HAPPY END -エピローグ


 

  エピローグ

 

 

 ぱたぱたと窓際の埃を払うと、陽の光の中にきらきらと舞い上がる。それを受け止めるようにくるくるとハタキを回す。机の上は丹念に布で拭き上げる。拭いたところからつやつやときれいな木の色になっていく。少しだけ残された本を、きちんと揃えて壁際に置く。『魔導学の基礎』、『エアルの循環理論』など、リタにとってはもうすべて頭の中に入っているようなものばかりだ。

 用具を持って、客室に向かう。こちらの部屋も空気がこもっているので、まずは窓を開けて風を通す。ほとんど物が置いていないので、手早く埃を取ってしまう。磨かれた机と椅子のそばのベッドには、洗い立てのシーツと布団が敷かれている。そよと吹いた風に乗ってさわやかな香りが漂う。

 居間のテーブルには、空の花瓶が乗っていた。先ほど磨いた表面はつやつやと光っている。台所の器具も戸棚に片付けられ、残っている食材も街の人に引き取ってもらった。 レイヴンは、リタの作ったサバ味噌を食べて、本当に驚いていた。調理しているあいだも、ずっとぽかんと口を開けていた。

――こんな美味しく作るなんて、どんな術使ったの?

 食べる様子を恥ずかしそうに見ていたリタは、ばか、と言って顔を手で覆った。

 

 リタとレイヴンは、先日この家を発った。わたしもしばらくの間、副帝の任のため帰ってこられなくなる。

 その前の、ささやかな大掃除だった。

 

 

 

 魔導器復活を目論む集団の情報は、フレンとユーリたちによって騎士団ギルド双方に伝達された。構成員の多くは拘束され、順次取り調べが行われる予定だ。一人ひとり申し開きの機会が与えられることになっている。残りの者たちについても、捜査の段取りが話し合われ、今後しばらく、帝都を中心に警戒態勢が敷かれることが決まった。

 

「ありがとう、本当に……世話になっちまったわ」

 花びらの舞う庭先に立ち、レイヴンは眩しそうに空を見上げた。

「いえ、こうして無事元気になってくれただけで十分です」

「なんとか帝都まで行けるくらいに回復しただけで、まだぜんぜん本調子じゃないんだから、絶対! ぜーったい! 無茶とかしないでよね」

 荷物を背負ったリタがレイヴンの腕をばしっと勢いよく叩く。

「いてっ、痛いって……わかってるっての、青年たちにも散々絞られたし」

「ふん……それならいいわ」

 目覚めたレイヴンを、駆けつけた仲間たちはあたたかく迎えた。しかしユーリとジュディスは笑顔をたたえたままレイヴンの肩に手を置いて、

「おっさん、皆にさんざん心配かけた大層な理由……」

「じっくり説明してもらえるかしら?」

 と詰め寄り、その迫力でレイヴンを震え上がらせていた。

「でも、リタがそばにいるなら安心ですね」

「まあ、なんかしようとしてたらすぐに引っ叩けるのはありがたいわね」

 わたしたちのやり取りを見ていたレイヴンが、困ったように頭をかく。

「リタっち、そんな四六時中おっさんのこと見張ってるつもりなの……?」

「重要保護対象なのよ、当たり前でしょ」

 レイヴンは、健康状態と事件の影響を鑑みて、しばらくの間、騎士団の管轄により帝都で療養することになっている。残党に狙われる可能性も大いに残されていることから、保護と監視の意味合いが大きい。リタも心臓魔導器にかかわる第一人者として、その付き添いのため帝都へ向かうこととなった。

「気をつけてくださいね、また、帝都で会いましょう」

「うん……」

 リタは少し力ない返事をして、わたしの背後に立つ家をながめるように視線をめぐらせた。顔を覗きこむようにしてレイヴンが話しかける。

「やっぱり、さみしい?」

「そんなんじゃないけど……なんかいろいろ思い出してただけ」

 晴れた日の暖かい風がわたしたちの間を吹き抜けていく。花壇の花がそよそよと揺れる。庭の植物たちは、街の人に世話をお願いすることにした。すぐそばの耕した土には、ハーブの芽が顔をのぞかせている。

「……それがさみしい、ってことでしょ」

 二年半の月日は瞬く間に過ぎて、この家で三人で過ごしたこともいつか遠い思い出になるのだろう。テーブルを囲み話したことも、食べ慣れた料理の味も、穏やかな陽の匂いも。

「……えいっ」

 腕をせいいっぱい広げて、二人に抱きついた。どちらの体もあたたかくて、心ほどける匂いがした。

「わ、エ、エステル……?」

「嬢ちゃん……」

 もう会えなくなるわけではない。けれど、今このときは、もう二度とやってこない。今この場所にいるわたしたちとは、ここでお別れなのだ。

「……ありがとう、大好き、です」

 顔を上げて、にっこりと笑ってみせる。リタの目がじわりと潤み、耐えかねたように顔をそむける。レイヴンは目を伏せたあと、やわらかく微笑んで、わたしの背中にやさしく手を当てた。それだけで、十分だった。

 街の入り口に停められた馬車に二人が乗り込んでいく。窓からリタが顔を出して、大きく手を振る。後ろにレイヴンの顔も見えた。馬車がだんだんと遠ざかり、丘の向こうに消えるまで、わたしは手を振り続けていた。

 

 

 

 

 他の部屋はすべて済んでしまって、大掃除はわたしの部屋が最後だった。読みかけの本と書きかけの物語を綴った紙が机の上に散らばっている。この家でたくさんの物語を紡いだ。晴れの日も雨の日も曇りの日も、わたしは物語とともにあった。作家としてのわたしは、この家とともに、少しの間お休みだ。

 カーテンを開け、空気を入れ替えるために窓を大きく開け放つ。直後、ぶわっと勢いのよい風が吹き込んでくる。風を受けて少し後ろに下がる。小さな花びらがぱらぱらと部屋のなかに降ってくる。視界をさえぎる髪を手で押さえて、丘の上にそびえる樹を見上げる。そろそろ満開の季節も終わろうとしている。

 机の上の紙が風に巻き上げられ、ほとんどが机から落ちてしまう。陽の光のなかに紙がバサバサと舞った。どれがどの話だかわからなくなってしまうな、と思いながら、その様子をながめていた。そのうち、吹き飛ばされず机の上に乗ったままの、一枚の紙を手にとる。まだ書き上げていない物語の一つだった。花舞う街で暮らす三人が織りなす、大切な日々の物語。

『――花舞う樹のそばに暮らす三人がおりました。

 三人はいつまでも、ともにいのちを紡いでいきながら、幸せに生きました』

 胸にあたたかさが灯るのを感じた。この世界は、物語よりも物語に似ている。

「……めでたし、めでたし」

 季節は、そんな結末を過ぎて進んでいく。机に舞い落ちた花びらを句点の代わりに置いて、わたしはその紙を折りたたみ、引き出しの中にそっとしまい込んだ。