HAPPY END -4


 

  4 ひとりよがりな命

 

 

「眠れないんですか、レイヴン?」

 わたしがそう声をかけると、窓辺に立つ影はゆっくりとこちらを向いた。

「いんや、ちょっと考え事よ」

 軽く、そう答えた。髪はゆるく下のほうで結ばれていて、毛先がちらちらと月明かりに光る。淡い微笑みに、いつかのことを思い出した。彼が自分の半生を語ってくれたときのこと。あのときから、喋っていても、黙っていても、彼はとても饒舌に見える。

「お茶、持ってきたのでどうぞ、今夜は冷えますから」

「ああ……わざわざすまんね、じゃあいただくわ」

 レイヴンは自分のベッドに腰かけ、わたしは椅子に座り、それぞれお茶を啜る。静かな部屋にその音だけが響くのが、なぜか可笑しく思えて、二人で顔を見合わせて笑った。

「リタっちは? また夜更かし?」

「まだ物音はしていたので、きっと集中してるんだと思います」

「そう……ま、仕方ないわな……」

 リタのことを話すときの、レイヴンの表情が好きだった。おどけてみせながら、深い慈しみのような想いをにじませる。

「って、嬢ちゃんもこんな時間まで何してたの」

「わたしは、急にお茶が飲みたくなってしまって」

「はっは……まあそういうときもあるわな、おっさんはそのおこぼれをいただいちまったわけだ」

「ふふ、でもおかげでこうしてお茶会ができました」

「お茶会、かあ……ちょっとこんなおっさんには似合わないかもだけど」

「そんなことありません、お茶会は老若男女、誰もが開いたり招かれたりするものです」

 そう言うと、レイヴンはふっと笑ってカップを口に運んだ。夜の静けさが心地よかった。手にしたカップと、体のなかにすべり落ちるお茶と、胸の奥がすべてほかほかと温かい。

「ずっと、こんな風にしてられたらいいなって思うんです、わたし」

 窓の外の星を探しながら、本で見た星座のかたちを思い出す。

「リタがいて、レイヴンがいて、二人が楽しそうで、わたしも楽しくて……旅が終わって、少しさみしかったですけど、わたし二人と一緒なら、これからも笑っていられる気がします」

「……そうね、おっさんも嬢ちゃんとリタっちに会いに来るの、毎回楽しみにしてるんよ、けっこう」

「それは嬉しいです、でもそれならちゃんと検診日通りにまめに来てあげたほうが、リタも喜びますよ」

「ありゃ、これは一本取られたわ」

 頭に拳をごつんと当てる。おどけた態度ですぐに隠れてしまったが、そのときのレイヴンは何かもっと別のことを言いたそうにしていた。やわらかく細められた目は、おそらくここではないどこか遠くを見ていた。

 

 

 

 初めに動かせたのは、指先だった。重石でも乗せられたかのように体が動かない。低く抑えられた複数の声がどこかから漏れ聞こえてきた。

「……帝都へ……日を決め……」

「迅速に……遅れ……」

「身柄を……成功……」

 指先に触れたのは木の葉のように思えた。次第に、背中が草の上にあることを感じ取れるようになってきた。そして、手を動かそうと思って気がついた。両手が同じ場所から動かない。

「あ……」

 目を開けると、無機質な暗闇だった。本当に何も見えなかった。黒に塗りつぶされた世界は、わたしの心をひやりとした恐怖に突き落とした。閉ざされた視界、動かない手、聞こえる知らない人間の声。わたしは、どこか知らない場所で拘束されているのだと、ようやく気がついた。

 ぐっと体を曲げて、固定された、おそらく縛られている両手を地面につく。耳を澄ませると葉擦れの音がざわざわと鳴った。ここは森の中なのだろうか。ハルルで気を失ってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

「おや、お目覚めのようだ」

 こちらに向かって、聞き慣れない声が投げかけられる。ザッと一斉に音がして、周囲にいた気配のすべてがわたしに注意を向けたのを感じた。

「外してやりなさい」

 一人が指示を出すと、背後の気配が動く。頭の後ろがぐっと引かれ、ぱらりと目を覆っていた布が取り去られる。辺りは深い闇だった。それでもいきなり視界の開けた目には眩しく、景色はぼやけて見えた。背の高い木々が闇に溶ける遠くまで連なっている。

