胸部から出血する確率はきわめて低い。背中と、そのほかの血痕については、もしかしたらほかの可能性もあるんじゃないかって思って、いろいろと検討してみたの。そうしたら、心臓魔導器は、この程度の出血なら補填できる潜在力を持ってるかもしれないって結果が出たの。あくまで、あたしの試算によると、だけど」

「まさか、レイヴンはまだ本当に……」

「わからない。今言ったことは、全部あたしの仮説を元にしてるから、実際はどうだか分からない……けど……」

 いったん言葉を切って、手帳をぱたりと閉じた。少しのあいだ沈黙が流れる。リタがこれほど一息に話すのを、久しぶりに聞いたような気がした。リタの部屋に所狭しと並ぶ本の一角には、魔導器やエアル関連の書籍に混じって、医学事典が積み上げられていた。自分の研究の合間にずっとレイヴンのことを調べていたのだろう。

「……ずっと、綻びを見つけたとき、ちゃんと処置してれば、とか、最後に会ったときもっとおっさんの様子に気をつけてれば、とか、思い返せばキリがなくて」

「そんな、絶対に、リタのせいなんかじゃない……」

「わかってる。もしも、なんて話に意味がないってことは……だから、あたしは今でも諦めてないわ。おっさんは、あいつは絶対にまだどこかで生きてるって」

 リタは、羽織にそっと手を置いて、わたしの瞳を強い眼差しで見つめた。

「あたし、約束したの。おっさんの心臓はあたしが守る、絶対に生かすって。だから、あたしはそれを守らなくちゃならない。行方がわからなかったときはずっと塞いでたけど、逆に、今のほうが前向きに考えられるのよね。だって、あのおっさんよ? そんな簡単に死ぬわけない、あの子はまだ止まってないって」

――また無茶な使い方して! あたしの調整を無駄にするつもり?

――いやあ、そんなつもりないって……すまんねえ。

――ほんと……あたしがこうやって診てあげてるんだから、大事にしなさいよ。

 検診をする二人はいつもそんなやり取りをしていた。怒るリタを、レイヴンが謝りながらなだめて、リタがまた新たな決まりを言い聞かせる。二人の間には心臓魔導器を介して、はっきりとした繋がりが確かにあるのだと感じた。まるでいのちが惹かれ合っているかのように。

 心から信じるというのは簡単なことではない。悲しみや矛盾が邪魔をしてくる。それでも、リタは自分の約束を信じると言った。レイヴンのことを知ったとき、わたしは絶望に駆られて、現実の残酷さにただ打ちひしがれていた。けれど、リタの強さを知った今、なぜもっと信じなかったのだろうと思う。レイヴンがわたしたちの前から姿を消した理由はわからない。それでも、姿を消してからも、確かにレイヴンはこの世界のどこかにいた。そして今も、どこかで生きているかもしれない。たとえわずかな可能性であっても、わたしたちはまだレイヴンに会えていない。その姿をこの目で確かめていない。悲しみに暮れる前に、きっとまだできることがある。

「……わたし、リタに言っていなかったことが、もう一つあるんです」

 

 作りかけの畑は、長い間手入れをしていないせいで、土の塊がごろごろと転がっているようなありさまだった。用具入れにしまってずっと取り出していなかったスコップを手に持ち、その前に立つ。あの日、わたしがレイヴンに会った最後の日、その手はなぜか黒く汚れていた。あれは土だったのではないか。

「わたしが……やってみます」

 スコップの先で土をすくい取り、別の場所にバラバラと落とす。ここに苗を植えようと言っていた場所だ。すべてを静かに聞いてくれたリタは、その作業をすぐそばでじっと見守ってくれている。予感ともいえない、ただの思いつきのような行動だった。けれど、仮説を立てたなら検証しなくてはいけない。どんなに馬鹿げた可能性であったとしても。

 なにか、土とは違う感触に当たるのを感じた。スコップを置き、手で土をかき分ける。茶色の中に、白が見えた。おそるおそる、手で引き出した。箱だった。つるつるとした、水を弾く素材で作られている。

「リタ……」

「……うん」

 目を見合わせて、わたしはその箱をゆっくりと開けた。中には種の入った袋と、一つの封筒があった。封筒の中身を引き出すと、一枚の紙が三つ折りにされた状態で入っていた。カサ、と音を立てて、紙が開かれる。

 

 

 これをいつか読まれることがあるのかわからないが、

 せめて、と思って書き残しておく。

 死んだと思っていた命だったけれど、誰かのために使うことができた。

 誰かと過ごす温もりを知ることができた。

 何かを愛しいと思う感情を思い出した。

 俺は、怖いくらいに幸せだった。

 袋に入ってるのはハーブの種で、ダングレストで取り寄せたものです。

 約束してた苗じゃなくてごめんね。

 どうかいつまでも元気で。

 