「こんな場所ですが、せっかくですから直接話をしましょう、エステリーゼ様」

「あなたは……」

 だんだんとはっきりしてきた視界の先にいたのは、ローブに身を包んだ男だった。その顔にどこかで見覚えがある。おぼろげな記憶を辿り、城の廊下で見かけたことを思い出す。

「ラゴウの、側近だった……」

「おお、覚えてくださっていましたか。まあ、もうあの愚かな男が死んでからずいぶん経ちますが」

 ラゴウは、かつて魔導器の力を用いてカプア・ノールに圧政を敷いた、有力な評議会議員だった。その後もさまざまな悪事を企み、フレン達に逮捕されることとなったが、評議会の力で処分は半ば取り消された。しかし、そのすぐ後、ダングレストの川に落ち、亡くなったとされている。

 男が顎をくいと動かすと、わたしの周りにいた者たちがパッと散っていった。身軽そうな服を着た者、頑丈な鎧を身につけた者、さまざまだったが、どれも腕が立ちそうに見えた。

「彼らはギルドから外れて行き場を無くした者たちでね、私のために協力してくれているのですよ」

「……わたしの身柄を拘束して、どうするつもりですか」

「さすがエステリーゼ様、話が早くて助かります。なに、簡単なことです、エステリーゼ様にはこのままここに居てくださるだけで構いません。明朝には事が成るでしょう」

 先ほどの、漏れ聞こえてきた会話を思い出す。その中には確かに帝都、という単語があった。

「まさか……わたしの身柄をもって、帝国を、ヨーデルたちを脅迫でもするつもりなのですか……⁉」

 男は両手を広げて、愉快そうに身を反らして笑った。

「エステリーゼ様は、城の外に出られてからよほど多くのことを学ばれたと見受けます。ただの傀儡候補であった頃とはずいぶん変わられた……おお、そんな目で見ないでください、私はあなた様を怒らせるつもりは毛頭ないのです」

「いったい、何を要求しようと言うのですか」

 世界の危機の後、評議会は再編され、それから目立った動きを見せることはなかった。それが今になって、何をしようというのだろう。嵐の前の静けさだったのか。

「……エステリーゼ様は、魔導器の無くなったこの世界を見て、どう思われますか? 世は混乱に突き落とされ、民たちは惑い、今も困難にあえぐ人々が多くいる」

 城に集められた嘆願書の山が頭をよぎる。あのように形になっていない声だって数多くある。

「わかっています、今この世界は危機にある……それでも、わたしたちは今できることを探して、それぞれの場所で力を尽くして前に進もうとしています」

 わたしの言葉を受けて、男は口元をゆがめる。

「……魔導器を失い、この世は不安定で移ろいやすいものになってしまった。そして精霊などという、不確かな存在にすがり始めた。すべてを失い傷ついた人々には、安定した、揺るぎない力が必要なのです、繁栄を極めたかつてのように」

「繁栄……まさか、魔導器を……復活させるつもりなのですか……⁉ もうこの世界に残る魔導器は……」

「……ハッハッハ、ご名答です。……そう、このテルカ=リュミレースには、実はまだ現存する魔導器がある、と言ったら、どうされますか?」

 ぞわりと背筋が寒くなる。口の中が急速に乾いていく。星喰みに対抗するために、わたしたちは世界中の魔導器の力を結集した。そしてわたしたちは魔導器のない生活を始めることになった。

「それを聞いたとき私に希望が生まれました。失われたものを、取り戻せるかもしれないと」

 現存する魔導器を求める、謎の武装集団。途端、体を突き抜けるような衝撃が走る。符号が一致しただけで、証拠はない。けれど、確信した。わたしがここにいるのは、偶然などではない。

「……あなたたち、レイヴンをどうしたのですか⁉ 答えなさい……‼」

「ああ……あの男、確かそんな名前でしたね、隊長首席としての名はもう捨てたのでしたか」

 拳を握りしめると、ロープが手首に食い込んで痛かった。けれど、そんな痛みなど気にしている場合ではなかった。

「あの男が魔導器を所持していると、そんな噂が耳に飛び込んできたのですよ。きっとアレクセイめから譲り受けたものに違いないと、私たちは頃合いを見て彼に接触を試みました、が、交渉は決裂、強硬手段を取らざるを得なくなったのです。いや、彼は恐ろしい実力の持ち主だった。さすがあの忌々しい元団長に取り立てられただけはある」

 嫌なことを思い出したというように顔をしかめ、わたしに向き直る。

「心配なさらずとも、私たちは彼の死体を確認していません。もっとも重傷のまま逃げおおせたので、今頃どうなっているかわかりませんが」

 レイヴンはやはりこの集団と争い、深手を負っていたのだ。あの羽織の血痕はそのときのものだったのだ。

「……そのような顔をするものではありませんよ。私たちは安心を得たいだけなのです。乱れた世への恐怖から逃れ、安らかに暮らしたいのです。そのような暮らしに、精霊などが介入する余地はない。形あるもののなんと素晴らしいことか、形ないもののなんと不確かなことか。弱き者には、目に見える強大な力が必要なのです。あなた方のように、前を向いて歩くことのできない人々には」

 旅の間、帝国が為した数々の悪政を、わたしはこの目で見てきた。魔導器が配給されない地域で、帝国の守護を受けない人々が、懸命に立ち上がる様子を見てきた。旅の後、さまざまな街で工夫を凝らし、手を取り合って暮らそうとするたくさんの人々に出会った。新しい世界のために、それを支える技術を研究する人々もいる。わたしのひたむきな親友のように。

「……わたしは、この世界が尊いと思っています。皆多くのものを失いました。今も痛みのなかにあるでしょう。けれど、わたしたちはもう選んだのです。今と昔を比べてどうであっても、悔やむことなど許されるはずがない。何があっても、そうした人々の苦しみも受け入れなければならない、それがわたしたちの負った責任です」

 男は、次第にわなわなと震えだし、両手の拳を上下に振って鋭く叫んだ。

「あのとき、私たちは世界の危機だと恐怖を煽られ、為す術もなく魔導器を供出させられた、そのせいで富の半分以上を失った! これが横暴でなくて何であろう? この痛みもただ受け入れると言うおつもりか? 私はまだ世に現存する魔導器を必ずこの手に集め、世界に復讐を果たすのだ……!」

「――結局、それが本音ってわけね」

 ぐわあ、と呻き声のあと、人の倒れる音がした。目の前の男が、わたしの後ろを震える手で指さす。――まさか。心臓が痛いくらいに鳴った。信じられず、振り向くのが怖かった。けれど、一秒でも早く振り向きたかった。声を聞いてすぐに、わたしの全身が叫んでいた。

「……レイヴン……‼」

 森の暗闇のなかで見たその顔は、最後に会ったときと少しも変わっていないように見えた。髪を下のほうで結び、見慣れた羽織姿ではなく、黒い外套を身にまとったレイヴンは、素早くわたしの手を縛っていたロープを切る。

「嬢ちゃん、ごめん、計算違いで遅くなったわ」

 そう言いながら弓を構えて、周囲の戦闘員を牽制する。

「ハ、ハハハ……ようやく現れたな、貴様ならきっと来ると思ったぞ」

「ま、こんな分かりやすい場所に拠点張ってりゃ、すぐ分かるわ……親玉があんたみたいな小物だとは思わなかったが」

「言わせておけば……あのときは取り逃がしたが、今度こそ貴様の知っていることを洗いざらい吐いてもらうぞ……!」

 男が手を上げると、木陰からも人影が現れる。レイヴンとわたしを中心として、十人足らずにぐるりと囲まれた。レイヴンに深手を負わせただけあって、統率の取れた集団だと感じた。評議会員の男以外、皆武装を用意している。

「嬢ちゃん……ここは俺に任せて、下がって」

「できません、わたしも戦います」

 わたしの力は、今ではわたしと結びついた精霊たちによって調整されている。みだりに用いることはできないが、ここで使わなくていつ使うというのだろう。剣も杖も盾もない。頼れるのは己の身だけだ。