 

 ただ、花びらが降っていた。風に乗って、はらはらと流れ落ちていた。わたしたちは、立ち尽くしたまま静かに涙をこぼした。

「こんなの……バカ、バカよ……」

 リタは両手の拳をぎゅっと握りしめて、そう繰り返した。まるで遺書のような、後悔をすべてここに置いていくような、そんな手紙だと思った。わたしたちと過ごした日々は、彼に何を残したのだろう。旅の間も、その後も、いつも遠くをみているようなひとだった。それでも、一緒にいるときは、楽しくて幸せだと、そう思ってくれていたのだろうか。

「……レイヴンは、最初から何か目的があって姿を消したんだとしたら、それを突き止めないと」

「エステル……そうね、そうよね」

「理由もわからないまま、じっとしていられないです……わたし、信じようって、リタと話して思ったんです。信じるなら、知らなきゃって」

 どうしてこんなことになったのか、ずっとそう思っていた。その答えは誰かが教えてくれるものではない。もっと早く気付くべきだった。

「あたしも、じっとしてられるわけない。おっさんがあたしたちの前からいなくなるつもりだったってこと……いっぺんぶん殴ってやんないと、気が済まないわ」

 握りこぶしをぶんぶんと振りかざす。そうして、二人で少しだけ微笑み合った。

「わたし、フレンに手紙を書きます。それから凜々の明星にも……手がかりを探しましょう、なんとしても」

「うん……やってやるわよ、あたしたちで」

 リタが力強く頷いて、わたしの手にあった手紙に触れる。細く綺麗な文字は、払い落としたら消えてしまいそうに思えた。風が吹いても飛んでいかないように、そっと手で覆った。わたしたちの大切で、愛しい人の告白を。

 

 その日は、リタと一緒にサバの煮付けを作った。魚のおろし方も教わりながら、時間をかけて料理をした。リタの包丁さばきを見て、しっかりと味の染みた身を噛みしめて、レイヴンはきっと驚くだろう。口には出さなかったが、きっと同じことを考えていたと思う。リタもわたしも、穏やかに笑いながら、立派にできた夕食をゆっくりと味わった。

 

 

 

『――わたしたちは、手がかりを探したいと思っています。わずかでも可能性があるのなら、諦めたくない。リタと話し合って、そう決めました――』

 ペンを走らせる音が静けさの中に響く。リタは。研究所で資料を集めてくると出かけていった。二通の手紙を書き終わり、長く息を吐きながらペンを置く。

 心はとても凪いでいた。深く沈む靄も散っていき、確かに呼吸ができる。わたしはリタだけでなく、自分にも嘘をついていた。信じたくないのなら、別のことを信じればよかったのだ。押し込めていたものが解き放たれたような気持ちだった。

 現実から逃げているのではない。ただ夢物語を描いているのではない。まだ開けてもいない箱の中身を決めてはいけない。信じなければその結末にたどり着くことはできないのだから。

 カチャリと客室のドアを開けて、久しぶりに入ってみる。畳まれたシーツが乗せられたベッドと、空っぽの棚、何も置かれていないテーブルに目をやる。掃除はしていたが、長い間使われていない部屋は、整然としており、他の部屋とは違う匂いがした。レイヴンがいたときは、どんな匂いがしただろう。もう思い出すことはできない。けれどそこにいたことを、わたしはちゃんと覚えている。

――お茶、ありがとう。嬢ちゃん。

 カタン、と音がして、わたしは顔を上げた。誰かに呼ばれたような気がした。閉まったままの窓に寄り、力を込めて開ける。夜の風がぶわっと吹き込み、ハルルの樹が大きくそびえているのが見える。わたしはそれに魅入られるように、ふらりと庭へ出る。あの光は、どこか懐かしくて心が惹かれる。ハルルの樹には精霊が宿っているという。だからこんな気持ちになるのだろうか。

「エステリーゼ様」

 聞き慣れない声に振り向くと、庭先に鎧を着た影が立っていた。騎士団、それもフレン隊の鎧だ。

「フレン団長からの言伝を預かっております」

 その名前を聞いて、足が一歩前に出た。あれ、でもどうしてこんな時間に、まだ手紙は出していないのに――そう思ったときにはもう遅かった。さっと影が目の前に横切ったかと思うと、首に衝撃が走る。途端、頭がくらりと揺らぎ、視界は暗く濁っていく。

 リタ、レイヴン。

 わたしが呼んだ名前は、声にならず、意識は闇のなかに溶けた。