「ひとりより、ふたり、です」

 そう言うと、レイヴンは悲しそうに笑った。地面を蹴り、斧を持った前衛が距離を詰めてくる。それをレイヴンが変型弓の一薙ぎで後退させる。そして瞬く間に弓の形に戻し、矢を放射状に放つ。

「ぐ、ぐっ……」

 近づけない前衛は焦れたように左右に身じろぐ。後衛から飛んできたナイフを、レイヴンがすかさず小刀で打ち返す。

「……聖なる雫よ、降り注ぎ……」

 手を組み、自分の内に意識を集中させる。そのとき、横から剣を持った影が素早く飛び込んできた。振りかぶられたそれは、わたしのすぐ近くに迫り、視界いっぱいに広がった。防ぐ手立てがない。避けるのも間に合わない。数瞬が永遠のように長く感じられ、粘ついた液体の中にいるような心地がした。

「轟け鼓動!」

 鋭い声がその静寂を切り裂く。周囲の敵は一様に動きを止めていた。――詠唱破棄の時間停止だ。手を振り上げて闇に立ち尽くす姿が、次々にレイヴンを中心とした波動に呑まれていく。抵抗する手段のないまま、武装を引き剥がされ吹き飛ばされていく。

「……っ、我に力を!」

 中断しかけていた詠唱を完成させる。光の雨が降り注ぎ、体勢を立て直そうとしていた一部が目を覆って倒れ伏す。

「ぐっ……ぐあ……」

 やがて、辺りはしんと静まり返った。地面に伏した数々の体は動き出す気配を見せない。そのそばで、胸を押さえてうずくまるレイヴンのもとに駆け寄る。

「レイヴン、大丈夫ですか……⁉」

「あーだいじょぶよ……ちょっと無茶が過ぎたかもね」

「すみません、わたしのせいで……」

「嬢ちゃんは武装持ってなかったし仕方ないって、おっさんが間に合ってよかったわ」

 立ち上がったレイヴンは一つ一つ気絶した戦闘員を確かめ、どこからか取り出したロープで縛っていく。念には念をってね、と言いながら、その作業はあっという間に済んでしまった。太い幹を取り囲むように、動きを封じられた者たちが並べられる。

「今頃ハルルのほうもなんとかなってるでしょ、あとで収拾に来てもらわないとだな」

「ハルル……?」

「ハッ……ハハハ、ハハハハハハハハ……」

 突如、途切れ途切れの笑い声が聞こえ、わたしはとっさに声のしたほうを向く。レイヴンはゆらりと弓を構えて、茂みに向かって矢を放とうとする。するとガサガサと音を立てて、男がゆっくりと両手を挙げて出てきた。

「まさかあちらの動きまで潰されるとはな……騎士団にも魔導士たちにも根回しをしていたというのに」

「そうそう、その根回しが厄介で、なかなか動けなかったんだわ、騎士団長の不正疑惑とかあらぬことをでっち上げる計画もあったみたいだし」

「ハハ……この半年、お前に一度しか接触できなかったのは、そのせいか……」

 男は脱力したように両手をだらりと下ろし、わたしたちを見据えた。

「貴様らは揺るぎない力を持つ必要などないのだろうな……何やら反則めいた技を使うようだが……その身に紛うことなき力を宿す貴様らに、我々の思うところなど理解できまい……この世はいつもそうだ、持つ者が持たない者を支配し、持つ者の論理で何もかもが決められる」

 男の顔に流れる汗が、ポタポタと草の上に落ちる。その草を踏みしめながら、レイヴンはゆっくりと男に近づく。

「……お前さんらが好き勝手してた頃、〝持たない者〟に何をしたか、忘れたわけじゃねえわな?」

 レイヴンはぞっとするほど冷ややかな眼差しで、男を見下ろした。

「やめろ……来るなっ……!」

「……悪いけど、“これ”は誰にも渡せんのよ」

 後ろに倒れ込んだ男のそばに屈み込み、首筋に、懐から取り出した小刀を突きつける。その手が、すっと引かれる。

「やめてください! レイヴン!」

 わたしが叫ぶと、レイヴンはぴたりと動きを止めた。

「……あなた方の痛みを、必ずわたしたちは引き受けます。わたしたちが〝持つ者”であるというのなら」

「ハッ……知ったような、口を……っ!」

 隙をついて転がりながら逃げようとする男の腹に、レイヴンがすかさず小刀の柄をめり込ませる。そのまま男はだらりと手足を投げ出し、かくりと気を失った。

「……あー……ここで殺っちまえば、あとが楽だったのに――っていうのは冗談冗談、嬢ちゃんの前で、んなことできないわな」

 小刀をしまい込み、手をひらひらと振る。胸の奥から閉じ込めていた息が漏れる。抑えていた感情が堰を切ったようにあふれ出し、その姿がぼやけて揺れる。

「……レイヴン、レイヴン、レイヴン……っ‼」

 たまらず駆け寄って、その胸に飛び込んだ。じわりと感じる温かさに、次々と涙がこぼれる。生きていた。本当に、生きて、こうして会えた。

「わたし、リタと、ずっと待って……一度は、もう、帰ってこないかもって……いったい、今までどこで、何を……っ」

「……すまんね、心配かけて」

 レイヴンはやさしくわたしの背中を叩くと、かいつまんで話してくれた。この半年の間に、いったい何があったのか。

「妙な連中が嗅ぎ回ってるってのに気付いたのが、半年と少し前だったかね」

 その集団の動きに気付き、レイヴンは各地を転々としながら、動向を探っていたという。どうやら狙われているのは自分だけだと分かり、目的はもしかすると心臓魔導器なのではないかと当たりをつけたらしい。情報を集めた結果、それが的中した。

「まあ、いつかどっからか漏れてもおかしくないとは思ってたけど……まさかそこからこんな大それたことを企ててたとは、初めのうちは思ってなかったわ」

 男が言っていたように、レイヴンの持つという魔導器が〝何〟であるかまでは把握されていなかった。けれどアレクセイがレイヴンに魔導器を預けていたと解釈した向こうは、遺された魔導器が他にも多数あると踏んで、計画を実行に移そうとした。それらを帝国が密かに隠し持っているに違いないと読んで。

「そこまで突き止めれば、奴らが次に何をするかは明白だったってわけよ、でもちょっと手間取っちゃって、後手に回っちまった」

 わざと接触をはかり、おびき寄せて、一網打尽にしようと考えた。ケーブ・モック大森林での交戦は、熾烈を極めたという。そのときは二十人余りを相手にし、半数近くを無力化するに至ったとレイヴンは話した。

「でも、さっきみたいに奥の手を使おうと思ったんだけど、上手く発動しなくて、そこをバッサリといかれちまってね。そのままなんとか連中を撒いて、そんときは、もう死にそうなくらい苦しかったわ」

 まるで、昨日食べたものの感想でも話すように、あっけらかんと言う。

「……本当に……レイヴンなんですよね……あんな、手紙まで残して……」

「……あれ、見つかっちまったか」

 ばつが悪そうに、目を逸らして頭をかく。

「でも、これで……リタも喜ぶと思います。ちゃんと帰ったら、リタによく謝ってくださいね……?」

 どうしても涙声になってしまった。早くリタに会わせてあげたかった。どこ行ってたのよ、バカ、と怒らせてあげたかった。

 けれど、レイヴンは返事をしなかった。俯いたまま、じっと押し黙っていた。

「レイ、ヴン……?」

「……ごめん、嬢ちゃん、俺は……帰れない」

 呻くように、喉の奥から声を絞り出すように、そう告げた。

「帰れないって……どういう……こうして、無事、だったのに……」

「……俺の心臓は、もうじき止まる」

 音が止まった。葉擦れの音が、耳鳴りのように低く響いて、わたしの耳を覆った。何も聞こえなかった。

「連中とやり合って、大怪我やらかして、もう、あのとき本当に死ぬかもって思って、けど、そのときコイツがあり得ないくらいのエネルギーを放出して」

 手のひらを胸に当てて、ぎゅうと力を込めるように指を曲げる。

「……怖くなった、俺は、死にたくないと思ってしまった。嬢ちゃんたちの前から姿を消したときから、もう長くない予感ははっきりとしていたのに……だからさ、勝手に死ぬな、って言われたけどさ、ひとりはみんなのために、だっけ? 今度こそ、最期くらい……そういうのに殉ずるのもいいかなって」

 自分はもう長くないと、そう予感して、わたしたちの前からいなくなった。狙われているのは自分だけだと気がついて、わたしたちから離れた。誰かが危なくなると、躊躇いなくその命を投げ出す。レイヴンは、そういうひとだった。薄々どこかで気がついていた。姿を消したのは、わたしたちに知られたくない何かが起きたのではないかと。

 このひとは、自分の人生に、自分で幕を引きたがっているのかもしれない。

「……死んだっていいって、レイヴンは、そう言うんですか……? みんなが、リタが、……わたしが……レイヴンのことを、愛していると言っても?」

 レイヴンの見開かれた瞳をまっすぐにのぞき込んだ。闇にきらめく深い海の底のような色。こんなに近くで見つめたのは初めてだった。わたしの姿が映りこんでいた。

「……もう、諦めさせてよ」

 くしゃりとわずかに顔がゆがむ。わたしの肩に触れ、首を左右に振って唇を噛む。

「これ以上、無様にしがみ付いてるのは苦しくて仕方ない、生きていたらお前さんらに迷惑しかかからない、奴らのことだってそうだし、元はといえば、心臓があるかぎりまた同じことが起こるかもしれない」

 涙こそこぼさなかったが、慟哭するような声だった。

「……何より、もしこの心臓に、俺の命に危険があると分かったら、あの子は……リタっちは、何が何でも生かそうと必死になるだろう、俺は、あの子の、そんな姿を、見たくない……」

 レイヴンが失踪したあとの、取り乱したリタのことを思い出した。どこかぼんやりとした瞳で、遠くを見つめるリタ。自室のドアをゆっくりと閉めるリタ。それから、わたしを抱きしめてくれたリタのこと。

――だから、あたしは今でも諦めてないわ。おっさんは、あいつは絶対にまだどこかで生きてるって。

「……生きていてほしいって、みんなが願って、生きさせようと必死になるのは、レイヴンのためじゃない」

「え……」

 指先で涙を拭い、レイヴンのかさついた両手を、自分の両手で、つよく力を込めて、挟み込んだ。

「自分のために、自分が、わたしが、レイヴンに死んでほしくないから、いなくなった世界なんて考えたくないから、だから何が何でも生かそうとするんです。それは、まるきり、自分のためでしかない」

 木々の間から、かすかな明かりが差し込む。青白い、清かな光だった。

「レイヴンが諦めても、わたしはこの手を離しません。無様でも、ここにしがみ付いたままでいます。わたしは、もう、諦めません……リタが守ろうとした、レイヴンの命を」

 願うように、祈るように、わたしはレイヴンの手を握る。その手が、次第に細かく震えはじめる。

「ははっ……本当に……俺は……」

 わたしの手の中から、レイヴンの浅黒い手が、するりとすべり落ちた。目の前の体がぐらりと傾き、重たい音を立てて地面に投げ出される。

「……レイヴン⁉」

「ゴホッ、ゴホッ……」

 口を手で押さえながら咳き込む。指の隙間から見えた唇から、赤いものが流れ出していた。

「……ごめん……じょ、ちゃん……リ、タっち、に………………」

 言葉は途切れ、虚ろな目が、蝋燭の火が消えるようにふっと閉じる。

「レイヴン、レイヴン……⁉ しっかりしてください……っ!」

 治癒術をかけても、レイヴンの様子は変わらなかった。どれだけ唱えても、からだをすり抜けていく。とっさに屈み込み、レイヴンの胸に耳を押し当てる。噛み合わない歯車の悲鳴のような、機械音の洪水が耳に飛び込んでくる。先ほどの戦闘の影響であることは明らかだった。けれど、音を聞いただけでは、何が起きているのか分からない。今まで心臓魔導器の検診の様子をちゃんと見ていたことはほとんどない。知識もほとんどない。わたしでは、レイヴンを助けられない。

「リタ……」

 ハルルで何か起きていたと言っていた。そちらに対処した者たちが、救援に来るのを待つべきだろうか。拘束した集団のこともある。ここを離れるのは得策ではないかもしれない。

――そんなこと、どうだっていい。

 リタなら、きっとそう言うだろうと思った。あきらめないと言ったのだ。涙を飲み込んで、ぐったりと倒れ込んだレイヴンの肩を持って起き上がらせる。かすかに呼吸をしているのが感じられた。腕を回し、体重を支えるように立ち上がろうとする。膝がある位置より上がらずに伸びきらない。レイヴンの体重がわたしより重いのは元より、気を失っていることでさらに支えるのは難しくなっていた。まだ立ち上がる前からハアハアと荒い息を吐いてしまう。空気をより多く吸い込むために、空を見上げた。ハルルで見上げたときと変わらない半月がぽっかりと木々の隙間に浮かんでいた。

「……行かなきゃ」

 わたしは、レイヴンを助けなければいけない。レイヴンを、リタに会わせなければいけない。それはずっとずっと願っていたこと。

「……ウンディーネ!」

 内に向かって呼びかける。わたしの胸の内側で、あたたかな声がする。

「――どのような用向きじゃ」

「急に呼んでごめんなさい、ハルルまで、ここからどのくらいありますか」

「……ここは古の呪いの森。花の街まで、人間の足でなら、日が昇る前までにはたどり着くはずじゃ」

「クオイの森……! ありがとうございます、それなら、きっと大丈夫です」

 クオイの森なら、ハルルからさほど離れてはいないし、道も分かる。

「わらわは……今や世界に遍く力を分ける身、そなたのためにすべてを捧げることはできぬ」

「分かっています、いつも居てもらうだけでも、どんなに……だから、わたしは、自分の願いをきっと果たします」

 声は少しの時間をおいて、一際強く響いた。

「……加護を、一欠片、授けようぞ。精霊といえど、運命までは変えられぬ……けれど、そなたたちが変えたいというのなら、わらわたちはそれを受け入れよう……」

 体中に水が満ちるように、感覚が手足の先まで流れ込んでくる。もう一度、レイヴンの体を支えたまま立ち上がる。膝がぐっと伸びる。先ほどよりは、上手く支えられるようになった。

「ありがとう……」

 胸に手を当てて、言葉を届かせるように口にする。レイヴンの背中は大きく、わたしの腕はとても届かない。ずっと気を張っていないと、体がすぐにずり落ちてしまいそうだった。レイヴンの靴が地面に擦れて、歪な音を立てる。わたしは一歩ずつ歩き始めた。倒れ込んだ集団を背に、森の出口を目指す。赤い花を踏んでしまった。ごめんなさい、でも、と心のなかで詫びた。レイヴンの額に汗が浮き始めたのを見て、より歩を力強く進める。しっかりと深く呼吸して、全身の力が失われないように気を配る。

「……ああ……」

 ざあっと木立の間を吹き抜ける風がわたしたちを迎えた。鬱蒼とした木々のなかを抜け、開けた場所に出た。道の先に、ハルルの街がぼんやりと光って見えた。月明かりが、行く道を照らしてくれている。この道は、初めてハルルへ向かったときに通った道だ。

「もう、少し……ですよ、レイヴン……」

 レイヴンの体はちゃんとまだ温かかった。人の温度をしていた。それだけで、わたしはいくらでも歩けると思った。汗がぽたぽたと流れ落ち、涙と混じって頬を濡らす。これがほんとうのわたしの使命なのだと思った。わたしの好きなひとを守らなければ、生かさなければ。その言葉だけが何度も頭のなかで繰り返された。やがて時間の感覚も重さの感覚もうすれ、ただ足を前に動かしていた。支えた部分からレイヴンの体と一体になったような、そんな気さえしていた。街灯りが、丘の向こうに浮かび上がる。

「……エステル⁉ うそ……エステルっ‼」

「……エステリーゼ様‼」

 遠く、道の先から仲間たちの声が聞こえてくる。駆け寄ってくる姿の中には、確かにリタもいた。

「あ、あ……よか、った……」

 安心したせいか、かくりと力が抜けて、そのまま膝をつき倒れ込んでしまった。レイヴンの体が隣に折り重なる。

「……『みんなは、ひとりのために』まで、ですよ、レイヴン……」

 その温かな手を、もう離さないよう、しっかりと握った。